友人のメルマガを遺稿として出しています

内容に関しては、彼がいろいろ情報収集をして

書いたものや、どこぞの情報をコピペして

作っているものもあるようなので悪しからず

 

しかし、興味深い点も多々あるので

興味ある人だけ読み続けてくだ

長いです!

 

「チューリップ・バブル(Tulip mania、Tulipomania)」は、オランダ黄金時代のネーデルラント連邦共和国において、当時オスマン帝国からもたらされたばかりであったチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降した期間を指している。

 「チューリップ・バブル」のピーク時であった1637年3月には、1個当たり、熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根も複数存在した。

 1619年から1622年にかけて、三十年戦争の戦費調達のためにヨーロッパ全体で行われた貨幣の変造「Kipper-und Wipperzeit」にも、バブル経済類似の熱狂が存在したと指摘する研究者もいる。

 しかし、チューリップ・バブルは、記録に残された最初の投機バブル(またはバブル経済)であると、一般に考えられている。「チューリップ・バブル」という語は、今日では、資産価値がその内在価値を逸脱するような大規模なバブル経済を指してしばしば比喩的に用いられる。

 

 1637年の出来事は、1841年に英国のジャーナリスト、チャールズ・マッケイによって著された「狂気とバブル―なぜ人は集団になると愚行に走るのか」において、広く知られるようになった。チャールズ・マッケイによれば、ある時には、「無窮の皇帝」の球根1個に対し、12エーカー(5ヘクタール)の土地との交換が申し出られた。チャールズ・マッケイは、このような投資家の多くは、チューリップ価格の下落により破産し、オランダの商業は大打撃を受けたと主張している。

 

 「チューリップ・バブル」の研究は困難である。1630年代の経済のデータは限られており、その多くはバイアスがかっている。また、非常に推測含みの情報源からのものであるためである。現代の経済学者には、チューリップ価格の上昇及び下落につき、投機的な熱狂ではなく、合理的な説明を行おうとする者もいる。例えば、ヒヤシンスのような他の花もまた、初めて伝播した時点では高い価格がつけられ、すぐに価格が低下したことから、花の価格にはこのような「ボラティリティ」があるという説明がある。このほか、買い手のリスクを低減させる効果を持つ議会令が発せられるだろうという市場参加者らの期待が、価格の高騰を誘発した可能性があるという説明もある。

〇オランダ黄金時代は、オランダの歴史において、貿易、科学、軍事、オランダ芸術が、世界中で最も賞賛された期間で、おおよそ17世紀にあたる。初めの半分の期間は、1648年に終結した八十年戦争により特徴付けられる。黄金時代は、17世紀の終わりまで、ネーデルラント連邦共和国で続いた平和な時代であった。

 

 1590年代の神聖ローマ帝国の領土から、世界で最も優れた海運国、経済大国になるまでの間のオランダの変遷は、歴史家のK. W. Swartにより「オランダの奇跡」と呼ばれている。

 

〇企業金融の誕生とその富

 

 17世紀、有能な船員や優れた地図職人が伝統的に多かったオランダが、極東との貿易を開始した。オランダは徐々に世界の貿易において、かつてポルトガルやスペインが独占していた支配的なポジションを得るようになった。

 

 1602年、「オランダ東インド会社(VOC)」が設立された。世界初の多国籍企業である。最初の近代的な証券取引場である「アムステルダム証券取引所」を設立した株式を財源としていた。「オランダ東インド会社」により、アジア貿易をオランダが独占することとなり、この状態は2世紀にわたって続くこととなった。「オランダ東インド会社」は17世紀の世界最大の営利会社となった。香辛料が大量に輸入され、「オランダ東インド会社」の努力、航海の危険性に加え、おそらく満たされることのない程の需要により、巨額の利益をもたらした。この地域内での貿易の成長に融資をするために、1609年に「アムステルダム銀行」が設立され、この銀行は最初の中央銀行ではないものの、それの前身にあたる。

〇日本との貿易を独占

 

 貿易センターとしてのアムステルダムの支配的な地位は、長崎湾にある島であった出島の貿易拠点を介して行われた日本との貿易が 「オランダ東インド会社(VOC)」 によって独占された1640年に確固たるものとなった。

 オランダは中国や日本と貿易し、日本の将軍に対して貢ぎ物を贈った。1854年まで、オランダは日本の西洋への唯一の窓口となった。ヨーロッパから導入された科学的知見の集積は、日本では「蘭学」として知られていた。

 オランダは、当時ヨーロッパで興った産業革命、科学技術的革命の知見を日本に伝えるのに役立った。日本は、数多くの科学的書籍を、オランダから購入し、翻訳し、西洋世界への好奇心や時計等の工業製品を得て、19世紀の電気現象や気球等の様々な西洋の発明品の実演を日本で行った。17、18世紀、オランダはヨーロッパ全土の中で最も経済的に豊かで、科学的に進んでいた国であった。そのことにより、日本へ西洋の知識を伝える特権的なポジションを得ることとなった。

 

 長崎の出島を管理していた鍋島藩は、薩摩藩と長州藩を合わせた以上の軍事力を保持していた。その鍋島藩が、薩摩藩と長州藩に加わったことが、新政府樹立のキーポイントである。

 

 しかし、有能な鍋島藩士は、国政から遠ざけられていた。それが、「佐賀の乱」のきっかけである。

 

ではまた