震災直後、テレビやラジオで1時間ごとに発表される、福島県各地の放射線量
全国のニュースでは発表されているんだろうか?
放射線飛散量の正常値(1時間あたり)
0.04マイクロシーベルト。
私の町 郡山市は(先週平均値)
3.00マイクロシーベルト。
毎日毎日、約100倍の被爆を受けています。
今、現時点で身体には影響は無いといっても被爆しているのは事実なんです。
私のように楽天的な人間ばかりではありません。
本当は、毎日毎日、見えない恐怖と戦いながら、震災の影響が少なかった福島県人は必死に一生懸命働いています。
現在、避難所で生活している福島県人が、また福島県人として働けるように、生活出来るように頑張っているんです。
お願いです!一生懸命働いている福島県人を これ以上 痛めつけないで下さい……。
書ききれない程の悲しい事実は後日、心落ちつけて書きたいと思っています。
私は震災後、独り吠えているバカな男です。
被災後も働ける環境がある私は、ただ寡黙に笑顔を振りまき自分の家庭と会社を守れば、それでいいんだと思うんです。
それが出来ないバカな福島県人なんです。
私の母親の父(祖父)は九州の長崎県出身です。
私の父親の父(祖父)は新潟県の長岡出身です。
雲仙普賢岳の土石流災害時、祖父の兄弟が犠牲になりました。
中越沖地震の際は祖父の親類が被災にあいました。
私と付き合いの長いブロガーさんは過去の記事で読んだ事があるかもしれませんが、学生時代に悪事をした戒めとして恩師に勧められ約束をしたのがボランティア活動でした。
色々な活動に参加するにつれ私自身の心にある何かが変わったんです。
そして、悪夢の阪神神戸淡路大震災当時独身だった私でしたが、弟同然のボランティアサークルの後輩が転勤で大阪にいて震災にあいました。
幸い命に別状なく住居もかろうじて住める状態でした。
連絡が取れた私は無我夢中で車に沢山の物資を積み込み被災地に向かいました。
テレビで何度も映った高架橋が崩れ落ちた場面を目にした時には唖然としたのを今でも覚えています。
そして後輩と合流し安全を確認し抱き合いました。
そして後輩に連れられて行った被災地……。
あまりにもショックで見回す事しか出来ませんでした。
そしてその惨状の中、後輩が避難所のボランティアをしている事を知りました。
悲観する事なくボランティア活動をしている後輩に心のスイッチを入れられ心の鐘が激しく鳴り響きました。
その日から1週間でしたが急遽ボランティアに参加させていただきました。
そして前向きな関西の笑顔と行動に逆に力を頂きました。
この日本人として前向きな思いと震災地で学んだ経験を絶対に無駄にしないと心に刻んだんです。
そして帰り道を福島県に向かわず、もう少し車を走らせ転勤で広島県に住んでいる先輩宅に行きました。
どーしても原爆ドームと平和記念館が見たくて。
何度か尾道が好きで、先輩宅には行きましたが、悲しい過去を直視するのが嫌で避けていました。
でも大阪と神戸の惨状を目にし、やはり日本人として逃げないで事実を目に心に刻もうと広島に向かったんです。
絶対に原爆、放射能の悲劇は繰り返してはいけない、おこしてもいけないと私の体に刻んだんです。
その後、繰り返された天災、中越沖地震。
私の脳裏に心に刻み込んだ日本人の魂が、やはり私の足を新潟県へ向かわせました。
そして避難所でのボランティアに参加しました。
私が経験した内容は、被災者からみれば一瞬の事、復興するまで毎日毎日続く悲しみと苦しみは、計り知れない事だったでしょう。
そして悪夢のあの日、今まで見たあの惨状が脳裏をかすめ、私は何をすべきか、何を早急にすべきかを自問自答し行動してきました。
でもゴールが見えません。
朝、目覚めると新たな壁が。
見た時もない日本人が作った人災の壁……そして風評被害。
どれだけ耐えればいいのでしょうか?
どれだけ頑張ればいいのでしょうか?
被災後、行方不明や連絡が途絶えた知人友人が全員無事確認出来たと胸を撫で下ろした昨日の夜だったのに……。
今日、新聞やテレビで知った風評被害で自らの命を絶ったのが、妻の友人の父親だったと……。
私は明日も見えない敵と戦います。
休む事は出来ません。
バカと思われても真実を訴え続けます。
それが今、私の出来る戦い方です。
男として福島県人として戦います。
負けません。