「どちらか解らない」これが世界である。それ以外の何ものでもない。どちらかが確かな観念などは古来から存在すらしていない。敢えていうならば、精神の中になら存在はしていたが、それはイデア、お笑い草の理想主義に過ぎない。総てはとどまることなく、永劫に循環運動を続ける。まるで何事にも噛み合うパズルのピースのごと。しかし、我らの世界はパズルのピースのごとき比喩には収まらないほど途方もなく対立、融和、消滅を絶えず繰り返す。あらゆる物質、あらゆる精神、あらゆる色彩、理に触れては転変する回帰運動。増加もなく、損失もなく、収入もなく、無限の広がりを持つのではなく、有限の認識、それは時代を超えてすり替えられては再び生成される。かのショーペンハウエルにとっては何ら喜びを齎さぬ、身の毛がよだつ現象として、意志の自己分裂する証明であり、陰惨沈鬱な衝動、自己破壊をしながら細胞を食い荒らす生理なのであろう。諸君らが話したり語る全ては明日には嘘になるのだ。言葉にした瞬間、各々の意志など潜り込んで衣装を纏う。‥‥とそんなことを語ったとて、なんのことでもない。言葉にするとしないでは大きな違いなのだから。我らはその意志のまにまに、ただひたすら歩き続けるしかない。この愚かしき何ともならない世をただ肯定し、必然と受け入れる。過去ばかりを否定し未来に生きたり、未来ばかり否定して過去を懐古に生きたりするのはどちらも既に退廃しているのである。甲乙ともに絵に描いた典型的なデカダンなのだ。対立における権力への意志。それ自体が今や小生から言わせてみれば愚かしきデカダンなのだが、価値観とは両者の押し付けあいであり、確固たる美だの、確固たる価値なぞを言いたてるのは相対的なものでしかなく譫妄なのである。全ての事象には意味などない。無価値、無意味、ニヒルな喜劇。それらが二千年に渡り勝利を収めてきた。我らにはこのニヒリズムに太刀打ちする名刀を常にへし折られ、壁の前にひざまずきながら命乞いをしながら地に付していて死んでいたのだ。今の私も死んでいるのかもしれない。否、死んでいるのだ…サテュロスであるギルガメッシュは結局、不死を得られずに死んだ。私たちの求めるものは見えるが、手に取ることは叶わない。私は既に気付かぬうちにデカダンになっていたのだ。生まれなければよかったものに、今すぐ死ぬべきものに。今やそれ以上もそれ以下でもない。