「正義」とは
holygirlです
「正義」を辞書で調べると、「人の道にかなっていて正しいこと」であると出てきます。では、人の道にかなっていると誰が判断するのでしょうか。人それぞれ、自分の道、自分の正義を言っているのがこの世の中です。自分にとって良い事、我が家にとって正しい事がありますから、意見が合う人、合わない人がおり、それが党派心や分裂、排除に繋がっていきます。自分の正義で相手を裁き、支配し、自国の正義を掲げて戦争も起きます。80年前の第2次世界大戦時下では、お国のために戦うこと、命を捧げることが正義であり、それができないものは非国民とされました。敗戦後は一変し、軍国主義下で行われてきた思想、教育は全て間違っていたとされ、たくさんの人々が犠牲になった現実と心の傷が残りました。日本国が掲げた正義、愛国心こそが正義とされた時代は終わり、今では「戦争は絶対してはならない!」が正義の世の中です。コロナ禍では、コロナワクチンを打つことが正義とされました。「思いやりワクチン」という言葉に情が動き、打たないものはまるで非国民とされ、日本は世界で最も高い接種率となりました。しかし、最近になって新型コロナの有識者である尾身茂氏が「感染防止効果はなかった」と発言し、正義はひっくり返りました。彼の言葉に従い、ワクチンを打った人たち・・・全国のロット番号ごとの死亡率が出されましたが、あり得ないほど多くの人が死亡しています。戦後80年経って、第3次世界大戦が起きたとも言えるほど、過去の戦争や災害よりも多い死亡者が出たことを、国は、専門家と言われた人たちはどう責任を取るのか。コロナワクチン接種を煽り、人心を誘導した人々は、無責任のままです。彼らの正義とは一体何だったのでしょうか。
所詮よろずのものより偽る心をもった人間の正義は、置かれた状況、目の前の相手、時代によって変わります。人ごと、国ごとに正義はいろいろあります。実際は、「正義」などというかっこいいものではなく、ただの「自分の義」「自我」です。自己愛、自己中心的に、言いたい放題、やりたい放題して、自分の思いを押し付けあっているだけです。自分の義が強く、それをもって話す人は、相手の話を聞きません。自分に都合よく話し、主張が通らなければ怒り出します。ようやく落ち着き理解したかと思っても、次の日にはコロッとまたもとに戻り、「昨日のことだけど、やっぱり違う!」と言い出し、別の角度から自分の義を主張します。人間の意見には際限がなく、次々に出てきます。愚かな無知な論議が世の中にどれだけあふれていることでしょう。そのようにして自分の義、自我が通らなければ自己憐憫にもなり、最終的には自殺に追い込まれます。サタンは、自己愛→自己中→自己憐憫→自殺の霊を送っては、仲たがいをさせ、苦しめてくるのです。自殺者が多い今の時代、日本人皆が「自分の義」「自我」を主張し合い、他人の義にふりまわされ、精神を病み、病気を抱え、家族であっても理解し合えずに家庭崩壊しています。
私たちは、今週の集会で「義」という漢字に注目しました。「羊」に「我」と書いて「義」。小羊イエス様をもって我としなさい、我の前に神の羊であれ!という意味があるのだと語られました。時代が変わっても、唯一とこしえに変わらないのは、聖書の教えです。人間を創造された神の義を教えているのが聖書です。私たちの創造主である神のみが、“人の道”を教え、それが正しいか否か判断される方です。また、聖書には、「自分の義」に対して、「神の義」があること、【まず神の国と神の義とを求めなさい】と教えています。聖書を学ぶとは、人としてのあり方を学ぶのであり、目標は神の義を守り行なって、人類が1つになることです。神が義とされることが、本当の「正義」であることを私たちは再確認しました。
今週歌った賛美歌の中に、エペソ人への手紙6章10節~18節のみことばから生まれた『HOLY MARCH』という歌がありました
1.真理の帯を腰に締め 正義の胸当て胸につけ
平和の福音の備えと 信仰の盾をとりなさい
2.救いのかぶとをかぶり 神の言葉をとりなさい
絶えず祈りと願いをし 全ての聖徒のために祈ろう
エペソ6:10~18
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。
アーメン
全てのものが清い自分となって真理の帯を腰にしめること、正義の胸当て・神の義の胸当てをつけたら争いのない平和に至る福音をしていけること、神を信じて仰ぎ見る信仰、神と自分の関係を強固にするならそれが盾となると語られました。そして、普段は自分の義を通し、困った時だけ神に祈る人、状況が変わると自分の義も変わる人は、自我が強いだけですから、救いのかぶとをしっかりかぶり、神の言葉を知ることが必要です。サタン・悪霊に対しては、「聖書にこう書かれてある」と神の言葉をとって突き付けること、絶えず祈りと願いをして、聖霊対悪霊の攻防戦の中に置かれている全ての聖徒のために祈ることが求められていると語られました。
トランプ大統領がイランの核施設3か所を爆撃し、「トランプは病気だ。シオニストたちに操られて狂った」と非難されていましたが、先週のブログに書いていた通りやはり意図がありました。30年もイスラエルのネタニヤフ首相の戦争の口実となってきたイランの核開発問題でしたが、イラン側と密かに話し合いをすすめ、核施設だけを破壊し、二度と戦争の口実を与えないようにすることが今回の意図だったのです。イランは、アメリカへの報復でカタールにあるアメリカ空軍基地にミサイル攻撃を行いましたが、犠牲者が出ないようにあらかじめアメリカ側に警告してから行なったとされ、政治的パフォーマンスであったと言われています。その数時間後に、トランプ大統領はイスラエルとイランの停戦合意を発表しました。イスラエル側としても、自国の勝利で戦争が終わったと主張して、イスラエルに不利に傾きつつあった戦争を停止できたことはメリットでした。
国際政治学者であるギルバート・ドクトロー博士は、「トランプ政権にとってイランの核兵器製造能力を破壊したかどうかは本質的ではない。ネタニヤフがイランを攻撃する口実を完全になくす。ネタニヤフが自力でイランの核施設を破壊するために核兵器を使用することを阻止した」と語っています。日本の大手メディアは相変わらずのトランプ批判で、この事実を報道している局があるでしょうか?トランプ大統領のやり方は誰にも危害を加えない、死者を出さないものでした。この事実を知った時、本当に慎重に長年に渡って計画されてきた平和への作戦であったことから、表向きにはバイデン政権であっても、やはり“トランプ大統領”として動いていたのだと分かりました。
トランプ大統領を応援してきた人であっても、今回のイランへの攻撃によって、いっきにトランプ批判へと変わった人もいます。トランプ氏の周りにいる裏切り者をあぶり出すことも今回の目的の一つだったようです。神への信仰がなければ、人の意見、状況でコロコロ言うことが変わり、翻弄されます。しかし、本当にイエス・キリストを知って信じている人は、神が見ておられるという信仰ゆえに意見は変わりません。神の御言葉だけに忠実です。トランプ大統領は強い信仰の持ち主であること、同じ信仰もった兄弟が急に戦争を起こすはずがないという私たちの信仰もあり、今回の裏の作戦を聞かされた時は、やっぱり!と霊が喜びました。移ろわない正義は、聖書を信じる者だけにあることを再確認しました。そして、神という存在は目には見えないからこそ、賛美歌の歌詞通り、私たちクリスチャンが神の義をもって表すしかないのだと語られました。
そして、国の正義、戦争によって傷ついた心、他者の正義によって抑圧された心を解放できるのは、ワクチン後遺症はじめ、あらゆる病気を癒すことができるのは、イエス・キリストだけです。イエス様は私たちが罪に死に、神の義に生きるために地上に来てくださいました。全てが新しい人生を与えてくださいました。もう一歩も行けない現実問題から救われた!医者に見放された病から癒された!その事実こそが、私たちが生きている神と共に歩んでいる証になるのだと語られました。
今週は、マタイによる福音書6章、7章からみことばが与えられました。
マタイ6:19〜34
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるからである。 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイ7:1〜6
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
※我が強く、自分の意見を言いたい人は、誰かを裁き、常に、「やられた!言われた!」の文句、つぶやきがあります。でも結局相手は自分の鏡であり、自分がそうだから、相手も同じで、衝突するのです。聖書は無条件の愛と無条件のゆるしを教えており、神はどこまでも愛で語っているか、微塵でも裁きをもって関わっていないかを見られています。一生を豊かに平安に生きて行く秘訣は、人を裁かないこと!自分のことは棚にあげて、人のことを悪く言っている限り、豚に真珠で真理の教えは入っていかないのだと語られました。
マタイ7:7〜12
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
※人をさばかない者は!求めたら、与えられます。ただし、肉欲で欲しいものを求めて祈っても、神は全てを御存知ですから、あなたのために与えないものもあるのだと語られました。浪費する人に必要以上のお金は与えませんし、この人と結婚したら不幸になると分かっていたら、どれだけこの人と結婚したいと祈ったところで叶わないでしょう。
今、フェンタニルという合成麻薬がアメリカで問題となっています。一度使用したら、絶対にまた欲しくなる麻薬で、最終的には廃人・ゾンビのような姿になり、死に至ります。その麻薬は中国・武漢で造られ、直接アメリカに輸出できないため、何と日本を経由してアメリカに入っていたことが明らかになりました。日本でもすでに大阪の西成で出回っているそうです。これが国内で大きな問題になっています。日本政府は分っていて行ってきたのか!?人間は最終欲に負けます。廃人になっていく薬を、欲しいからと言って与え続ける、流し続けることに加担してきた日本。ここからトランプ政権によってどんな制裁を受けるのか。【良い贈り物】とは何か。欲に応えることではないと語られました。
マタイ7:13〜27
狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
※母娘で集会に出席している姉妹たちが、救われていても集会には来ず、タバコとお酒がなかなかやめられない夫・父親のことを、「クリスチャンの自分たちよりも立派な考えをもっている!」と称賛していました。しかし、神の目から見たら、タバコとお酒がやめられていない時点で満たされてはおらず、【集会をやめることはせず】(怠惰になって休むことも違います)のみことばにも反している彼は、偽善者であると語られました。全てが主イエス様によって新しくされていなければ、どれだけ立派なことを言っていても、義とはされないのです。【悪い木は悪い実を結ぶ。悪い木が良い実をならせることはできない】、白か黒かはっきりされている神です。天にいます父の御旨の行う者だけが天国に入れること、天国の門は狭いことを再確認しました。
先週、N家族の証を紹介しましたが、子どもが働いて得たお金を、親が使わずに貯めてあげる事の何が悪いのか?と思っていた兄弟姉妹が多かったことがコメントを通して分かりました。実際この世の人が聞いたら、素晴らしい親子関係と言われるでしょう。改めて、今週の集会で霊の世界における牧師の見解を聞き、神の正義と、お金がもつ霊力について学びました。
今週の集会でB兄弟は、「先週の集会で、『今まで入れてもらった生活費は、新車を買うために使わせてもらいます。結婚資金は出せないから、自分で貯めていってね』と言ってしまったことで、娘を傷つけたこと、圧迫していたことを悔い改めます。余計な言葉で人を傷つけていると妻から訓戒を受け、職場においても同じことをしていないか吟味しました」と悔い改めました。それに対して牧師は、「霊的には圧迫よりお金の支配になります。お金繋がりで支配されているから、圧迫されるのです」とおっしゃいました。
「お前のためにお金を貯めてあげている、貯めてあげた」という自分の義、子どもは子どもで、親が貯めてくれているから安心という甘え、そんなお金つながりの支配関係の中で、いつの間にか子どもたちは感謝することもなく、何歳になってもやってもらって当たり前の思考にもなっていきます。今や生活費さえも入れずに実家に居座る子ども?成人した大人もおり、『親のくせに!親なんだからお金払え!』と主張しているほどです。“子どものためにやってあげたい”という親心。でもやってあげすぎの甘やかし、子ども側からしたら頼んでもいないことを先回りして行うこと、愛情の押し付けは、子どもの成長を妨げます。【あなたにとって良いことが相手のつまずきにならないように】と聖書は教えています。逆に、親に頼れず自分の力でやるしかない、必死に働いてお金を稼ぎながら学校に通い、生計を立ててきた子の方が、心身共に強く成長している場合もあります。
『あなたのためにお守りを買ってあげた!』という親。『私のために親がお守りを買ってくれた』という子ども。何かあったらお守りに頼る子に育てるのですか?自分で真の神に聞いて(みことばをもらって)歩める子に育てるのが神の義です。親の正義とは何でしょうか?神と自分の関係があることを知らせ、神の義である聖書を土台にして教育していくことであると語られました。
また、今回のN家族の父娘の関係は、霊的に仏教制度による寺(坊主)と檀家の、お金がらみの持ちつ持たれつの関係と同じであるとも語られました。親が葬式、法事のたびに、坊主にお金を支払ってきた姿を子は見て育ちます。そして、自分も同じように行なわなければならないと暗黙の了解で、仏の重荷を背負うことになっていくのが日本です。特に男尊女卑の霊により、女性は嫁いだ家のしきたりに黙って従い、神仏に仕えるという霊的重荷を負わされ、年々腰が曲がっていきます。海外の女性たちにはない姿です。そういった仏教の霊を断つためにも、まずは親子間にあるお金つながりの支配関係を断って、子どもが自立すること、家(の霊力)に縛られず個として立ち上がることが重要であると語られました。聖書の教えは、人をどれだけ自由にするかの教えでもあるのです。
お前のためにお金をためてあげている!?お金があれば、大丈夫なのですか?その思考こそがお金が神、富に仕えているのだと語られました。サタンの使う第一の武器はお金です!神とお金(この世の富)に兼ね仕えることはできません。兼ね仕えることができる歩みは、結果、二心者であり、心を見られる神の審判の日には地獄行きを意味します。【不法を働く者どもよ!行ってしまえ!私はあなた方を知らない!】はイエス様の言葉です。お金を握っている人には、絶対に霊の世界が見えません。お金を信じている人は神を信じてはいないのです。
子どものためにお金を貯めることよりも、今を豊かに家族で過ごすことを考えないのでしょうか?“今”を生きていますか?と問われ、先のことを心配している時点で、それは思い煩いの人生であると語られました。
日本人は、人類は、まず何よりも先に、イエス様(聖書)の教えを子どもたちに教えなければなりません。お金はあとからいくらでも添えて与えられるのですから!
お金に望みを置き、お金のために生きる、働く人生は、お金に支配されてお金に圧迫されている人生です。2週に渡り、私たちはN家族を通して、そのキリストの奥義を教えられたのだと語られました。【義が律法(お金)によって得られるとすれば、キリストの死は無駄であった】ことになります!お金ばかり言う愚か者には、真実の愛(イエス・キリスト)はありません。
いつまでも勝利が得られない人がいるなら、「お金に仕えていて真実の愛がないのだ」と言えます。熱いか、冷たいか、なまぬるい者は吐き出そう!とおっしゃる神です。すでに神に吐き出されていないでしょうか。お金に仕えてきた人生であったなら、速やかに悔い改め、真実の唯一の神に仕える道を選ぶこと、まず神の国と神の義を求める生き方をしなければなりません。
人は蒔いたものを刈り取ります。お金が欲しいならば、お金を蒔く!親が「子どものために、その成人した子どもが働いて得た勤労の実を貯金する」と言っている事、実は「自分のために」になっていないでしょうか?お金を神と偶像崇拝して、その成人した子どもが働いて得た勤労の実を貯め込むことに熱心になる家族に、お金がカシラになっている家族間において子どもの霊的成長はありません。子どものために、家庭にお金を蒔いてあげたら、家族皆が祝福されるのだと、2週に渡る教えの答えを頂きました。そして、お金は自然に貯まっていくのです。
以上は、ぶどうの木の学び、証を伴って教えられてきた真理の学びです。
自分は何一つ変わろうとしない宗教をするのではなく、私たちは、自分が変わることに意志を向けます。お札やお守り、お金を払って買うもの、お金がいるものは宗教です。供養費、法事費等は、人間(坊主)の生活支援です。坊主丸儲けです。サタンの産物であることを日本人に教えなければなりません。
神は人間にお金を要求しません。全て神のものですから!聖書にある献金は、神のものが収入の中に入っているためそれをお返ししているだけです。しかも、それによって、「唯一私(神)を試してよい、あふるる恵みを受けよ」と言ってくださるのです。
本当のこと、真の神に出会う事を日本人が求められるように、私たちは、宗教の霊に勝利した証を自分で手に入れ、宣べ伝えていかなければならないと語られました。牧師は道案内はできますが、自分の勝利を掴むのは自分自身です。握ってきた糞土のような自分の義、肉の欲は捨て、終日差し伸べられているイエス様の手をしっかり握るよう語られました。
テトス1:1〜16
神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから―わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、また、信心にかなう真理の知識を彼らに得させるためであり、 偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。 神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである- 信仰を同じうするわたしの真実の子テトスへ。
父なる神とわたしたちの救主キリスト・イエスから、恵みと平安とが、あなたにあるように。
あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。 長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない。 監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、 かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、 教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。
実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。 彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。 クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、 この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、 ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。
きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。
アーメン
神の目から見たら、自分の義で生きる人は、人を惑わし、教えてはならないことを教えて家庭を破壊し、知性も良心も汚れてしまっている魂の病気です。迷いの霊が入り込むと、頑固になり真理に至れませんが、癒しと解放はイエス様にしかありません。私たちがまず完全にきよい者となり、断食と祈りによってとりなし、神が直接語って下さることを求めます。
神の目から見て善しとされるのは、神の義に生きる人です。我を捨てて、神の羊・僕となる人は、自分の意見を言いません。いつまでも、感情を吐き出しません。イエス様の十字架を無駄にすることなく、神の義、本当の「正義」を貫き、来たる7月を歩んでいけたことを感謝して祈ります