何年前だろう、この治水神社を知ったのは。
何故か島津の家紋。
ここは岐阜県。関ヶ原からは 20~30キロは離れている。
島津は西軍だったが、治水神社って関ヶ原とは関係なさそうな名前。
関ヶ原での島津軍は凄まじかった。
西軍が総崩れして逃走を始めた中で、突如正面の敵に射撃開始。
僅か1500名の寡兵をもって敵中突破を敢行。
福島隊、小早川隊を抜き、あわや家康本陣という地点にまで達し、そこで転進、
伊勢街道目指して撤退を開始。追撃する井伊直政、松平忠吉に鉄砲を浴びせ、
本多忠勝を落馬させる。
まさに少数精鋭の島津兵が大損耗しながらも敵の大海原を大胆不敵に中央突破し、
果たして島津義弘は堂々と落ち延びたのだった。
この攻撃的な撤退戦は「島津の退き口」と呼ばれ、負けはしたが「島津おそるべし」
と語り継がれる事となった。普通、退却をする時は後ろに下がるものだが、この時の
島津軍は正面の敵に鉄砲を放ち、前に突撃して血路を開いて己が君主を落ち延び
させたのだ。伝説の殿(しんがり)戦と言われる由縁である。
それから150年・・・
島津藩は、濃尾平野の治水工事を幕府から命令される。
名神高速を走ると、大垣から一の宮JCTまで僅か10キロたらずの区間に
大きな川を3本も渡る。揖斐川、長良川、木曽川だ。
この3つの川が伊勢湾に近付くにつれ互いに接近し合う。
過去、下流部では分流・合流を繰り返し、水害の元凶であった。
この治水事業を幕府は島津藩に命令する。
費用はすべて島津藩が負担。これは幕府の外様イジメの一環でもある。
島津藩内では戦争を辞さないと紛糾するも、家老の平田靱負(ひらたゆきえ)
が強硬論を抑えて命に服することとした。
↑鹿児島ライオンズクラブによる建立。台石は桜島の溶岩。
幕府の妨害工作、過労死、疫病、工事中の水害などで工事は困難を極めた。
これにより薩摩義士自害52名、病没33名の犠牲者を生んだ。
東郷平八郎の筆。
そして・・
昭和13年、治水神社を建立。
↓日向松による千本松原
幕府の態度には気分が悪くなりますが、岐阜県と鹿児島県の友好の輪は現在も強い絆で結ばれているようです。
鹿児島県と岐阜県の姉妹県盟約
http://www.pref.gifu.lg.jp/kensei-unei/kocho-koho/kagoshimaken-koryu/meiyaku.html
岐阜県海津市と鹿児島県霧島市の友好提携
鹿児島市と大垣市の姉妹都市盟約
2007年まで、岐阜・鹿児島の小中教員が相互に転任して交流をはかっていた。
(鹿児島県側からは現在も継続)
岐阜県海津市平田町には平田公園に平田靱負(ひらたゆきえ)の銅像がある。
http://www.kk-giken.jp/hiratapark/facilities/index.html
三重県桑名市の海蔵寺には薩摩義士の墓所があり、平田靱負の像がある。






