Ki Tavo 玄関から入り、そして出て行く | 聖書とイェシュアの教え

聖書とイェシュアの教え

イエスはユダヤ教のラビでした。
ではイエスの教えを守って生きるとはどう言う事なのでしょう?
ご一緒に学んでみませんか?

 

5分で学ぶ神の律法

 

by Darre N. Huckey

 

Ki Tavo 玄関から入り、そして出て行く   申命記 26:1-29:9

 

 

 

 

 他の箇所には使われていない言い方がトーラーの中で出て来る場合、たいていは特に重要なことを教えるためです。通常、私たちが「人の出入り」と言う言い方をする時には、それは「まずある場所から出て行き、そしてそこに戻る」という観点から話しています。しかし、トーラーには、それとは異なる視点があります。

 

あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。 (申命記28:.6)

             

 トーラーによれば、人は「まず入り、それから出て行く」となります。ユダヤ教の有名な聖書解釈者である Rabbi Yochanan/ラビ・ヨハナンは、これを、私達が「入って来る時と出て行く時は、この世に入り、この世から去る時である」と説明しています。

 

汝が入る時に祝福され、汝が出る時に祝福されますように、汝が世から出る時は、汝が世に入る時と同じであるように、汝が罪を持たずに入るように、罪を持たずに出るように! 

(b.Bava Metzia 107a)

 

 人がこの世に来る時が誕生であり、この世を去る時が死です。私たちが人生と呼んでいるものは、この2つのポイントの間の短い期間です。私たちはこの世で生きている間、単なる寄留者でしかないのです。

 

 ラビ・ヨハナンは、この2つの入口と出口を、祝福という共通のテーマで結びつけます。人は罪を犯さずにこの世に入るように、罪を犯さずにこの世を去ることができれば、本当に祝福されるのです。しかし、そうするにはどうすればいいのでしょうか?そんな事が可能なのでしょうか? パウロは、明らかにそうするのは可能だと考えました。彼の望みは、弟子たちを純粋で非の打ち所がない者として、イェシュアの元に送ることでした。

 

私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊になり、イエス・キリストのよって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現わされますように。 (ピリピ人への手紙1.9-11)

 

 しかし、人生の終わりに清く非の打ち所がない自分を現すためには、この世で与えられた時間を一瞬一瞬大切にしなければなりません。不浄な欲の支配から自分を清め、神の御国を迎える準備をするために、日々努力しなければなりません。イェシュアが伝えられた良い知らせは、来るべき御国を待ち望み、その日を迎える為に悔い改めよとの知らせでした。イェシュアは、私たちの残りの人生を、これまで過ごした人生のように、無駄にする必要はないことを教えてくださいました。真摯な悔い改めによって、私たちは過去を清め、未来を変えることができるのです。

自分の人生だけでなく、他の人にイェシュアの教えを伝える事によって、その人の未来を変える手助けも出来るのです。

 

 イェシュアは、魂のこの世での最終的な結果に関連するいくつかのたとえ話を教えました。マタイの福音書25章1節から30節には、イェシュアが最後の審判について教える前に、「十人のおとめのたとえ」と「タラントのたとえ」を教えたことが記されています。これらの教えの中で、イェシュアが私たちにおっしゃったことは、私たちが創造主のもとに引き渡される日に備えるようにということです。

 

私たちがこの世にいる時間は限られています。Rabbi Jacob/ラビ・ヤコブの口癖は、 「この世は未来の世界へ続く廊下のようなもの。宴会場に入る事が出来るように、廊下で身支度をしなさい。」(Avot 4:21)私たちには明日が約束されているわけではありません。私たちは旅立ちの準備をしなければなりません。この世に入ったときと同じように、非の打ち所がない状態で旅立つことができるよう、一瞬一瞬を大切にしなければなりません。あなたは今日をどのように過ごしますか?明日は?明後日は?明日への旅立ちの準備のために、今日与えられた時間をどのように使いますか?それとも、ここでの時間を浪費し、清算の日に恥をかくことになるのでしょうか。

 

この世の玄関から出るときが、この世の玄関に入ったときと同じくらいに、祝福に満ちたものでありますように。

 

 

最後まで読んで下さってありがとうございます。

来週の「5分で学ぶ神の律法」にもご参加ください!

 

 

 

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