なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか、張り紙が増えると事故も増える理由とは、飲み残しを放置する夫は経営が下手……。わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。そもそも「経営」とはなんだろうか。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い  経済思想家の斎藤幸平氏が「資本主義から仕事の楽しさと価値創造を取り戻す痛快エッセイ集」と推薦する13万部突破のベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が日常・人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語る。  ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。

恋愛は経営でできている

 恋愛はいつでも悲劇的な結果に終わる喜劇である。  実らなかった恋愛は常に、目的に対して過大な手段の罠、目的と手段の転倒の罠、短期志向と近視眼の罠……といった経営の問題として説明できる。

魔の谷:理想の恋愛不可能性定理

 たとえば意中の相手に「家庭的な人が好き」と言われ、その日のうちに料理教室に入会し、デートに手作り弁当を持っていくようになるが、その細菌培養液型弁当を食べた相手が案の定、食中毒にかかってしまい、相手から「君の/あなたのこと、もう擬人化した黄色ブドウ球菌としか思えなくて……」と、よくあるお決まりのセリフを吐かれ振られてしまう。  あるいは、気になっている人との細かい会話から相手の好きなお菓子を特定し、デートの約束もしていないのに「あっ、ちょっと、近くによったからさ。あ、これ、君が好きって言ってたやつ。このあいだ、たまたま新宿で見つけたから」などと矛盾だらけの供述をしながらお菓子を手渡して無事にストーカー扱いされたりする。  本当は超が付くインドア派なのに好きな相手と同じくスポーツ観戦が趣味だとアピールした結果、デートの内容がスポーツ観戦固定状態になり毎度毎度何の興味もない試合を見せられてゲンナリするということもある。  これら三つはすべて、「目的に対して過大すぎる手段によって、目的の実現そのものが妨げられてしまった、経営の失敗」の例として捉えられるだろう。  お本章のエピソードの大部分は明らかに異性にモテそうな人物から入手したものだ(一つだけ残念なのはその人物というのが私ではないことである)。そうした才色兼備型の人であっても数分の間に次から次へと恋愛における失敗体験が湧いて出てくる。  こうした障害を回避して、無事に恋人同士になったとしても、恋愛関係を持続するのはさらに困難だ(婚姻関係を解消するのが困難なのとは対照的である)。  たとえば付き合っている彼氏による「俺、自立している女性とお互いに尊敬できる関係を築きたいんだよね」との戯言を真に受けて、彼氏に頼らず/甘えずに大胆な仕事と丁寧な生活とを両立させるような人もいる。  しかし、仕事の愚痴や日常の悩みを誰にも相談せずに一人で歯を食いしばって、無骨にスルメを噛み噛み耐えていたのにもかかわらず、唐突に彼氏から「○○ちゃんって一人で生きていけるよね」と振られたりする。  その彼氏はというと、さっそく自立もへったくれもないような、物理的・精神的・社会的・経済的にすなわち総花的に「よく転ぶ、転倒する」新しい彼女をどこからか見つけてきて、「この子は俺がいないとダメなんだ」などと嘯くのである。  これは「目的と手段の転倒による経営の失敗」の例として理解できるだろう。  さらに二人の関係に亀裂を入れるさまざまな問題を乗り越えていったとしても別の災難がやってくる。  たとえば、相手の要求に合わせて物わかりのいい男/女や都合のいい男/女を演じていたら、だんだんと相手が寄生虫型・ヒモ型の我儘放題の怪物に育っていったりする。こうなってしまっては相手からの「ずっと一緒にいようね(迫真)」の一言も、もはやホラー映画のセリフとしか思えなくなってくる。  これらの欠点がない、まさに理想の伴侶を見つけたとしても、「相手に結婚を意識してもらうためにタイムリミットを相手に伝えよう」とのファッション誌の記事を鵜呑みにして、「三十歳までに結婚しないなら別れる」と宣言した瞬間に「重すぎる」と別れを告げられたりする。  ならば婚活だ、と、マッチングアプリやマッチングイベントに参加しても、あまりの選択肢の多さにかえって他人の悪いところしか見られなくなってしまう。かといって恋愛はもう面倒だ、とばかりに、一緒にいても違和感しか覚えないが表面的なスペック(性能)が無難な好きでもない相手と結婚するという「大学入学時のはじめてのパソコン選び」のような結婚をして結婚生活が地獄になったりもする。  これら三つは「短期志向と近視眼による経営の失敗」として説明できるだろう。  このように理想の相手と出会えること、その相手との恋愛が成就することは、ほとんど奇跡といってよい。考えてみれば数理的・確率論的にいってもこれは当たり前だ。このことを理解するために巷でよく耳にする「普通の人でいいのに、出会いがなくて……」という悩みを分析してみよう。  以下は少し数学っぽい話になるが細かい数式は追わずにざっくりと流し読みしていただければ大丈夫である(そうでないと私の計算間違いが露呈するので困る)。  まず誰しも恋愛において重要視する要素を持っている。ネット上にあふれる婚活体験談・恋愛体験談を総合すると、性格、話の面白さ、収入、顔、体形、ファッションセンス、趣味、金遣い、家事への積極性、マザコンかどうか……などなどだろう。  これらの要素はそれぞれ独立だとする。このとき「ある人物が、(正規分布に従う、十分大きな母集団を構成する)ひとつの要素において、平均以上の性能を発揮できる確率」は、上位半分に入る確率と等しいから当然二分の一だ。  次に「当該人物が、先ほどの要素に加えて、別のひとつの要素において平均以上の性能を発揮できる確率」は二分の一×二分の一である。こうして計算すると先ほどの十の要素すべてで平均以上の性能を発揮する人物は一〇二四人に一人しかいない。  このように、恋愛において普通の人と出会えない理由は「ある人が自分にとっての普通の人である確率=『二の自分がこだわる要素数乗』分の一」だからである。たとえば、十個のこだわり要素があるなら一〇二四分の一(約千人に一人)、こだわり要素が二十個なら一〇四八五七六分の一(約百万人に一人)しか「普通の人」は存在しない。  さらに難しいことに、仮にこうした「激レア普通人材」に出会えたとしてもそこに「相手が自分を好きになってくれる確率」を掛け算しなければいけない。

 

恋愛胸算用:マッチングとクリエイティブの恋愛論

 相手が浮気な人でない場合に相手が自分を選ぶ確率=1÷相手に言い寄ってくる人の数と仮定しよう。激レア普通人材は普通人材と見せかけて競争率も高いため、そうした相手と恋愛関係になれる確率は相当低いわけだ。  もちろん数学に強い方は直感的にこの事実に気が付いておられただろう。肝心なのは、問題を提示するだけでなくこの問題にどう対処するかを示すことである。そしてこの問題を解決する方法は確実にある。  それは有限の恋愛対象を奪い合うのではなく無限に恋愛対象を創り出すことだ。  具体的には、第一に恋愛をあくまでマッチングだと捉えた上での対処法がありうる。第二にそもそもマッチングとしての恋愛からクリエイティブとしての恋愛に脱皮する対処法もある。  最初の方法について。すでに確認した通り、恋愛の初期にさまざまなこだわり要素で相手をふるいにかけていく場合、こだわり要素の数が増えるごとに恋愛対象者は劇的に少なくなる。恋愛対象者は二のN乗人(N=こだわり要素数)に一人しかいないためだ。しかし、このことは逆に言えば「誰もがこだわるような要素を気にしなければ一挙に競争率が下がる」ということをも示している。  そこで「恋愛において、自分が相手に絶対に妥協できない要素を挙げたら、その代わりに、誰もがドン引きするようなダメ要素を同じ数だけ受け入れる」という簡便な解決法がありうる。  なんてことはない。美男美女で、性格がよくて、浮気をしないという要素を挙げるなら、元気なのに全然働かず、百貫デブで、足が生物兵器レベルで臭いくらいは受け入れるべきだということだ。  どうしても百貫デブが嫌ならば、「会話の中身が最近視たユーチューバーに対する悪口だけで九割五分を占める」などの欠点は受け入れるべきだろう。これは相当な欠陥だから、競争率は劇的に下がること間違いなしである。  次に、こうしたマッチングとしての恋愛から脱却する方法として「気が合う人を最良の恋人だと思い込む」という手がある。  すなわち、理想の人がいないと嘆くのではなく、自分の行動と思考を変えることで相手との理想的な相互作用を生み出していくのである。他人と過去は変えられないが自分と未来は変えられる、という発想だ。  たとえば、今の相手へのときめきを感じられないと思うのならば、文字通り吊り橋を一緒にわたってみて、セルフ吊り橋効果を求める手もある。あるいは旅行先で歴史上の人物になりきるなど、普段とは違った関係性を体験できるデートプランを立ててみてもよい。  いずれにしても、「相手そのもの」を変えるのではなく、「自分と相手の相互作用」を変えるような手を打っていくことが大事である。こうして、相手を理想の恋人だと思い込むことで、奪い合いの恋愛から脱却できるわけだ(とはいえ、後述するように、あくまで自分主体で恋愛経営すべきであり、ダメ人間に搾取されないよう気をつける必要がある)。  我々は恋愛においてしばしば「奪う」という表現を使う。恋人を奪う、心を奪う、唇を奪う、略奪愛……といった具合である。  奪うという発想に陥りがちであるからこそ、好きな人の目を奪おうと挑発的な格好をしたり、好きでもない人とじゃれている様子を見せつけてやきもちを妬かせようとしたりする。あるいは好きな人の時間を少しでも奪おうと必死になり、恋人でもないのに相手を束縛して嫌われてしまったりもするだろう。  世の中にごくわずかしかいない理想の相手を探してその相手を数多のライバルから奪い取るという発想では、確率的にいってもほとんど負けが決まっている。  我々は理想の相手の存在確率および自分との恋愛成就確率を高く見積もりすぎる

 

智人の愛:理想の相手ではなく理想の関係を求める

写真:現代ビジネス

 また、奪うという発想での恋愛は一時的に成就したかに見えても、常に不安にさいなまれることになる。  だからこそ、恋人が自分のことを本当に好きなのかどうか試すような行動をとってしまったり、相手の求めに何でも応じてしまって軽く扱われるようになってしまったり、相手の行動を逐一監視して異性と関わる場をすべて制限することで、むしろ相手を燃えるような浮気愛/不倫愛に走らせたりもする。  しかし「理想の恋愛相手は天才ロボット学者でもない限り作れないが、理想の関係は作れる」という視点を持てばこうした状況から脱却できる可能性がある。  しかも多くの人はこうした能力をすでに持っているのである。  一例として、元々はタイプではなかった相手となんとなくの勢いで付き合ってみて、時間とともにその人のことがだんだん好きになっていき、それどころかその人のことが好きすぎてたまらなくなるという経験をしたことがあるという人の話はよく聞くだろう。  こうした人たちは自らの想像力で自分の恋人を理想に仕立て上げているわけだ。友人から傍目には田舎出身の朴訥な青年にしか見えない恋人の写真を「ハリウッドスターに似ているでしょ」と自慢された経験がある方もいらっしゃるだろう。  逆にこのような志向がないと、せっかく理想の相手と付き合えたのに、ふとしたきっかけで相手のことを異性として見られなくなったりすることもある。  たとえば、おしゃれで、仕事もできて、優しくて、話も面白い恋人がいても、ある日その人の耳毛がフサフサなことに気づいた瞬間に恋愛対象として見られなくなってしまったりする(これに気づいて私も耳毛を切るようにした)。  あるいは自分にはもったいないくらい完璧な恋人が、あれこれと自分に世話を焼いてくれるために、ある日からその恋人が自分の父母のように思えて恋人として振る舞うことができなくなったりする。  もちろん理想の関係を作るという志向が行き過ぎてしまった場合は、これまた別の悲劇を演じることになる。  たとえば、どう合理的に考えても恋人同士でいることで自分が不幸になるような相手と「自分が頑張れば理想の関係を作れるのではないか」という思いから、ずるずると関係を継続したりすることもありうる。こうした相手に対しては留学や就職などの外発的な事象によって物理的な距離ができると驚くほど冷静になれたりする。  恋愛は手段にすぎない。その先の目的には自分と相手の幸せがある。  相手と自分が一体化して、相手の幸せが自分の幸せだという状態もありうるが、多くの場合、これは不健全な共依存状態だろう。いずれにしても、幸せという目的に向かって恋愛関係を創造していくことで、奪い合いの恋愛の悲劇から抜け出すことができる。  恋愛はまさに経営なのである。