こんにちは WIING WSCスタッフです。
日産自動車の歩みは、日本の近代産業史そのものと言っても過言ではありません。
日産のルーツは、1911年に橋本増次郎氏が設立した「快進社」まで遡ります。
その後、実業家・鮎川義介氏が「日本産業」の傘下として1933年に
自動車製造株式会社(翌年に日産自動車へ改称)を設立したことで、
その歴史が本格的に動き出しました。
戦後、イギリスのオースチン社との提携を経て、日産は急速に技術力を高めます。
1960年代にはプリンス自動車工業と合併し、伝説的な名車「スカイライン」を継承。
さらに「ブルーバード」や「フェアレディZ」を国内外で大ヒットさせ、
モータースポーツ界でも圧倒的な存在感を放つ「技術の日産」という不動のブランド
を確立したそうです。
そのブランドを裏付ける伝説のエピソードは、今も語り継がれています。
1. スカイライン GT-R・不滅の「50連勝」伝説
1969年に登場した初代「ハコスカ」GT-Rは、デビュー戦から破竹の勢いで
勝ち続け、1972年には前人未到の公認レース50連勝を達成しました。
当時は「GT-Rが勝つのは当たり前、負けたら大事件」と言われるほど無敵の
存在であり、多くの若者が熱狂したそうです。 さらに1990年前後には、
R32型GT-Rが全日本ツーリングカー選手権(JTC)で29戦29勝という
信じられない記録を打ち立て、伝説を再降臨させています。
2. ブルーバード・「ラリーの日産」を世界に知らしめたサファリ
1970年、世界一過酷と言われた東アフリカ・サファリラリーに参戦した
ブルーバード(510型)は、並み居る欧州車を抑えて総合優勝・クラス優勝
・チーム優勝の「三冠」を達成しました。 この激闘は
「日産の車は世界一強くて速い」という認識を日本中に広めました。
3. フェアレディZ・ラリーの常識を覆した貴婦人
1971年、それまでラリーには不向きとされていたスポーツカー、
フェアレディ240Zを投入。その高い動力性能と信頼性を武器に、
初出場でいきなり総合優勝を飾ります。この成功が北米での「Z(ズィー)」
(北米(アメリカ)では、アルファベットの「Z」を「ゼット」
ではなく「Zee(ズィー)」と発音します。)
人気に火をつけ、日本車がスポーツカーの本場でも通用することを世界に証明
しました。
北米で 「Z-car(ズィーカー)」という言葉が社会現象になるほどのブームを
巻き起こしたそうです。
これらのエピソードに共通するのは、
「世界一過酷なレースで、世界一であることを証明する」という
エンジニアたちの執念です。
当時の日産には、ライバルの数分の一の時間で修理を終える神業のような
メカニックチームや、コンマ数秒を削るために寝食を忘れてエンジンを
磨き上げた技術者たちがいました。そうした熱量が、ブランドの礎となった
ようです。
1990年代に入ると、バブル崩壊後の不況や多額の負債により倒産の危機に
直面します。1999年にルノーと提携。そして「日産リバイバルプラン」により、
徹底したコスト削減と工場の閉鎖を行い、わずか数年でV字回復を成し遂げました。
この時期、ファンを熱くさせたのが「GT-Rの復活」というニュースでした。
経営危機の際、日産は多くの工場を閉鎖し、車種も整理しました。
そのためファンは「もう日産から高性能なスポーツカーは出ないのではないか」と
不安を感じていたらしいです。そんな中、V字回復の象徴として、世界トップクラスの
性能を持つGT-R(R35型)が本当に発売されたことは、
世界中のファンを熱狂させました。ちなみに、この「R35型」も昨年2025年に
生産が終了し、現在は次期はどうなるのか?という感じのようです。
今回この記事では、 日産自動車が2024年度(2025年3月期)決算において
過去最大規模となる 6708億円の最終赤字を計上し、
2027年度までに世界で2万人規模の人員削減を行い、車両生産工場を
17から10拠点にまで集約するという、まさに「第2のリバイバルプラン」
とも言える過酷な再建策を打ち出したことについてわかりやすく説明して
います。
日産追加リストラ 2万人へ
日産2027年度までに2万人の人員削減へ
日産自動車は2024年度決算で6708億円の最終赤字を計上し、経営再建に向けて2027年度までに世界で2万人、全従業員の15%にあたる人員を削減すると発表しました。
業績悪化の要因には、アメリカ市場での販売費用増加や、過剰な生産設備の見直しによる5000億円超の減損損失がありました。
