未婚率全国トップの東京23区で進む「日本の未来」とは。孤独担当大臣も知らない、35歳から64歳の「都市型」の自由と孤独に焦点を当てた『東京ミドル期シングルの衝撃:「ひとり」社会のゆくえ』が上梓された。同書著者の一人である松本奈何氏が、社会的地位をめぐる視点から、シングル社会が抱える課題を読み解く。 【グラフ】兄弟・姉妹構成別の生涯未婚率 ■シングルへのさまざまな「視線」  「社会的地位のために結婚する」  最近のNHK朝の連続ドラマ「虎に翼」で、弁護士として資格はあるのになかなか仕事がこない主人公が発したセリフです。

 時代は戦前、女性の弁護士がやっと認められた時代ですので今とはかなり違う時代設定です。しかし、この状況には、ここまであからさまではなくても何か今も通じるものがない? と思った人も多かったのではないでしょうか。  単身者でいること、子どもがいないことによって、あからさまな差別でなくとも、例えば制度上何かと不自由であったり、他人から何かしらの視線を送られたりする単身者の声は、『東京ミドル期シングルの衝撃』 執筆にあたってのインタビューでも多く聞かれました。

 日本は伝統的な家族規範が根強く残っていることは多くが指摘している点です。異性の配偶者、そして子どもがいる姿が「正しい」という考えはまだまだ根強く、特にさまざまな法制度は家族が基準となっています。  ですので、単身者は、家族になる前の過程の一時的な状態、もしくは配偶者を亡くして家族を失った人ととらえられるか、もしくは何らかの理由である年齢に達したときに「結婚できなかった」、と捉えられることが多くあります。逆に結婚している人は、安定している人、「正しい」人生を歩んでいる人、なので信頼がおける、となるのでしょうか。

 実際は、ミドル期シングルたちの多くが、彼ら、彼女らなりの選択をしたり、やむを得ず、機会がなく、といったさまざまな状況の中で単身者として暮らしています。仕事や、自分のやりたいことのために、単身であることを選択し、安定して暮らしている人もいます。  また、結婚した人もいつ離婚したり死別したりするかはわかりませんし、むしろ配偶者に経済的に、もしくは日常生活で頼っていた人がひとりになると、その不安定さは大きいといえるでしょう。社会的に安定し、さまざまな分野で社会に貢献するには、結婚という状態がどれだけ関係するのかわかりません。

 

 それにもかかわらず、社会では結婚しているのか、いないのか、によってその人の状態を推測する傾向があることは今も根強く残っています。 ■年齢・性別による人生の規範  さて、私は仕事の関係で海外の研究者と交流することが多く、日本のミドル期シングルについてもこれまでさまざまな形で意見交換をしてきました。そこで質問されたり、議論になったりしたことを通して、この社会的地位とミドル期シングルの人たちのことを考えてみましょう。

 先日はニューヨークでさまざまな人々の社会関係を研究されているアメリカの大学教授と話す機会がありました。ミドル期シングルはアメリカの大都市でも大きなボリュームとなっていますが、日本ではミドル期シングルがどのような結婚観を持っているのか、シングルという状態が続くと思っているのか? という話題になりました。  『東京ミドル期シングルの衝撃』の中でも紹介されていますが、男性側は潜在的に結婚願望を持ち続けている人が多いが、女性は高年齢になると、このままシングルでいることを確信し、そのために準備している人も多いこと、などをデータを交えて話しました。

 教授からはなぜ女性はある程度の年齢(ミドル期)で、このままシングルだ、と思うのか? と聞かれたときに、例えば、といってクリスマスケーキの話を持ち出しました。もちろんだいぶ前の時代の話ですが、25日を過ぎるとケーキが安くなる(西欧では25日がクリスマスの本番なのでこれもおかしい話なのですが)ので、これを25歳を過ぎた女性の価値にかけていた、もちろん、今は25歳で結婚する人は多くはなく、このケーキの消費期限がもっと先に延びているが、依然として人々の年齢に対する強い意識は根強く、ある年齢を過ぎると結婚という選択はないもの、と思うのでは、と説明しました。

 そこから、それは、日本が年齢と性別で「こうすべきだ」「こういう状態であるべきだ」という規範が強いのでは、という議論になりました。教授は日本のデート事情を調査したこともあるそうで、この年齢・性別による人生の規範について話が盛り上がりました。  アメリカでももちろんエイジズムはあり、若く見えることに固執する人たちもいます。また地域が保守的であるとか、宗教の強さなどにもよって、正式な結婚が社会的に重要であるという考え方が根強い層も多くいます。アメリカだけではなく、多くの国ではやはり結婚、パートナーがいる、という状態で人を判断することはあるようです。

 

 ですが、そこに日本では年齢という要素がより大きく関係してきます。「この年齢であればこうである」という、年齢と人生のさまざまなマイルストーン(例えば結婚、出産、家を買う、など)が密接にリンクしていて、それから外れることが、社会の規範から外れてしまうように捉えられているのです。 ■80代でもオンラインで知り合った人とデート  アメリカのような多様な人たちが集まっている社会の中では、ひとつの規範、人生モデルに収まるようなことは難しく、年齢というファクターは日本より比重が低いように思います。

 例えば、アメリカで暮らしているときに見ていると、人々は年齢が上がってもデートをしたりすることはよくあることです。80代でもオンラインで知り合った人とデートをしている、などという話を身近で聞くと、日本の40代女性が、結婚はもう自分たちが選択する道ではない、もしくは周囲が、あの人はX歳だからもう恋愛や結婚はしないのね、と思い込むのは年齢による人生の捉え方が画一的すぎるのではないか、と、いう議論もさまざまな人から指摘されました。

 少し話は逸れるのですが、結婚や家族といった話題と同様に、欧米の大学関係者と話すときに不思議がられることが、日本では大学院に進学する人の多くが社会人経験を経ないこと、そしていったん仕事を始めると、途中で辞めてまた大学に戻ることは、これまで積んできたキャリアを手放す可能性があるためなかなか思い切れない、などです。  今でこそ、リスキリングなどということで社会人になってから勉強をされる方は増えていますが、欧米であるような、大学を出て何年か働いてからいったん仕事を辞めて大学院に戻る、ということは、それこそまだまだ「そうであるべき」人生モデルでは例外なのかもしれません。

 個人的な話ですが、30代後半でこれまでのキャリアと少し異なる分野で学ぶことにした私は、そのあとどうするの?  就職できないわよ、と周りからずいぶん心配されたものです。ある日、大学院の授業料を振り込むために銀行へ行ったところ、銀行員の方に、「振込票に大学に行かれるお子様のお名前を書いてください」と言われたことがありました。私のようなミドル期女性が大学院で学ぶとは想像ができなかったのでしょう。  それでも、私は幸いにも、大学院に進み、好きなことを学び、仕事も得て、なんとかやっているわけですが、他人とは異なる、年齢に即したわかりやすいキャリア、「そうであるべき」人生を送ってこなかったために、そこから生まれる誤解、妙な気遣い、不自由こと、などが時々起こります。そんなとき、社会にはこういったものを避けたり、我慢するのがいやで、あきらめてしまう人も多くいるかもしれない、と感じることがあります。

 

 

 

 アジアにルーツを持つ研究者ともよく話すのですが、これについては共感されることが多く、特に家族規範が日本と近いといわれる韓国では、ある年齢を超えてシングルとして生きることの難しさ、伝統的といわれる人生のパスから外れることへの社会的な視線について日本と同様の厳しさがうかがえます。ミドル期シングルという状態が望ましいものではない、と社会が決めつけ、それに抵抗するにも疲れてしまう、なので、なるべく「みえない」状態でいたいのよ、と自らのことを説明してくれた人もいました。

■エイジズムとミドル期シングル  さて、冒頭の「社会的地位のための結婚」に戻ってみましょう。ここでは、社会的地位というものは、年齢や性別といったものによってある役割を振り分け、その役割に沿った行動をするものに与えられる、とも捉えられます。  エイジズムという言葉はある年齢にステレオタイプをはめ込み、それによって差別したり、扱いが変わることであり、高齢者も若者も、ミドル期も、誰でもそれに該当する、と言われています。

 どんな年齢で何をするか、それをしないなら、どこかおかしい人と思われる、というのであれば、才能のある若者や元気な高齢者、そして地域で活躍したいミドル期シングルも、居場所、活躍する場をなくしてしまう可能性があります。  自分のことをわかってくれる少数の仲間たちとだけ付き合い、その他とはかかわらないでいよう、みえないでいよう、というのはなんとも残念です。人口減少が進み、気候変動等による苛烈な自然災害が頻発し、戦争がやまない世界の情勢などを見ていると、このようにひとつの「そうであるべき」人生モデルによって役割を規定してしまう余裕が私たちにはないように思えます。

 すべての人が活躍、ということが簡単に言われますが、まずは、年齢やそれに紐づく婚姻状態で人々をステレオタイプ化せずに、個人として社会に認められることは大事です。  私がかつて暮らしていたアメリカの中規模の町では、地域の活動、NPOなどに多くのミドル期シングルが参加していました。知恵も体力もある彼らは、別にシングルだから、未婚だから、と臆することなく、むしろ主力メンバーとして、高齢者、家族、若者たちをリードしていました。

 

 

■パートナーに出会っても出会わなくても  『東京ミドル期シングルの衝撃』で語られたシングル像は多様です。  結婚を望んでいるのに経済的に無理だと思う人、周囲を見ていて家族を作ることのわずらわしさを感じている人、なんとなく今に至る人、それらの人々も将来ずっとひとりでいることの不安は抱えています。  何歳になっても、ひとりで生き生きと暮らしていてもいい、パートナーに出会ってもよい、出会わなくてもよい、結婚という形態をとらなくても信頼して面倒なこともいっしょにできる人が、異性でも同性でもいていい、そして結婚していないということはひとつの個性であって、それだけで社会的に何かを示すものではない、ということが地域や社会で理解され、多様性が当たり前になることが、将来の姿として見いだせるようになる日は来るでしょうか。

 それは1人ひとりの考え方の変化の積み重ねはもちろん、さまざまな制度の変更、多様なロールモデルの登場などを必要としているのです。