「生涯未婚者」を増やし続けている根深い問題に迫る

 

 50歳以下の男性の約3割弱、女性に関しては約2割弱が結婚せずに人生を終える「生涯未婚者」であるといわれる現代の日本。その背景として、「おひとりさま」をはじめとする結婚以外のライフスタイルが確立したことや、さまざまな性的指向が受け入れられるようになったことがあると考えると、非常に合点がいくと思います。 ところが、生涯未婚者の中には「結婚したい」という意思はあるのにしない人も少なくないのだとか。その場合、多くの人が思いつく理由は「経済力が足りない」ではないでしょうか?  社会学者・山田昌弘さんが現代日本社会の結婚事情を分析した著書『パラサイト難婚社会』にも生涯未婚の原因の一つとして「経済力」が挙げられていますが、そこには単に日本経済の停滞だけではなくもっと根深い問題が潜んでいると指摘しています。 ちなみに、本書によると、日本人のように結婚を決意する際に経済力の有無を判断材料にするのは、愛情だけで結婚を決める傾向にある欧米文化圏の人たちからは珍しがられるのだとか。どうやら、その日本人ならではの習性が生まれた背景にも社会問題が大きく絡んでいるようです。 その問題とはいったい何なのでしょう? そしてなぜ、日本社会では「愛情」だけを頼りに結婚に踏み切ることができず、生涯未婚者を増やし続けているのでしょう? それらについての考察を本書から抜粋してお届けします!

「好きならば結婚する」という結婚の純化は、日本で起こりうるか?

 

欧米では、人々は「結婚=愛情」に主眼を置き、「経済的安定性」を捨てることで、いわば「恋愛至上主義的結婚」を達成してきました。すなわち「結婚の純化」です。「好きならば結婚する」「好きでなくなれば別れる」、そんなシンプルな選択をする人が増えたのです(欧米では「結婚」という選択をせず、同棲やパートナー制を選ぶ人も多いですが、「未婚社会」日本は、結婚以前に恋愛すらしない若者も増えています)。 日本社会にも今後、欧米のようなルートで「結婚の純化」が起きる可能性はあるのでしょうか。 率直に言って、それは難しいと思われます。日本社会で「結婚の純化」が起きるためには、克服すべき三つのハードルが存在すると私は考えています。

 

「結婚の純化」を阻む最初のハードルは「家族」への期待!?

欧米で「結婚の純化」が可能だった理由の一つが、国家が「家族単位」ではなく「個人単位」で、社会保障制度を設計してきたからです。本人の所得が低くても、そのセーフティネットは「家族」ではなく「社会」「国家」が担います。シングルマザーでも、まずは頼るのは親・きょうだいではなく、「社会制度」です。誰と結婚しようが離婚しようが、未婚のままであろうが、未婚の母になろうが、「経済的安定性」は別問題で、そこは最悪のリスクを回避することができる。要するに、結婚して子どもを持ったら最後、人生詰んでしまう……という恐れがないので、人は自らの「好き」という感情に従って人生の選択ができるのです。  そうした社会福祉的整備は、いまだ日本では実現していません。生活保護もまずは面倒を見る「家族」がいないかが真っ先に問われる日本で、未婚の母ともなれば、親子共に貧困層に真っ逆さまに落ちかねません。日本社会では、政府や社会制度が人々のセーフティネットになる以前に、「家族」が一番のセーフティネットとして期待されているのです。 そうなると、「個人」の感情だけでやすやすと「結婚」という人生の重大事を決めることはできないと若者が考えるようになっても、少しも不思議はありません。 さらに日本では、結婚は「親族の結びつきである」という意識が根強く残っています。 結婚すれば義理の家族の面倒も見なくてはならなくなるかもしれない、そう思えば、結婚に慎重になるのも致し方ありません。 さて、日本で「結婚の純化」が起きない二つ目の理由は、「個人化」の問題で、三つ目は日本社会特有の「世間体」の問題ですが、これらを順番に見ていきましょう。

 

「個人化社会」における重圧が結婚を難しくしている

「個人化」とは、個人における選択肢が増えること、そして増えた選択肢の結果起きるリスクを、選び取った本人が受容しなくてはならない状態を指します。

子どもが親の職業を自動的に継がなくてはならなかった時代には、人生の大部分が「想定内」のうちに進みました。親や祖父母が歩んできた道を、自分も歩けばよかったからです。しかし、職業を自分自身で選ぶようになると、「予想外の困難」や「想像もしなかった結果」が、我が身に降りかかるかもしれません。

「学業」も「職業」も、「結婚」も「未婚」も「離婚」も「結婚相手」も、すべて自分で選べる自由。それは嬉しいことのように見えて、同時に怖いことでもあります。その結果を誰のせいにもできないからです。そうなると幸せすらも、そのすべてが自分自身の選択の結果になってきます。選択がたまたまうまくいけば「幸せな人生」となり、失敗すれば「それを選んだのはあなたでしょう」と言われる恐怖。その責任の大きさに、現代人はすでに疲れ始めています。

「果たして自分の選択はこれで合っていたのだろうか」「結婚相手はこの人で正解だったのだろうか」「もっと他に良い人がいたのではないか」と、自問自答は繰り返されます。

 

かつての結婚と現代の結婚では、個人にのしかかる責任の重さが違う

自分が「選べる」ということは、相手にも「選ぶ権利がある」。そうなると、「自分は相手を選んだのに、肝心の相手から自分が選ばれない」というようなことが往々にして起きるようになります。

 

しかも、かつてのイエ同士の結婚ならば、自分が選ばれなかったのは、自分のせいではないと思うことができました。かつての「結婚」は、そのシステム上、個人のスペックはさほど重視されなかったからです。

しかしながら、現在はどうでしょう。「結婚」が個人の選択に委ねられた結果、その成否は限りなく個人の努力や才能、生まれ持っての容姿やそれを磨く習慣、人柄や学歴などに大きく左右されるようになりました。

その結果、本来最も「競争から遠い」という幻想に守られていた「恋愛」「結婚」フィールドでも、「勝ち組」「負け組」に人々は二極化していきました。「個人の欲望」対「他者の欲望」がぶつかる戦場が婚活市場です。そうなると結局は、「市場における個人の力が強い者(ハイスペック)」が勝者となっていきます。

 

「世間体」に囚われた親が子どもの結婚を阻むことも

 

当事者から親たちに視点を移してみたいと思います。結婚・未婚を選ぶ本人というより、その親世代が、「個人化」と「世間体」に囚われている実態を見ていきましょう。

以前、とある30代後半の女性から、こんな身の上話を聞いたことがあります。

彼女は四年制大学を卒業した後、名のある企業に就職し、仕事を頑張りつつ「婚活」も同時並行で行っていたそうです。彼女の「結婚観」は非常に古風で、ある意味「ザ・昭和」なものでした。彼女の母親は専業主婦で、幼い頃から夫に尽くし、娘にも「やがて大手企業の勤め人と結婚して、(私のように)豊かに過ごしてほしい」と語ってきたと言います。彼女自身、その母親の価値観を受け継ぎ、大きな違和感は抱いてこなかったそうです。

 

ところがある日、彼女は婚活市場とは異なる場所で、「好きな人」と巡り合えました。

二人でいると穏やかに時が過ごせて、幸せを感じる。そんな彼と結婚をしたいと二人で意識するようになりましたが、正直、彼のスペックは、自分の母親が求める条件をクリアしていませんでした。学歴も職歴も、母の希望とは合致しない……。結論として、彼女は家族(母親)の説得に応じて、その結婚を諦めたと言います。

今、こうした話は枚挙にいとまがありません。最近では「毒親」なる言葉も聞かれますが、決定的に精神に害をなすほどの悪意はなくても、自らの価値観を優先するために、子の価値観や意思決定に重大な影響を与えてしまう親子関係の報告や相談が相次いでいます。

 

「世間体」という自らのエゴを利他精神で覆い隠す親たち

 

「個人化の時代」は、当事者だけでなく、その親の選択肢、意志の強さも多様化させました。「これからの時代、女性も大学で学んだ方がいい」「好きな職業に就いていい」「好きな人と結婚してね」、だけどその決定の際には私も関わるわ、あなたの幸せのために……。

しかも、今の若者の親世代は、まだまだ「世間体」から解放されてはいません。仮に娘の結婚が、世間一般で許容されないものであるならば、あるいは「親戚に顔向けできない」「近所にどう言えばいいのか」という類のものならば、その「結婚」にはNGを出す……。これは子への愛情と、自らの世間体が複雑に絡み合っているからこそ、厄介です。

 

「世間体」という自らのエゴと人からの評価を、「あなたのためを思えばこそ」という利他精神の隠れ蓑で覆ってしまう。

あくまで「我が子の幸せのために」の想いが成人したのちも子の独立を阻み、共依存を生んでしまっている日本だからこそ、大量の「パラサイト・シングル」を生み、その数十年後、さらに大量の「生涯未婚者」を生んでいる現実に、そろそろ私たちは気づくべきなのではないでしょうか。