敵からの贈り物。感情的になり熱量が上がると我々の体は張り詰めた筋力の緊張を、眼前の敵に目掛けてぶつけることに躍起になっている。それは内に秘めていた苦痛の緩和が幾分かはましにはなるか、もしくは、新たな痛みの種に自己の意識を向けさせることであの自己自身の苦痛を忘我するということである。
是非とも宿敵を大切にすべきである。彼が私を嫌いであっても、それが私にとって何の関りがあろう。私が彼を嫌いであっても、彼にとってそれは何の関わりもない。敵を恨み、憎しむことに何の意味があろう?宿敵と決別をする時。それは自分にとって彼が、何の利用価値も無くなったからである。しかし、その苦しみを渡すためだけに彼を利用することは卑俗の印に他ならない。我々は水と油のようなものである。水から油に浮き出るのを見て我々は、内にある強い自我を知るのだ。我々は絶対にお互いに分かり相容れない。それ故に、我々はお互いに似たもの同士なのだ!おお、己の認識と探求へ忠実な信徒よ。自我と精神の目を閉じるに長すぎたが故に、「その債務を支払うために我々はどれだけのものを失ってきただろうか。そこまでして守るものとはいかほどのものだというのか。」その価値に気づけた者から心は純化される。その時に彼もまた、かの日の蜃気楼を見る。在りし日の陽光に照らされながら、心はあの暖かな快活な海や山上に霞むことなく揺らめく赤き日を思い出し、それらに歓喜した子供であったことを我々は思い出す。子供の義務である遊戯に真剣になる。その純粋無垢の前ではもはや、あの無粋な感情は消失している。自分にとっての不倶戴天への感情は祭禮の証や霊標へと代わり、それは自然へと帰っていく。
精神も体の新陳代謝と同じでよく消化を行うのだ。体と精神は密接に関わり合いを持っている。栄養を取ることに不慣れなものは全ての世界を陰鬱に見る。それは先祖代々が一口の栄養食を取っているか、取っていないかでは天と地の差である。創造性ある者は全身を栄養が駆け巡る術を体の細胞が覚えているので、目に見えるものや感官で知覚するものが煌く豊かな太陽や芸術の断片のように映る。反対に十分に栄養が満ち足りなかった者や、その術を心得なかった劣等な者の内では、それらは陰鬱なものや、また不安を煽るもの、粗末なもの、稚拙なものに感じるだろう。畢竟、それら全ての人々において彼岸が存在する。それへの後始末、折り合いをつけるために必要なもの、古代から人類はそれを「カタルシス」と呼ぶ・・。
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