Ekev 感謝の心 | 聖書とイェシュアの教え

聖書とイェシュアの教え

イエスはユダヤ教のラビでした。
ではイエスの教えを守って生きるとはどう言う事なのでしょう?
ご一緒に学んでみませんか?

 

5分で学ぶ神の律法

 

Darren N. Huckey

 

Ekev 感謝の心   申命記 7:12-11:25

 

 

 

 

 ユダヤ教では、食後に神に感謝を捧げる習慣があります。これは「Birkat HaMazon/バ―カット・ハマゾン/食後の祝福」と呼ばれています。この習慣は、食後に主に感謝するよう指示する今週のトーラー・ポーションの節に由来しています。

 

あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。 (申命記8:10)

 

 しかし、私達が授けられたものに感謝するのは当然の事ではないでしょうか。なぜこのようなことを要求する戒めが必要なのでしょうか。聖書のことばから、そのことを明らかにする例を見てみましょう。

 

ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。そのうちの一人は、自分が癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」  (ルカの福音書17:12-19)

 

 この事件では、10人のらい病人はすべてイェシュアによって癒されましたが、ただ一人だけが彼に感謝しに帰ってきました。その理由を理解するためには、ヘブル語で聖書を読んでみる必要があります。ヘブル語では、感謝の表現は「hakarat hatov/ハカラット・ハトーブ」です。その意味を直訳すると、「善の行いを認める」となります。これを理解すれば、ユダヤ的な概念が私たちの福音書の物語に埋め込まれているのを知ることができます。癒されたと知り、そのサマリア人は神を賛美し、イェシュアに感謝するために引き返したとあります。イェシュアは彼に、「10人きよめられたのではなかったか」とお尋ねになりました。確かに10人きよめられましたが、イェシュアの「善の行い」を認めたのは1人だけでした。

 

 他の9人はどうしたのでしょうか。彼らは多くの私達と同じでした。もしイェシュアが彼らに、らい病から癒される為に何を差し出すかと尋ねたら、おそらくこの世のどんなものでも差し出したでしょう。しかし、ひとたび癒されれば、つまり、ひとたび満足すれば、彼らは数分前まで存在していた苦悩をすぐに忘れてしまったのです。だからこそ、私たちには、必要を満たされる度に感謝を表すという掟が必要なのです。私たち人間は忘れっぽい生き物です。特に、私たちに注がれた祝福に関してはそうです。この戒めが与えられた直後、主イェシュアは、なぜ私たちが満足したら感謝を捧げるように指示されているのかを説明されます。

 

気をつけなさい。私が今日あなたに命じる、主の命令と主の定めと主の掟を守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り...あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したことを。(申命記8:11-12,14) 

 

 意識的になることは、忘れっぽく恩知らずな人間の性質を克服するための第一歩です。ひとたび善行を意識的に認める事を実践し始めると、私たちはより多く感謝する心を持つようになります。それだけでなく、私たちは祝福されます。良いことに気づき、より充実した人生への旅が始まるのです。

 

 

最後まで読んで頂いてありがとうございます。

来週の「5分で学ぶ神の律法」にもご参加下さい!

 

 

 

www.emethatorah.com