人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。
それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。
わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕(かいこ)が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。
北杜夫「幽霊」の冒頭だ。最近読み返して妙に心に響いた。今はどうなのか知らないが昔の国語のテストの文章題はこういった名著の一部が沢山載っていたものだ。そこから興味を引かれて読み始めた本も少なくない。
しかし読書を楽しむことと、読書をするということは全く違う。
中学のときは本を読むのが格好いいと勘違いして、解りもしない文学やら学術的な論文を一日一冊の頻度で読んで、それを同級生にしたり顔で話したりした(ムカつくガキだ)。
その時分は結構沢山読んだ筈なのに、今それらの本の内容や見所をいえといわれたら言葉に詰まるであろうことは疑いない。つまりその時の俺は内容を楽しむことなく、ただそこに印刷されている文字を追っているだけのこどもだった。
最近ふと追憶を語りたくなるのです。大昔の出来事でも、つい最近の出来事で忘れかけたことでも。
前に立ってるおじさんがチンポジが悪いらしくほぼ毎分股間をごそごそしている。厚いコートの上だから大変だろう。
ドンドハレ
