陸上部での生活は、一条が仲正や他の部員から想像した生やさしいものとは違った。練習はハードだった上、指導もかなり熱が入っていた。
千晶「走り終わった後は立ち止まらないでください。ひたすら歩いてください。 すぐにペース走始めますよ。」
「マジかよ……キッツ……」
「仲正先輩ってこういうの止めてくれないのかな……」
桔平「大丈夫よみんな。沢山努力して沢山汗を流しなさい。努力の汗で溺れた人はいないわよ。」
「嘘でしょ……」
いつもの口調と笑顔で発破をかける仲正に他の新入生達が引くなか、一条は練習についてきていた。
アンナ「引き続き……よろしくお願いします……!」
一条は仲正と同じく短距離走の選手を目指していた。何より、自分と同じ正義感を持ちながら、周りから慕われている仲正に憧れを抱いていた。少しでも仲正に追いつきたい、一条はそう思っていた。
アンナ「基礎練は当分続きそうだな…… けど、しっかり練習して仲正先輩に追いつかないと……」
この日、一条は部活を終えて帰路についていた。前方に実家の食堂が見えたその時、数人の男女が食堂から追い出されたかのように飛び出してきた。
アンナ「?」
「ちょっ……何するんですか!?」
一条父「ウチは腹を空かせたお客さんが来る所だ!そんな怪しいモン勧めてくるような連中が来る所じゃねぇ! 腹空かせて来たんじゃねぇなら帰れ!!」
「くっ……後悔しても知りませんよ!!」
店から追い出された男女は逃げるようにその場から去った。父親が食堂に来た客を追い出すなど滅多に無い。その光景に驚きながらも一条は駆け寄る。
アンナ「お父さんどうしたの?今の人達、何かしたの?」
一条父「アンナか。 ……まぁ、ちょっとな。」
閉店後、一条は1枚のチラシを見せられた。先ほど追い出された集団が持ってきたようだ。
アンナ「〔蒼きアサガオの会〕?」
一条母「この街にできた宗教団体みたいなの。このお店も入団してくれって言ってきて、断っても食い下がってきて聞かないのよ。」
一条父「ウチはメシを食ってもらう所だ。それなのにアイツら、メシは頼まずに変な宗教勧めて来やがって……」
数年前、とある感染症が世界中で流行し、不安になった人々は心の拠としてあらゆる組織を設立した。その蒼きアサガオの会もその1つなのだろう。
一条父「お客さんにアサガオの種を配るだけで良いとか言ってきたんだぞ。 ウチは昔から地域の人に支えられてんだ。今更そんな怪しいことに加担できるか。」
アンナ「だけど……あんな風に乱暴に追い出して良かったの? この前宗教団体が勧誘を断った人を襲ったって話聞いたし……」
一条父「その時はその時だ。体張ってこの店守る覚悟はできてるよ。」
一条母「お父さん…… 不安になるようなこと言わないで。」
アンナ「……。」
蒼きアサガオの会、自分の家の近所にそんな宗教団体があったことに一条はこれまで気付けなかった。そしてアサガオの種を配るという奇妙な活動に、一条はどこか引っかかっていた。
桔平「アンナちゃん、今日はちょっと調子が悪いわね。」
アンナ「……え?」
翌日の部活にて、休憩中だった一条に仲正が話しかけてきた。
アンナ「いえ……ちょっと考え事をしてて……」
桔平「なぁに?私に話してくれない?」
アンナ「はい……実は……」
一条は先日、食堂にやって来た蒼きアサガオの会のことや、その怪しげな団体にどこか引っかかっていることを話した。話が終わるまで、仲正に変わった様子は無かった。
桔平「……そう。そういう人達って、悪意があって広めてるワケじゃないのよね。好きな食べ物を他の人にも分けてあげたいのと同じ気持ちだと思うの。 ただその食べ物が他の人の口にも合うとは限らないだけ。」
アンナ「そういうものなんですかね?」
桔平「そういえば、アンナちゃんのお家って食堂なのよね。 なんて名前だったかしら?」
アンナ「え? えがお食堂です。」
桔平「そう。今度行ってみようと思っててね。 さ、そろそろ練習を始めましょうか。」
休憩時間も終わり、再びグラウンドに向かおうとしたその時、仲正が一条にこんなことを言ってきた。
桔平「アンナちゃん、沢山笑っていなさい。 笑う人のところには沢山の人が集まってくるから。」
アンナ「え?どうしたんですか急に?」
桔平「アンナちゃんは笑ってる方が可愛いと思ってね♪」
アンナ「からかわないでください……」
この時、仲正が何故こんなことを言い出したのか、一条は気付けなかった。
そしてこの日、一条は食堂の名前を告げたことを、一生後悔することになるとは、考えてもなかった。