現代日本社会では、女性は誰と結婚するかによって、自分の人生が大きく変わる。中央大学教授で家族社会学者の山田昌弘氏は、だからこそ日本女性は、結婚に「愛情」と「経済的安定性」の二つを求めざるを得ないと指摘する。他方で欧米諸国では、「結婚」イコール「愛情」であり、そこに「経済的安定性」は含まれない。山田氏の新著『>パラサイト難婚社会』(朝日新書)から、かつては「皆婚」が当然だった日本女性と社会の変遷について、一部抜粋・再編集して紹介する。

 

  【表】親と同居する独身中年の推移 *  *  *

 

 

 ■異種のゴールを同時に求められる難婚 「

 

格差」が広がっている日本では、「結婚」も二極化していると感じています。日本が「皆婚」社会であった要因の一つは、当時の日本全体が好景気に沸き、高度経済成長期でもあったからです。その時代では人々が「結婚」に、「愛情」と「経済的安定性」の双方を求めても、多くの場合がそれに応えられたのです。もちろん皆が金持ちにはなれなくても、ほとんどの人が「昨日より今日、今日より明日」の方が豊かになると信じられたのです。どんな職業の男性(工場労働者でもサービス業者でも中小企業の社員でも)と結婚しようと、大抵の人は給与アップと、生活の向上を体感することができました。「結婚」が、多くの人にとって「経済的安定性」を約束することができた稀有な時代だったと言えるでしょう。

 

 

 しかし今、10年後、20年後どころか、数年先の生活も先行き不透明で、「子どもを生み育てられるのか」確信を持てない社会となった結果、人々は「愛情さえあれば、後は何とかなる」とは思えなくなっています。それこそが夢物語であり、「結婚」は「経済的安定性」がなければ持続可能ではないことを、「離婚が3組に1組の時代」だからこそ、若者は痛感しているのです。  心理カウンセラーの先生がおっしゃっていた言葉が、印象的でした。その先生によると、「人間は複数のことを同時に行うのが苦手」らしいのです。一つの要素だけなら集中して頑張れる、しかし、複数のことを同時に成し遂げようとすると、それは労力も心的ストレスもかかり、負荷が大きくなってしまうのだそうです。  

 

そう考えてみると、まさに現代日本の「結婚」こそ、複数のことを同時に行おうとするような行為ではないでしょうか。 

 

 見た目のいい相手とロマンティックな恋愛をしたい。  

 

 

だが、結婚後は安定した生活を営みたい。  子どもが生まれたら、夫婦生活も育児も仕事もしっかりやりたい。  

 

 

 

現代人は、「選択の自由」という権利を手に入れた結果、「複数の選択を同時に考慮する」という、人間にとって実は非常に難易度が高いことをやり遂げなくてはならない事態に陥ってしまったのではないでしょうか。しかも、新自由主義的経済発展と同時に、あらゆる「選択」は「個人の責任」に帰すようになってしまいました。

 

「自助・共助・公助」の順番で、個人の努力が徹頭徹尾求められる時代、「結婚」が成功するか失敗するかもすべてが「個人の責任」となったのです。

 

 

 人生の情緒面を満たしてくれる「恋愛」。  

 

 

人生の経済面を保障してくれる「結婚」。  本来、異なるベクトルを持つ異種のゴールを、同時に手に入れなくてはならない緊張感は計り知れません。どちらか一つならば専念して集中できるのに、両方同時は難しい。二兎を追うものは一兎をも得ず。どうしてもどちらかに比重を傾けざるを得ないのです。  ゆえに「恋愛感情はほどほどに、経済的安定性を重視する」とか、「恋愛を重視したいから、結婚後の生活の安定は気にしない」などと優先順位をつけられればいいのですが、現実には「顔が良くて背も高くて、高学歴で年収1000万円以上の男性と大恋愛して結婚したい」と、複数の異なる要素をすべて叶えようとしてしまう。ほぼ不可能な幻想を真剣に求める婚活現場が誕生してしまうのです。

 

 

 ■選択の岐路に迷う「個人化ネイティブ世代」 

 

 

 戦中世代、戦後の団塊世代は、大いなる「制約」の中で青春を過ごしてきました。無我夢中で働き、国民全体が苦難の時を脱し、豊かな生活を目指して邁進してきたのです。そうした先に実現した豊かな社会では、1980年代のバブル期に「24時間戦えますか」というキャッチフレーズのCMも生み出しました。日中はモーレツ社員として働き、夜は同僚と飲んで騒いで、憂さを晴らす。今の若者からすれば一種異様に見えるかもしれませんが、同時に社会全体には活気がありました。

 

 

「真面目に働けば、自分たちは親世代よりも豊かになれる。自分たちの子どもにはより豊かな生活を与えられる」という「夢」が、高度経済成長期以降の日本国民の原動力となっていたのです。  

 

しかしそのバブル経済も終焉し、迎えた平成・令和の時代、人々は生活の豊かな成長を実感できなくなっていきました。とりあえず食うに困らない職はあるかもしれないし、住居や洋服、家電製品やスマホもある。しかし給料は一向に上がらず、非正規社員となった若者たちはキャリアアップも望めず、人生の向上を実感もできなければ、夢も描けなくなっていったのです。 

 

 生活にも、人生にも、キャリアにも、楽観的な夢や向上への期待を抱けなくなっていった日本人が、結婚生活にだけ夢を見いだせるわけがありません。むしろ「自分ひとりならどうにか生きていけるが、妻子を養うまでの給料は望めない」と多くの男性は冷静に見極めるようになり、女性も「結婚で一発逆転を狙えないなら、別に結婚しなくてもいい」と判断するようになります。

 

  でもそれは、「結婚」に「愛情」を求めるのではなく、むしろより重要なファクターとして「経済的安定」を望むようになった結果の、日本特有の問題でもあるわけです。それは、韓国や中国などの東アジア諸国にも広がる兆しがあります。

 

 西欧社会は、「結婚」から「子孫の存続」や「イエの存続」という前近代的要素を削ぎ落とし、さらに経済的相互依存という役割も求めなくなっていきました。その結果、人々に「結婚の純化」をもたらしました。「相手が好きだから一緒にいたい」=「結婚」というように、シンプルに考えるようになっていったのです。  

 

もしかしたら日本人も、「結婚」の条件が「相手のことが好き」という愛情問題に絞られていたのなら、物事はよりシンプルだったかもしれません。しかし現実には、「愛情」+「経済的安定性」という本来真逆なベクトルを同時に達成しなくてはならない社会になった。その結果、「成婚」率そのものが低下して生じたのが今の日本の少子化社会です。