私はここにいる。どこか遠くにいるわけではない。変わらず進歩も無しにここにいる。そして、私を形作っているのは時間と空間と概念と世界。私は世界。私を操るのは世界。摂理と意志と表象により動かされている。私に意志などない。自由意志などあまねくこの世に存在していない。あるのは意志だけ。意志は仮象であり、表象は仮象の反映であり、蠢く虚栄により、その身をこの声たちを羽ばたかせる。軽く、愚かに、しかし、陶酔的に!酩酊に沈みながら! 私達はあるはずもないイデアを、あるはずもない観念を、あるはずもない迷妄に踊りながら死んでゆく。しかし運命を、酷い運命を自覚的に演じる俳優こそ彼らは初めて世界を欺く。生とは幸福を求めることにあらず、安息や平穩を求めることにあらず、人から愛されることにあらず、眠り続け動かないことにも無い。悔いを省みること無い、刹那を愛する運命への忠誠を尽くすこと。ただ従うのではなく、闘争と融和を続けながら乗り越えること。否定し逃げることに何の意味があろう・・? 何処へ逃げても運命は汝らを追いかけてくるであろう。何処へ逃げても時間は汝を閉じ込めて、繰り返し位置を占めるために闘争を挑んでくることだろう。大体理想なんて言葉は意味に合っていない造語でありイデアの受売りである。形而上学に反する非論理なのだ。この世にはないからこそ彼岸的で美しく見えるのであり、この世に来た途端に彼らの思う理想は色を無くし、土手にでも捨てられるお笑い草を演じることであろう。世界は無意味であり、無価値であり、生きる意味なんてそもそも無かったのである。それも単なるイデアリストのクズ共が語る喚き散らしと駄々ごねが何世紀も現在までに後を引いた嘔吐物の結果だったのである。無いものを手に入れようとしても手に入れられないのは至極当然と言うべきであろうか。
現実を肯定するものも只のポエマーどもである。肯定しか出来ない者は私にはただの豚のように思われる。
肯定するものはただ一つ、自己だけで十分である・・。愛とは何ぞと問われれば、私は迷いなく「私」と答える。しかし、この世に跋扈する愛は間の悪い勘違いをされているように私には思われて仕方がない。無償の自己犠牲を愛だと抜かすものはもはや手遲れの呪いを掛けられている。それは愛ではない。おぞましき「呪い」である・・。十字架に掛けられた慈悲は人の力を奪い、足を引っ張る、傷の舐めあいであり、胸糞悪い同情を私達。趣味者(世を味覚する者)に強いる暴力と許されるはずもない押圧なのだ。私には押し付けがましいこのなれ合いが病院の匂いと不健康で換気の悪い空気が立ち込めるサナトリウムに映る。そして、それが創作や媒体や似非藝術を通して、私達の自我を病気にかけて儲けを得ようと誘惑を呈する。「孤独や寂しさが嫌ならこれを見て心を空想の中でも安息させるが良い」と。孤独や寂しさが悲惨だといつから錯覚していた? しかし、恐怖や不安は隔生遺伝である・・。それに慣れていたものにはある種の恐怖は何世代も通じて染み付いてしまっている。彼らは気の毒であるが、もう逃れようが無いだろう。私達は強いられているのであろう。愚かな喜劇を演じる劇役者として、自己が行ってきた所業によって軽やかに規則的に踊りながら、流暢に台詞を発ししていく他はない。そして、私もまたパラノイアに侵されている。そのため、私は何回も私を殺さなくてはならない。無駄なことであるのは分っていても自己を愛するがゆえに、何度も何度も殺して、痛みつけるのだ。それは無駄なことだ。お前には支配した物を派手に愛おしく描く能力に乏しいに過ぎる。消化不良であり、不健康な精神状態である。何度愛しき者共を破壊しても、何も生み出せはしない。生み出すことの出来ない人間など無価値である。一切の読書、一切の知識、一切の忘我をやめよ。