フォト短歌Amebaブログ

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当ブログサイトは、写真と短歌、ときおり詩などもコラボしたフォト詩歌などを随時紹介して参ります。



岩手県の玄関口、一関市から北に車で約30分、奥州市がある。その中心となるのが旧・水沢市である。
水沢駅から南西に徒歩で約10分、春は花見客で賑わう公園がある。水沢公園である。
設計は蓑虫山人。
本名は土岐源吾。投身自殺を図った西郷隆盛を助けたとの逸話もある人物。
折りたたみ式の幌を背負いながら全国を放浪し、公園の建設を手掛ける造園家として、また南画を基調とした文人画を得意とする絵師としても知られる。旅先では宿賃代わりに絵を描いたとも云われている。

その蓑虫山人が手掛けた公園建設の中で一番の規模を誇る水沢公園に、久方ぶりに訪れてみた。
園内には、水沢三偉人として誉れ高い、高野長英の記念館や後藤新平、斎藤實の銅像が出迎えてくれる。
また、園内には松尾芭蕉や太宰治の石碑、正岡子規の句碑などがあり、私は今回、正岡子規の句碑を確認しに行ったのである。
今から40余年前、高校当時は頻繁に訪れていた筈の公園だが、当時はあまり文学碑に興味がなかったこともあり、その存在すらも記憶に残っていなかった。

正岡子規は芭蕉の「奥の細道」を偲び、明治26年7月19日に東京を立ち、35年の人生のなかでたった一度だけ、約一か月間にも及ぶ大旅行を敢行している。    
仙台から山形の酒田、更には秋田を訪れ、奥羽山脈を越えて岩手に入った。湯田町、北上市を抜け、水沢市を訪れ、水沢公園へと足を運んだ。そこで詠んだ一句が、「背に吹くや五十四郡の秋の風 」そのことが『はて知らずの記』に記されている。
その『はて知らずの記』によって、水沢公園は名園として名を高めたとのことである。
子規はその後、芭蕉が訪れた平泉には立ち寄らずに東京に戻ったとされる。
翌年、子規は結核の為、35歳でその人生の幕を閉じたが、水沢公園で詠んだ背に吹く秋風の冷たさが、体調を悪化させたのかもしれない。本当なら、平泉に立ち寄り、芭蕉の句碑を拝みたかったに違いない。

私は高校時代、下宿生活を送っていた。下宿先は3か所。当時はあまりに品行方正さが過ぎた為か、2つの下宿をおんだされた。何れもこの公園周辺の下宿屋であり、毎日のように公園周辺を歩いていた。休日には公園内にある陸上競技用トラックで走ったり、友人らとキャッチボールをやったりとよく遊んだものだ。
初めてのデートもやはりこの水沢公園だった。高校の全体集会の折、彼女ひとりだけ輝いて見えた。
それから何度か公園でデートを重ねたが、彼女は看護の道に進みたいと、看護学科のある大学を目指す為勉強に打ち込みたいとのことだった。

男らしく、その意を汲み、「じゃ、最後に握手で別れよう」と、彼女の柔らかで小さな手を包み込むように、両手で優しく握ったのだった。それ以来、一度も会ってはいない。
水沢公園は私にとって、甘酸っぱさとほろ苦さの残る思い出の場所であり、心の原点でもあるのだ。






新型コロナと向き合い、戦っている医療従事者の為に、祈り、感謝の気持ちを送りたい。
目に見えぬ敵がいつ襲ってくるのか、常にその脅威に晒されながらも職務を全うする姿に、只々、頭が下がり、 畏敬の念を抱かずにはいられない。
常に感染のリスクがあるとして、ゆわれなき偏見に晒され、家族が巻き込まれながらも、世の為、人の為にと自身を犠牲にして頑張っている。
身も心もふらふらになりながらも。

「ネット上には1万人のスタヴローギンがいる」と、どこかの歌人が嘆歌(短歌)を詠じているが、本当に嘆かわしいことだ。
利他愛の精神を持ち、尊い命を救おうと必死になって頑張っている人たちに感謝し、祈りたい。
9年前の東日本大震災でも、医療従事者の献身的な活躍は目を見張るばかりだったが、それによって数多くの尊い命が救われ、明日への希望を繋いだ。
本当にありがとう。