被災したといったらおこがましいかもしれませんが、そんな阪神・淡路大震災から十数年。

2011年3月11日、東日本大震災。


生きているうちに、こんなに大きな地震に2度も遭遇するとは思わなかったです。

みんなそうでしょうが。


このとき私はすでに社会人、地元大阪でカプセルホテルのフロントをしていました。


あの日は夜勤で、地震が起きた時間がちょうど出勤前。

若干遅刻気味で会社へ到着、更衣室で制服に着替えてEV(エレベーター)でフロントのある階に降りようと、更衣室を出たところ、なぜか廊下の電気が消えていました。


「なんやこれ。。。」と思いながらも急いでいたので、EV前まで行きボタンを数回連打。

「。。。。。。」

 光らない、EVが来る気配が全くない。

「。。。。。。」

「なんやこれっ!!!!!!くっそ!!!」


本当に遅刻しそうだったので、急いで非常階段を降りて、裏からフロントへまわりました。

 ふぃーーーー。。。セーフセーフ。。

と思いながら「おはようございまーす」とフロントバックへ入ろうとすると、なんだか様子がヘン。


「てゆか、EV止まってるんですけど!なんかあったんですか?」

と誰に言うでもなくそこらへんに居る人に聞こえるように言うと、

「Mちゃん(わたし)!地震やで地震!!」と課長が声をかけてきました。

「え?地震??揺れてました??」

「何か関東とかの方ですごい地震あったみたい!すごいことになってるって!」

 。。え、マジで。


フロント裏ではテレビがつけられ、地震の速報が流れていました。

もちろん関西では、揺れた?ぐらいのものだったので、あんな甚大な被害が出るとも思わず、

むしろ、なんか今日夜勤やったらヤバいんかなぁ、ぐらいの認識でした。


その日、私は夜勤シフトの責任者でしたが幸いにも支配人や課長、部長が居たので「何とかなるやろ」

と思いながら、ちょくちょくテレビで地震の様子を確認していると、だんだんと被害が浮き彫りになってきました。

そしてあの津波の映像が流れ、ほどなくしてチェックイン時間になると、電話がじゃんじゃんかかってきました。

そこでようやく「これは普通じゃない!」と焦り出しました。


なぜなら、東の方へ帰れない人々が帰宅難民となり、大阪のど真ん中にあったうちのホテルは

とりあえず宿を確保しようとする人たちの的となっていたのです。

もちろん周辺にホテルは腐るほどある激戦区でしたが、どのホテルもパンクするぐらい帰れない人たちからの問い合わせで溢れていました。


お客さんもそうですが従業員も大パニック。

支配人は周辺ホテルに連絡を取りまくり、空き状況や宿泊価格の確認をしていました。

なぜかというと、不謹慎な話、こういうときはぼったくり価格でも簡単に満室になるとわかっているのですが、災害時に定価で販売するのはいかがなものか、ということになったのである程度は周辺のホテルと対応を合わせよう、ということになりました。

後々、トラブルになりかねないので。


結局、すぐに部屋は埋まりました。

その後も夜中までずっと、予約の電話やウォークイン(予約なし来館)のお客さんを断り続け、

その日は仮眠をとることもできずに朝を迎えました。


何人も、何人も宿泊を断り続けていると、困っている人を助けることができずにどうすることもできない自分が空しく、また、イレギュラーな対応と緊張が続き、仮眠もとれず、日報に書くことも多くて何だかもう壮絶な一日でした。

たぶん家に帰ってからは、死んだように寝ていたと思います。


そんな、1995年のときとは違った意味で大変な経験をしました。