名前。言ってみれば自己のアイデンティティの大きな要素の一つ。
“日本人”であれば概ね苗字+名前、タナカ タロウみたいなものである。
こいつはちょっとやそっとでは落ちない、ある意味では呪いでもあり祈りでもある。これは単なるブログの一記事であるため、その呪いであるとか、祈りであるといったことを根拠を挙げて論じ立てていく必要性もないのだが(匿名的な記事でもあるので、単なる便所の落書きくらいなもの)、簡潔に言えば、名前とは家族性とか地域性とか宗教性とかそういった様々な価値観を持ったコミュニティが持つ記号的な言語と、性別や顔だちや身長、体重、髪、声・・・などの多種多様な人間のうちの一個人とを結び付けることによって、あるコミュニティ、家族とか地域社会とか、のなかに個人を、その座標軸において存在たらしめるものである。つまり生れ落ちたときから、名づけられたときからあるコミュニティの一構成員となるのである。
そしてある程度の年齢までその個人が育つことができたなら、生きていることができたなら、それはそのコミュニティのなかで庇護を受け育てられたという証になる。たとえばどこからともなくポンと生まれてきた赤ん坊がいるとして(現実的に考えれば不可能であるのだが)、その赤ん坊が誰も何もない空間にひとりきりでいて生き延びられるとは考えられない。母乳のような液体、またはそれに準ずる赤ん坊の生命維持に必要な栄養があり接種可能なものや風雨などの外的環境から身を守る衣服であったり住居のようなものが必要になる。さらに言えば、それを与えてくれる“他者”が継続的に必要である。先ほど名前とは「家族性とか地域制とか宗教性とかそういった様々な価値観を持ったコミュニティが持つ記号的な言語と、性別や顔だちや身長、体重、髪、声・・・などの多種多様な人間のうちの一個人とを結び付けることによって、あるコミュニティ、家族とか地域社会とか、のなかに個人を、その座標軸において存在たらしめるものである」と言った。つまりこの“他者”との関係性こそが、一人では生きていくことの出来ない脆弱な身体を持った個人をある世界において“私”をつなぎとめてくれる鎖になるのである。これは赤ん坊の場合であるが、想像すれば安易にわかるように、ただの成人した一個人もなんらこの状態、つまり一人では生きられない脆弱な身体を持っているという点では変わりない。その鎖をつなぎとめるうえでの個人の名前が「呪いで」あり「祈り」になると冒頭で言ったのである。そこに関してはめんどくさいから(言っちゃった)言及しない。あくまで便所の落書きなんで。
しかし、この原則つまり名前が“他者”との関わりを表すものであるが崩れるというか厳密には別の座標軸となって現れうる場合がある。どういうことか。分かりやすい例でいうと、『千と千尋の神隠し』の「千」と「千尋」である。主人公の本名は荻野千尋。荻野家の娘であり、千尋という名前をつけられた「個人」である。--------ああやばい。広げようとしてる風呂敷がデカい。めんどくさい(笑) まあこの後は、異世界、そこで生きるためには働く、そのために名前「千尋」を取られてその記憶をなくす、「千」になる、本名を思い出すことによって現実世界へと帰っていくって流れを説明する感じ。で、現実世界においてはどうかってとこにいって、その名前を変えて別の座標軸をもつっていうことは、それはペンネームであったり芸名であったり、あるいはニックネームを持つことであるってとこにいって、ちょっと飛躍してそのもう一つの座標軸においてはもとのそれとは違う世界だから、そのもとの煩わしい現実世界からある種離れることができて、その世界ではもとの世界と一緒になるよりは比較的自由になるんじゃねえかなってことからバイトとかで有象無象の奴らをうまく働かせるにはそういった別の座標軸をもった記号的名前(そうめんちゃんとかホット君とか、適当(笑))を全員つけることにしてみても面白いのになあってとこに着地しようとしてた。だってめんどくさいじゃんバイト先でも本名使うって。登録はもちろん本人名義で、実際はもう一つの名前でなんら問題ない気がする。それをルール化して有無を言わさず違う名前にする、欲を言えば本名と類推性のないもの。そうすれば割かし働く人の心持も違ってくるんではなかろうか。
蛇足。自分のもつ様々な座標軸を管理するということについて。それはもちろん大前提で当たり前なんだけど、今はSNSとかみたいなツールで匿名的でしかも実際の身体をもたない現代的な座標軸が出てきた。このサリーのブログもそう。たとえばさっき言ったバイトだったら偽名であってもフェイストゥフェイスでのコミュニケーションだから自分の本来の座標軸の意識がもちやすい。つまりタナカタロウがお金を稼ぐために便宜的にホット君としてバイトしてるって意識。それがさっきの匿名的で実際の身体をもたないってことになると、その意識が持ちにくい、ほとんど幽霊的自己、不可視でアンタッチャブルな存在になったっていう錯覚に陥りやすい気がする。つまりタナカタロウが匿名的に自分のあれこれを書いてみてもらうために便宜的にそうめんちゃんって名前で自分の身体を介さずにネットの世界に存在しているって意識。こわい。そうこれってちゃんと考えると怖い。もうひとつ、名前は本名のままだけど実際の身体を持たないツール。つまりタナカタロウが現実世界の友達とコミュニケーションをとるために本名でまたは明らかにそれと分かる形、タロウ(○○出身何歳とか写真とか)で実際の身体を介さずにネットの世界に存在している。そろそろ頭のなかがパニック。自分の本来の座標軸であるはずの世界に違う世界が混じりこんできた。『アバター』って映画はその辺のことモチーフにしてる。怖い怖い。何をいまさらって感じだけど、ネットって基本的に誰でもアクセスできるからこそ、その世界はもはや現実世界と匹敵する世界になってしまった。個人の価値観一つでそのコミュニティに参加できる。特定の専門的技術も資格も覚悟もいらない。けどそのコミュニティも鎖の原則を持っている。。それこそ幽霊的にふっといなくなれない。そしてその世界でつながった鎖が連鎖的に現実世界に介入してくる。その鎖もまた「呪いで」あるかもしれないし「祈り」であるかもしれない。
以上であるが後半、ちゃんと書くのを諦めた部分は主観と推測が入り混じりまくったものなので質はひどい。だからといって前半がいいとは思わないが、何回も言うようにこれは便所の落書きです。現実ではちゃんと書こう。
