(NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」より)
伊丹の言う「だます」という言葉。
… これは「愛国心」のことなのではないだろうか?
新聞が、ラジオが情報を煽り、街に特高警察が闊歩する。
戦争が起こる前まで、呑気な日常を過ごしていた平凡な庶民が、ある日、まるで吸血鬼に血でも吸われたかのように「だまされて」、愛国者へと変貌してしまう。
「愛国心」を要求する「だます側」、変貌する「だまされる側」。
愛国者に変貌した者は、まるで権力の代行者のように、監視する側に回る。そんな変貌は連鎖して、街は瞬く間に愛国者だらけになり、衆人監視社会ができあがってしまう。
ものの言えない社会。
蓄積された不満は、形を変え、異端者へと向けられる。
彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏(ほきょう)につとめていたのであろう。
戦時中、すでに病床の身だった伊丹、彼自身は何も変わっていない。変わったのは、彼の周囲のすべてだった。
(NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」より)
そんな世相について、伊丹はこう続ける。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。
そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
無計画な戦争によって、「国民同士が苦しめ合うしかなかった」=「国民同士がだまし合うしかなかった」、ではないのか?
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
日本人の「自己欺瞞」を露わにした、厳しい批判である。
戦時中、あれほど「愛国心」を掲げ、衆人監視をしてきた日本国民、それが戦争が終わった瞬間に、自分が「だます側」でもあった事実を、都合よく削除してしまっている。この感覚、今も変わってない、実感をもって理解できる。
この一連のフレーズでは、「承認する」という言葉が2度使われている。これは何だか、相手に印鑑でも押させるような、強い印象を感じさせる。
「だまし合っていた」ことを認めるだろう…、と。
(NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京」より)
伊丹はさらに、「この戦争でだまされた」という人々に問いかける。
「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか」
辛辣だとは思わないか?
前回のブログの<付記>で、学徒出陣直前に服毒自殺した学生さんの話を記した。もし、あの母親にこんな質問を投げかけたら、彼女は正気を保つことさえ難しい状態に陥ったかもしれない。
少し長くなったが、今回の最後にこの言葉を読んでほしい。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
「戦争責任者の問題」
僕はこの文章をここまで読んだところでPCを離れ、近くのコンビニエンス・ストアまで買い物に出ることにした。
玄関のドアを開けて、外に出る。深夜の空は曇天で、今にもまたパラパラと小雨が降りだしそうだった。静まりかえった住宅街、すっかり冷たくなった空気の中を僕は歩き出す。往復で10分程度、こんな時間が欲しかった。
胸には言葉が刺さっていた。
何かにたどり着くかもしれない…。
そんな僕の予感は、きっと実感に変わるだろう。
<④につづく>



