神の愛を見えなくさせる人間の強い情 | ぶどうの木 Good News

神の愛を見えなくさせる人間の強い情

holygirlですニコニコ

 

今週の集会で牧師を通して、皆の“神の栄光”の捉え方が間違っていないか?と問われました。

幼稚園や学校に通う神の子どもたちは、「いつもニコニコしていて元気に挨拶ができる」「自分の事だけではなく友達のことも思いやれる」「勉強ができ、積極的に発表する」「クラスのリーダー的存在で、皆に信頼されている」など、先生の評価がそのまま“神の栄光”となります。しかし、社会人となった時はどうでしょうか?「良い人」「優秀な人」「立派な人」と言われることが栄光だと思って、自分の意見を言わずに周りに配慮する、完璧主義になって自分の弱みを見せない、周りがどう思うかばかりを考えてブランド品をもち、洋服や車にこだわり、高学歴、高収入の職を目指すことが神の栄光ではないのだと語られました。入院した人がいたらすぐに見舞いに行く事が良い、駆け付けることが神の栄光だと思っている人もいますが、自分だったらどうか・・・入院中ではなく退院してから来てほしい人もいることを思うと、それは自分の義を立てているだけであるとも語られました。自分の義を立てる人に神の義はなく、そこに神の栄光は輝きません。

また、自分の握っているものが“神の栄光”かどうかの基準になっていないかと問われました。例えば、お金を握っている人は、裕福な生活をしていることが神の栄光だと思いますし、学歴を握っている人は、進学校に入ること、難関大学に入ることが神の栄光だと思います。

 

聖書には、

【あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。】(ルカ16:15)

【今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。】(ガラテヤ1:10〜11)

【あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。】(マタイ16:23)

と書かれています。

この世(の人から)の称賛を求めて振る舞っているのであれば、それは、神のことを思わないで人のことを思っているのだと語られました。人がどう思うかばかりを気にしていると、「こんな姿を見せたら、こんな事を言ったら神の栄光ではない」という思考にもなっていきます。相手の言うことに対して、「間違っている!」と聖書を土台に反論し、相手を怒らせたら神の栄光ではないのでしょうか?体の調子が悪くて相手に心配されたら、神の栄光ではないのでしょうか?家族が不仲であったり、離婚してしまっていることは、神の栄光ではないのでしょうか?

人の目に見える栄光と、神がおっしゃる栄光は違います。神は何を見て“栄光”だと思われるのかひらめき電球牧師は、「いつも喜び、何があってもどんと構えている生き様、神の愛と力に励まされ、苦しみを乗り越えてきた姿が栄光ではないですか?」とおっしゃいました。

たとえ今悪霊との戦いの中であっても、「私はサタンに門を開いてしまって、体に攻撃を受けたのだけど、悔い改めて戦っているところなの」と語る、「様々な問題はあっても、聖書からこういう解決の仕方を学び実践中です」と語る・・・そのように、自分のことを包み隠さず話す姿、今を前向きに生きる姿、考え方に、相手は心を動かされる(神がそう見せる、そう感じさせる)のです。証をする時も同じです。救われる前の自分がどんな人間だったのか、どれだけ的外れに生きたひどい人間で、何を刈り取ってきたのかを笑いながら話し、サタンをあざけって(やる!)、自分はもうそこにはいないのだと救われたことを喜んでいる姿が、神に喜ばれる“神の栄光”なのだと語られました。いつまでも過去を思い出しては泣いていたり、過去を恥じて語らないのであれば、神のことを思わないで人のことを思っているのです。

さらに具体的に、店を経営している人であれば、店が繁盛すること以上に、客が来ない時間にイエス様に聞きながら掃除をしたり、客が来るように祈り、ポスティングをする姿勢、車の窓からゴミを捨てるのではなく、集めておいて帰ってからゴミ箱に捨てる姿勢、公衆トイレの洗面台が水浸しになっていたら、さっと拭いてから出る姿勢、玄関口で靴が整頓されていなかったら、まず整頓してから自分の靴を脱ぐ姿勢など、誰も見ていない時にどんな行動をしているのか、神は見ておられます。

自分を良く見せるために、あるいは自分が得するために、ズルをしたり、嘘をついたり、相手によって態度を変える2面性がある人、ここでの評判と別の場所での評判が違う人は神の御前で良しとされるはずがありません。また、いつも着飾ってきれいにし、主人の稼ぎが良く、豪邸に住み、長期休みは海外旅行に行く主婦・・・一見皆がうらやましがる姿ですが、家庭内では、料理をほとんどせずに食卓はスーパーで買ってきた総菜だらけであり、部屋やトイレは汚れ、夫婦喧嘩が絶えないのであれば、神の栄光でしょうか?

 

神はいつも自分を見ておられるという信仰があってこそ、本来神が求めておられる“神の栄光”を輝かすことができるのだと語られました。人のことを思わず、神のことを思うならどんな言葉を出すのか、どんな行動をとるのか。人間界が全てで、目の前にいる人がどう思うかばかりを考える人は、情にまかれている人、先週語られた通り、強い情をもった人であると語られました。サムエル記上15章23節に、【強情は偶像礼拝の罪に等しい】と書かれている通り、そのような人は自分が神の自分偶像礼拝者であり、自分だけを喜ばせている人です。

 

今週の集会では、強い情について、神の家族の証からも学ぶことができました。

家族で集会に参加しているN家族は、長女のA姉妹が社会人となり毎月5万円の生活費を両親に支払うようになりました。A姉妹は、当然両親が使ってくれていると思っていましたが、実際は父親のB兄弟が「娘の結婚資金のために貯蓄する。その5万円は使うな」と母親のC姉妹に言っていたため、手をつけないまま置いてありました。

A姉妹は、母親に作ってもらったお弁当を持って出勤しており、ある日、上司から「お弁当ぐらいもう自分で作らないと!」と言われたそうです。そこから、家には生活費として5万円入れている話をすると、上司は5万円という金額に驚き、「それなら、弁当を作ってもらっても良いね!」と納得したそうです。世の中の人の評価、判断基準でした。社会人となった子が生活費を入れるという当然のことをしているのに、お金を入れているなら良いのか!?お弁当を作ってもらってはいけないという事ではないですが、霊的にはお金によって母親を使う、奴隷にする霊力になるのだと語られました。

 

そんな中、同居している高齢のB兄弟の父親が、乗っていた車を買い替えることをきっかけに、父親がローンを組んで購入することはできないため、家族皆で乗れる新車をB兄弟が購入することになりました。その車の支払いをしていくことを考えると思い煩いもあったのですが、C姉妹は娘からもらってきた生活費があるではないかと思い、B兄弟に提案しました。以前、群れの姉妹が仕事を辞めて起業する際に、それまでの生活費を心配して牧師に相談したところ、「娘さんが生活費として入れているお金を使えば良い、それが娘さんの自立に繋がる」という話をしていたことを思い出したのでした。その姉妹は、娘からもらっている生活費は使わずに、娘のために貯金していました。その間、娘は神の家族に何度自動車学校に通うことを勧められても後ろ向きでしたが、母親が生活費として自分のお金を使ってくれたことで、霊的に気持ちが変えられ、すぐに自動車学校の契約に意志を向けたのでした。起業した姉妹も、前職よりも収入が増え祝福されています。

C姉妹は、長女のA姉妹がいまだに霊的にも肉的にも自立できていない部分があるのは、生活費として入れているお金を使っていないからであると悟ったのでした。しかし、B兄弟は「そのお金は使わない」の一点張りでした。そんな家庭内の状況をC姉妹が交わりの中で牧師に話すことになり、牧師を通してそれはB兄弟の男義、支配であると語られました。C姉妹は、すぐにそれをB兄弟と長女のA姉妹に伝えました。そして、A姉妹が、「自分の成長と祝福のためにも握らずに生活費として使ってください。結婚資金は自分で貯めていきます。大学まで出させてもらってありがとうございました」と宣言すると、B兄弟は「アーメン」と納得して長女からの生活費を感謝して受け、使うことにしたのでした。

今週の集会前に、改めて牧師がB兄弟の思いを尋ねると、B兄弟は、「自分たちが結婚する時に、妻の両親がお金を出してくれた。だから、娘の結婚資金は親が出すもの、自分が親にしてもらったように、我が子にしなければならないと思っていた」と答えました。牧師はその思いに対して、「それは霊的には、親のお金による成人した子どもへの支配であり、情欲の霊であることが分かりますか?そして、目には見えないけれど、子供にとっては圧迫となり、人間的にも、もちろんクリスチャンとしても、いつまでも自立させない甘えを来たらすことになります。B兄弟の義、自己愛(自分に心地よいやり方)、自己満足でしかなく、結果、神ではなく自分に栄光を帰すことになります」と話し、再度B兄弟は理解、納得したのでした。

そんな一連の流れを、B兄弟が集会で証してくれた際、「今までの生活費は、新車を買うためにも使わせてもらいます。結婚資金は出せないから、自分で貯めていってね」とその場にいる長女に伝えたのですが、牧師はその言葉に対して「それは違います!それも長女のA姉妹にとっては圧迫される言葉です!」と指摘しました。続けて「B兄弟の話、考えのどこにも神がいないですね。現実しか見ていないですね。生活費として入れているお金を正しく使うことは、両親の祝福であり、娘さんの祝福にもなるのですよね!?なぜ、長女が結婚する時には、自分が祝福され、長女が必要とする時にはその資金が備えられていると思わないのですか?」とB兄弟を訓戒しました。突き抜けた信仰、まず神の国と神の義を求めたら、あとのものはすべて添えて与えられるという信仰がB兄弟の内にないことが分かったと共に、情で物事を判断していることも明るみになり、私たち神の家族にとってもN家族が分かりやすい教材となってくれ感謝でした。

 

クリスチャンの中には、【受けるより与える方が幸い】なのだから、親が与えてあげる事の何が悪いのか?という人もいるでしょうが、その考え方は聖霊を正しく受けていないクリスチャンの考え方です。このみことばはここで持ってくるものではありません。この場合、【受けるより与える方が幸い】の側に立つのは、子どもの方です。社会人になり、実家に生活費を入れること、与えることは当然であり、さらに初任給で家族に今までのお礼に食事に連れて行ったり、初ボーナスで欲しいものをプレゼントしたりと、今まで受けて来た分を恩返ししていくこと、自分がしてもらいたいように相手にしてあげようと考えて行動すること、「私も一人前になりました。これからは今まで出来なかった旅行やおしゃれのためにも使ってください」と言えることが神の愛、隣人愛であり、そういう子は精神的自立も早く、いつまでも親にぶらさがり甘える子にはなりません。他者の前でも情に流されずに振る舞うことができるのだと語られました。

今の時代の若者は、親が甘いこともあり、本来やるべきこと、身に付けておくべきことができずにいます。親は頼れる存在に変わりはないですが、頼ることしか考えず、親は自分に何をしてくれているか考え感謝するに至れない子が多いです。弁当を自分で作るにしても、冷蔵庫に安全で新鮮な食材を備えてくれているのは誰か?そういう事まで考えられる子は、コミュニケーション能力も高いでしょう。B兄弟の事から、親が子供をダメにしていないか、甘やかしすぎていないかという事も語られ、家庭教育の大切さも再確認しました。

 

長女のA姉妹にも改めて話しを聞くと、「生活費を入れることで使ってほしい反面、余っていずれ自分に戻ってくるならラッキーと考えていたことを悔い改めます」という言葉から始まりましたが、生活費を使ってと言っても使わない情の父親の言動が、健康のために4毒を食べないように家族皆が気を付けているにもかかわらず、やめてと言っても4毒食品を買ってきては「食べろ」と与え続けてくる祖父(B兄弟の父親)の言動と同じであることに気付いたと証してくれました。祖父は今反キリストになって集会には来ていませんが、3代4代、父と息子で、相手が望んでいないことを自分の義で行なってしまう霊力が明るみになったのでした。どちらも、相手が喜べば自分の手柄であり、自分に栄光を帰すことになります。結果、同じ霊力下にあるB兄弟は反キリストの父親に対して真理の言葉が出ない状態になっていました。神のことを思い、神の義を行う人間は、全ての栄光はイエス様に帰します。強い情は、完全に自分の義の押し付けであり、そこには相手を思う愛は無く、結局は自己愛、自己満足なのだと教えられました。

 

何が神の御心であり、何が情であるのか、分かっているつもりでも、家庭の中での言動、当たり前に行なっている事の中に、的外れがたくさんあり、気づけていないことがまだまだあるのではないかと、私たちはこの証を教材に自分を吟味しました。そして、先週示されたトラクト『日本人は神への知識がないために滅ぼされる!!』より、人間の情に対して警告している箇所を読み、確認しました。

 

<神の愛を見えなくさせる人間の情>

聖書には、天国に入れる人数が書かれてあります。
                                      
ヨハネの黙示録14章1節~3節
【なお、わたしが見ていると、見よ、小羊(イエス・キリスト)がシオンの山に立っていた。また、十四万四千人の人人が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名(神・天の父)とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。】

 

14万4千人・・・これが神の目から見た霊的な数字なのか、それとも実際の数字をあらわすのかは、私たちには分かりませんが、約70億人の世界人口から見ても、天国に入れる門がいかに狭いかはよく分かります。

マタイによる福音書7章13節~14節
【狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。】

マタイによる福音書22章14節
【招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。】

では、この14万4千人はどのような人々なのか・・・聖書にはそのことについてもはっきりと書かれてあります。

ヨハネの黙示録14章4節~5節
【彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。】

この女とは、神の愛よりも、人間愛・人間の情がすばらしいと教えている悪霊です。特に、仏教の国・日本は、この情を頭(かしら)とさせようとする霊力におおわれています。
故人を忘れない、悲しみを忘れないという精神が仏教制度という土台の中でしっかりと根付いていますし、情の深い人=人間味のある人は、“善良な人”として称賛されます。

しかし、その人間愛・人間の情は、自分の思い通りにならなかったり裏切られた途端、態度は一変し、『目には目を、歯には歯を』をしたくなります。“私はこの人にこれだけの愛を注いであげた!”と思っている分だけ、反動で恨みと憎しみ、裁きが生れるのです。本当の愛(神の愛)がなければ、まるでオセロの駒が白(情)から黒(裁き)に変わるほど、人間の愛・情には裏表があります。
聖書ではこのような人間を、「偽善者」と呼んでいます。
真のクリスチャンでない限り、この世で生きている限り、必ず心当たりのあることだと思いますが、いかがですか?

エレミヤ書17章9節~10節
【心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。】

魂(心・感情)に働きかける人間愛、人間の情を否定するつもりはありませんが、私たち人間には、神というお方を知るために与えられた『霊』があります。人間愛・人間の情は、相手の魂に寄り添うことはできても、相手が求めている真の解決=霊を立たせる力はありません。人間の『霊』は、自分のことをすべて御存知である神の愛、神の情(なさけ)を求めているのです。
人間は当たり前のように、魂対魂で、人間愛・人間の情を頭(かしら)に生きてきましたが、それによって本当の自分=『霊』を解放する大事なものが見えなくなるという、サタン(悪霊の親分)の策略にまんまとかかってきました。神はそんな人間に対して怒っておられるのです。

神の愛について、聖書には次のように書かれています。

コリント人への第1の手紙13章4節~8節a
【愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。】

そして、神の愛の象徴こそ、神が私たち人類の救いのために地上に送ってくださった、神の御子イエス・キリストなのです。
イエス様は、あなた自身のこの世での苦しみ、悩み、痛み、何より三、四代に渡る血の中にある呪い祟りを、すべて背負って十字架についてくださいました。さらに本来は、私たち人間一人一人が、神に対して犯した偶像礼拝と高ぶりの罪のゆえに十字架にかからなければならなかったのに、あなたの代わりに十字架にかかり、あなたの罪の許しを請け負ってくださいました。

イザヤ書53章4節~6節
【まことに彼(イエス・キリスト)はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。】

私たち人間に分かるように、約2000年前にイエス・キリストを地上に送り、神がご自身の存在をこの世にあらわしてくださいました。この地上でなされたイエス・キリストの偉大な御業、神の愛に目を背けて生きている人間は、皆、神に対して罪を犯しているのです。約2000年前の外国の出来事ではなく、地球上の全人類、私たち日本人のためにも!なされたことなのです。

ヨハネによる福音書3章16節~21節
【神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。】

 
<情にまかれているクリスチャンへの警告>

イエス様を受け入れたクリスチャンは、表は神の愛、裏返しても無条件の許しでなければなりません。【きよい人には、すべてのものがきよい。】(テトスへの手紙1章15節a)と書かれてある通り、裏表のない人=真理(聖書の言葉)を体験・体得している真のクリスチャンは、どう変わっても清い・聖い白なのです。

情にまかれていては、神の愛に立つどころか、神の愛を体験・体得することさえできません。相手の顔色をうかがい、相手を傷つけないように、機嫌を損ねないように神のみことばを語っていては、神の怒りと報復をまねいている人を救うことなどできません。
「神は愛」であることばかりを福音し、義理人情にまかれて「神は裁き主」であることを伝えずにきたクリスチャンがどれだけいるでしょうか?

マタイによる福音書23章13節
【偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。】

また、キリスト教、仏教、イスラム教が手を取り合って平和を祈る?ような近年の社会現象!そのようなことを神が許されるでしょうか?クリスチャンの内にある偽善の思いが、どれだけ真の神をあざけり、偽の神々に仕える者にもあざけられていることでしょう。
真理は1つだけ!真の神は、イエス・キリストお一人だけです!
情によって真の神も偽の神々も同等においている人間(クリスチャン)は、次のみことばに当てはまる者です。キリストの僕ではない、なまぬるいと、はっきり書かれてあります。

ガラテヤ人への手紙1章10節~11節
【今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。】

ヨハネの黙示録3章15節~16節
【わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。】

 
<神の守りの中に入る>

私たち<ぶどうの木>は、聖書のすべてのみことばを愛し、信じ、実践しているクリスチャンとして、神の愛をもって皆さんに伝えます。
次の告白の祈りを通して、真の神・イエス様に、この時まで偽の神々を拝み仕えてきたことを悔い改めてください。それは、神の側から見れば、たとえどんな理由があったにせよ、人間の高ぶりの罪となるのです。意志を向けて「ごめなんさい」と言うことで、あなたが三、四代に渡って受けてきた災い、これから受けるはずであった災いから守られるでしょう。

エレミヤ書2章35節
【あなたは言う、『わたしは罪がない。彼の怒りは、決してわたしに臨むことがない』と。あなたが『わたしは罪を犯さなかった』と言うことによって、わたしはあなたをさばく。】

マルコによる福音書1章15節
【時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。】

マタイによる福音書11章28節
【すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。】

 

 

全てが新しくされていなければ、救われていても簡単に情欲の霊にまかれてしまいます。特に家族からの迫害によって、家族を失いたくないと思い、家族と平穏に暮らすことを選んで群れを出た人、信仰を捨てた人が今まで何人もいました。

私たちは牧師を通して、「世の中の動きに、人の口の言葉に、惑わされ翻弄され、古い肉の自分から大迫害を受けていませんか?霊の自分を一番迫害してくるのは、古い肉の自分です。情と欲に引っ張られたら、霊の世界が虚ろに愚かなことに、はたまた洗脳にも思えてくるでしょう。3代4代に渡る強い情に対して、イエス様の御名と十字架の血と、みことばで、退けられているでしょうか?今まで迫害を受けて群れを離れていった人たちと同じ状況に立たされた時、あなたたちも情に流されるのではないか。その危うさを感じています」と語られました。また、年齢関係なく、誰に対しても、語るべき真理はストレートに語れる自分であるか、特に若者たちは聖書を学んできた自分を誇りとし、年配者に対しても聖書を土台に物事を判断して語る強さがあるかも問われました。そして、今週の教えに対するみことばとして、エレミヤ書32章39節~41節が与えられました。

 

エレミヤ32:39~41本

わたしは彼らに一つの心と一つの道を与えて常にわたしを恐れさせる。これは彼らが彼ら自身とその後の子孫の幸いを得るためである。わたしは彼らと永遠の契約を立てて、彼らを見捨てずに恵みを施すことを誓い、またわたしを恐れる恐れを彼らの心に置いて、わたしを離れることのないようにしよう。わたしは彼らに恵みを施すことを喜びとし、心をつくし、精神をつくし、真実をもって彼らをこの地に植える。

 

アーメン宝石緑

生かすことも殺すこともできる私たちの創造主である神を恐れよと語られています。

先週末にアメリカがイランを攻撃し、前回の大統領任期中には戦争をしなかったトランプ大統領が戦争を始めた!アメリカへのイランからの報復は!?日本はどうなるのか・・・の週明けとなりました。表向き、マスコミの報道だけを聞いていれば、戦争モードですが、裏では一体何が行われているのか、トランプ大統領の意図は?ディープステートとの戦いのクライマックスなのか?と思いながら、動向を見る自分に変えられています。マスコミに翻弄されない、騙されない!コロナ禍での産物です。

 

時事的に、イスラエルに対するみことばとしては、使徒行伝5章29節~32節が与えられました。

 

使徒行伝5:29~32本

これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右にあげられたのである。わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜った聖霊もまた、その証人である」。

 

アーメン宝石ブルー

霊的にイスラエル人とは、真の神の選びの民であるクリスチャンです。仏教や神道では神の御心にかなう悔い改めはできません。つまり、救いがないという事です。証人になれるのは、単にクリスチャンではなく、真に神に従える者!真のイスラエル人!それは聖霊を頂いたクリスチャンだけであると強く確信する裏付けのみことばとなりました。

 

また、世の中がどんな状況になろうと、妥協せずに自分自身を清く保ち、神を裏切らなければ、安全なところに身を置き、衣食住も守られ平安に過ごすことができるのだと今週の集会の終わりにも語られ、アーメンでした。そして、賛美歌を通しても、イエス様の愛を宣べ伝える時、全ての栄光はイエス様に帰している自分であること、イエス様の愛をますます宣べ伝えること(イエス様の愛は情の人には厳しいです)、自分の義と情で物事をすすめ、人に伝えるなら、自分に栄光を帰していることを再確認しました。

神を恐れず、情にまかれて、神のことよりも人のことを思った瞬間、神に忌み嫌われ、神を敵にまわすことになります。それは自ら滅びを招くことになることを忘れず、自分の血の中にある強い情を断ち切って、この1週間も歩めたことを感謝して祈ります。