私たちはしばしば、多くの感情の波に見舞われる。それは喜怒哀楽とあるが、時間を経ていく内にその感情すらも単なる生理現象と、神経系、筋肉の反射作用ということに気がつく。それ以外に恥をかくと頬や耳を紅潮させるのを意識的に止めることすら並大抵の理性と諫止を要する。批難、驚き、苦痛、混乱、悲壮、義憤など多くの要因により窒息しそうな有様ではあるが、どうしてもその後も多くの感情が燻ぶり続けて、その要因に対する報復や債権も躊躇なく実行するのが一つの人間的な印でもあり、それが当たり前に実行されてきたので、その営みがなされなければ損や、遅れこそ生じるとも疑わずに難なく繰り返してきた。幾多の残酷な悲劇、様式的な堂々巡りの対話、道化じみた同義類語反復の形式、青年を批判する老年たち、防衛手段としてのスクールカーストその物、不自然で恣意的なあまりにも大仰な説教、躾としての苦痛を伴わせる折檻、反動的な猟奇的行為など何かに突き動かされるように体はその痙攣を引き起こしながら行為する。何の負い目も知らない人間的な営みであり、私たちの体は誇りや矜持を以てそれを行う。しかし、時代とともにその弁髪も道を歩むにも障碍になり、何世代もかけて少しづつ風化がなされ若しくは、新たな力への奉仕の為に、その弁髪を苦悩の中に切り落とす。それが多くなされるそういった世代こそ大きな転換期では無きにしも、その時代への曙光であり、荒廃の危険が、より神経過敏な黎明期に襲われるが、一つの妙な願望も湧き上がるのである。それは、それら人間的な営みを否定し、それに抗おうとする「非」人間的な優越であり、その虚栄心や精神の矜持はその狂信的な理性で以て「いかなる敵意へ微笑や祝福で応えこそ報復しなかった」と非人間的な優越でカタルシスを覚えるのである。ともあれ、精神はあの恐るべき軽蔑の教師になり、自己をも軽蔑対象にするほど絶望する。彼らの体は、心は、どうなるのであろう? パスカルの二の舞いにでもなるのであろうか?即身仏の僧侶のミイラ達と、それにも似た著作家たちの血で描かれた言葉たちにより、我々の魂はどこに行き着くのだろうか?
死者の書に踊るのをもう辞めてしまおうと思える日が来る時を、軛が軽くなるほどに力強く踊れる運命の奴隷になれるように、自由の歌を歌える時を!ニヒリズムを知りつつ、それを乗り越えようという快活な歩み足を!それらは甘ったるい理想であろう。まあ、ここで一つドブネズミどもに命題を。「名誉の為に戦うのではない、死力で戦ったからこそそれが誉れになる。」これは一つのエニグマである。欺くための秘奥であり、力への意志の秘密の鍵でありうる。さて、それは単純なものであり、幾重に解釈可能なものであるし、ペテン師の教えかもしれない。一体、彼らは何をしようと、そして、何を教えたかったのだろうか?そこに多くの謎がある。それを解き明かすと虚無な回廊に突き当たるが、決して思考できないものではないように思われる。それは世迷い事なのか、譫言なのか、判断にも困るが、君たちはそれを世界へ掲げることを躊躇うかもしれない。それを守るための荘厳で巨大な神殿や堅牢な王宮を作ろうと躍起になると、何か出来上がってくる。さてそれは何だろうか・・?それを見た時、そこから私たちは何某を始めることが出来るのである。
死者の書に踊るのをもう辞めてしまおうと思える日が来る時を、軛が軽くなるほどに力強く踊れる運命の奴隷になれるように、自由の歌を歌える時を!ニヒリズムを知りつつ、それを乗り越えようという快活な歩み足を!それらは甘ったるい理想であろう。まあ、ここで一つドブネズミどもに命題を。「名誉の為に戦うのではない、死力で戦ったからこそそれが誉れになる。」これは一つのエニグマである。欺くための秘奥であり、力への意志の秘密の鍵でありうる。さて、それは単純なものであり、幾重に解釈可能なものであるし、ペテン師の教えかもしれない。一体、彼らは何をしようと、そして、何を教えたかったのだろうか?そこに多くの謎がある。それを解き明かすと虚無な回廊に突き当たるが、決して思考できないものではないように思われる。それは世迷い事なのか、譫言なのか、判断にも困るが、君たちはそれを世界へ掲げることを躊躇うかもしれない。それを守るための荘厳で巨大な神殿や堅牢な王宮を作ろうと躍起になると、何か出来上がってくる。さてそれは何だろうか・・?それを見た時、そこから私たちは何某を始めることが出来るのである。