3月11日に思う。 | 追憶の骨 (bones)

追憶の骨 (bones)

音楽や映像だけでは残せない、あの時の僕たち。




Beethoven Piano Sonata No.8 in C minor Op.13 Ⅱ
 / Glenn Gould



Gould が弾く、 Beethoven の "悲愴" 、第二楽章。

今日の選曲は昨年と同じ、やっぱりこれだ。
恐らく、これは毎年の事になるだろう。

崇高な思いも過度な演出もない、素朴で淡々と流れるピアノ・ソナタ。
音楽が日常に降りてきて、言葉にならない思いを代弁してくれる。

だが、そんなピアノ・ソナタとは相反して
今年の僕は暗澹とした気分を抑えきれない。



阪神・淡路大震災が発生したのは何月何日か。

1月17日。仮に即答できなくなくても、気にすることはない。

僕たちは忘れてしまうのだ。



東日本大震災から3年。

テレビでは報道番組や追悼番組が流れている。
この場面をよく覚えておこうじゃないか。

3年という年月、継続していた何かは今日で終わりだ。
これからは年に1度の「追悼の日」になるのだろう。

そして東京オリンピックの頃には、
もう忘れてしまうのかもしれない。


3月10日は「東京大空襲の日」と呼ぶべき日だ。325機のB-29が人口密集地帯に1800tの焼夷弾を投下し、10万人以上の東京の一般国民が虐殺された日である。広島、長崎、沖縄、東京、大阪・・・、特攻隊の映画に涙する僕たちは、その何万倍の人数の、自分たちと同じ、普通に生活していた一般国民の無念を忘れてしまっている。

「勝ち目のない戦争を止められなかった」

東京大空襲の1年以上前から、戦況は悪化の一途、原油の輸入も断たれた日本に勝機はない、そのことは当時から解かっていた。でも止められなかったのだ。その結果、多くの一般国民の被災者が出たにもかかわらず、その責任は曖昧のままだ。そして戦後、軍人には多額の補償がされたが、一部を除いた一般国民には一切の補償はされていない。僕たちは、それさえ忘れてしまっているのだ。

被害は国民が受任すべし…、政府だけは忘れない。



原発再稼働の準備が着々と進められている。

それと同時に僕たちは、「福島原発事故を忘れる」という段階へと移行し始めている。原子炉のメルトダウンも、高濃度汚染水の海洋投棄も、深刻化する健康被害も、すべてを日常から消し去ってしまおうとしている。もう、聞きたくないのかもしれない。

「戦争を止められなかった事」を検証もせず、曖昧なまま忘れてしまった僕たちには、原発を止めることなんて無理なのかもしれない。
何十万人の国民が被災したところで、僕たちは「反省」も「教訓」も、何ひとつ手に入れることができていない。その愚かさは形を変えて、また新たな被災者を平気で生み出すだろう。

その被害は国民が受任すべし…、のまま。



さらに僕たちは、敗戦の事実を忘れ、戦後の講和を忘れ、平和憲法も、いや立憲主義さえ忘れようとしている。基本的人権さえ、もう忘れてもいいと思っている。20世紀の100年間、世界中が血を流して、ようやく獲得したものを、僕たちは忘れようとしてる。


今年、こんな想いで聴く、このピアノ・ソナタ。

音楽は日常を離れ、遥か天上へと移動する。天上から聴こえるこの音楽は、懲りない僕たちの「愚かさ」を浮き彫りにする光のようだ。僕が苛まれている「無力感」さえ、もう見透かされているような気がしてくる。

来年の今頃には、かなりの数の原発が、再稼働しているのだろうか。

そう思うと、追悼の意さえ、もう社交辞令なのかもしれない。


<おわり>

  3月11日に思う。(2013年)