主の軍隊になるために身に付けるべき教え
holygirlです
私たちの日常生活には、様々な事が起きてきます。また世の中には様々な情報があふれています。その一つ一つ、点だけを見て一喜一憂したり、とびついているのならこの世の人と変わりません。
ぶどうの木は聖霊の力と聖霊の働きを教える群れであると語られてきました。コロナ禍で私たちはこの聖霊によって示されてきたことにより守られ、聖霊により与えられるみことばをもって時を分別し、歩んでくることができました。御霊によって歩むなら点と点は繋がっており、自分のたどってきた道のりは確かに主と共にあったと確信することができます。
先週語られた通り、「みことばを聞くだけでなく行う者になれ!」と言われる時、行なうためには聖霊が必要です。みことばを肉で行うなら限界があり、福音のためなら家族をかえりみなくても良いという極端な解釈をしているエホバ(異端)、カルトになっていってしまいます。聖霊の賜物である【知識の言葉】と【知恵の言葉】によって、みことばを神の御心にかなった正しい解釈をして行うことができ、律法にはない神のやり方、神の道が拓かれていくことを体得・体験します。
そして、みことばを行なうことができる聖霊の力によって、人は180度変われることを私たちは学んできました。
他者が変わることを当てにして待つのではなく、自分から変わっていくのがクリスチャンです。隣の芝生が青く見え、環境が変われば自分が変われる、心機一転して始められると思いがちですが、どこにいってもサタンの支配下に変わりなく、自分が変わらなければ同じことの繰り返しです。救われ、変えてもらいたいと願った初めの心が、変わりたい!!変わらなければ!!になってこそ、良い土壌(心)にみことばがまかれ、クリスチャンとして成長していくことができ、他者が変わり、置かれている状況も変わっていくのが真理です。
私たちは確かにこのように学び、肉を打ち叩いて忠実にみことばを行なってきた人は成長し、たくさんの良い実・証を結んでくることができました。しかし、いつまでたっても、変わりたい!!にならない人、苦しいと自分のやり方をしてしまう肉の塊、肉が強すぎる人、二心者で生温い人、この学びを全く解っていない人が群れにいることも明るみになった11月の終わりでした。そうであれば、自己破綻して群れを飛び出すだけであり、牧師に対してはいつまでも疲れさせる霊力として使われてしまいます。
12月最初の集会となった昨日は、【豚に真珠、聖なるものを犬にやるな!】と厳しいみことばが与えられました。そして、【木は実で判断しなさい】と言われる時、まいた種は芽が出ているか?花が咲いているか?良い実になっているか?この教えを聞ける神の恵みを無駄にしていないか?真珠よりこの世のものを愛していないか?自分の心がどこにあるのか吟味しなさい!と語られ、この真理の教えの値打ちが解らない人は集会の席に着く必要がない、そういう者は世の中の人につまずきを与えるだけであると、牧師を通してイエス様から訓戒を受ける事となりました。
ガラテヤ4:19~21b
ああ、わたしの幼子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。できることなら、わたしは今あなたがたの所にいて、語調を変えて話してみたい。わたしは、あなたがたのことで、途方にくれている。律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさい。
ガラテヤ5:1~26
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。
あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。 あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼している。しかし、あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう。 兄弟たちよ。わたしがもし今でも割礼を宣べ伝えていたら、どうして、いまなお迫害されるはずがあろうか。そうしていたら、十字架のつまずきは、なくなっているであろう。 あなたがたの煽動者どもは、自ら去勢してしまうがよかろう。 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。
アーメン
霊(聖霊の言う事)と肉は真反対です。肉ではできないことを通され、その中で通れないところは通させない神である信仰に立って行なう歩みの中で信仰が強められ、証が生まれていきます。このみことばは食べれるか?このみことばはちゃんと霊魂で消化して身にできたか?と一つずつ確認して進む歩みは、赤ちゃんに離乳食をあげる事と同じだと語られました。
私の息子は満6ヶ月になり、離乳食が始まっていますが、1つずつ食材を与えながら、それを吐き出さずに飲み込めるか、湿疹は出なかったか、ちゃんとうんちが出たかを確認しています。初めての食材は一日につき1つあげ、慣れてきたら次の食材・・・そうやって、日に日に食べれる食材が増え、組み合わせて食べることもできるようになります。霊の乳(母乳)を慕い求めていたところから、自分でスプーンを持ちたがって口に運びたくなり、飲み込めたら誉められ喜び、うんちが出たらすっきりして笑顔になる・・・そんな姿がクリスチャンの成長と重なります。と同時に6ヶ月間での成長を思う時、クリスチャンとしての6ヶ月の歩みはどうか?ちゃんとみことばを身にして大きく成長してきたか?と問われます。肉の思いが強ければ、せっかくみことばを食べても吐き出したり、消化しきれず便秘状態です。自分に都合のよいみことば、肉に心地よいみことばばかりを宣言して過食しても、肉が肥え太るだけですし、要らない!無理!食べたくない!と言い続けて拒食であれば、やせ衰え、サタンに一撃されたら倒れてしまいます。
私はこうなりたい!僕はこうしたい!と自分の思いや夢、希望は言うけれど、イエス様が牧師を通しておっしゃることはやらない・・・180度霊から変えられていないのに語る夢や希望も、神の御心とは真反対です。今更何を言うのか!?と驚かされる発言、自分でそれが“自分のやり方”であると気づいていない人が多すぎると牧師はおっしゃいました。牧師に指摘されないと解らない羊は、どれだけ肉が強いのでしょう。自由を得るために、イエス様によって解放されたはずなのに、再び奴隷のくびきにつながれている状態です。自分のやり方=この世で習得してきたやり方をし、自分の意見を言い続けるなら、神の恵みから落ちているのだと語られました。
私たちは牧師を通して、「肉でしようとすることを全部行なっていませんか?」と訓戒を受けました。自分の内にあるパン種をふくらませ、肉でしようとすることを全部行なって、律法のもとにいるなら、神の好意はありません。
「御霊によって生きる」とは、「霊に忠実に生きること」です。そこには隣人愛が伴います。【無条件の愛と無条件のゆるし】は聖霊の力を頂いてはじめてできることです。そして、イエス様が与えてくださった自由とは、肉を喜ばせるための自由ではなく、愛をもって互いに相和し仕え合うための自由です。この自由と隣人愛があるなら、戦争は起きません。
今一度、みことばにある【肉の働き】を忌み嫌って捨て去り、【御霊の実】をあらわす自分にならなければいけないと語られました。
ヨハネ1:1~5
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ヨハネ1:6~13
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
アーメン
すべて言葉から始まります。みことば、福音の言葉は命を生みます。我が子に他者にどんな言葉をかけているでしょうか?悪い言葉、自分の意見を吐くなら、受けた側はその言葉によって自身を建てあげてしまいます。
また、自分の思い・意見を言うところから姦淫の霊、遊女の霊が動きます。本当のものがあらわれず、独り善がりになっていったり、同じ意見を持つもの同士、党派心が生まれ、分派分裂の霊を動かします。だからこそ、私たちは見るもの聞くものに気をつけなければなりません。(食も身体をつくるものですから気をつけなければなりません。)悪い交わりは良い習わしをそこないます。
私たちの髪の毛の数まで知っておられる神が「できる」とおっしゃっているのに、「私には無理」と言う人がいますが、神(の原理原則)よりも、自分の方が偉いのでしょうか?私たち人間は神の被造物であることを忘れてはなりません。この世の神、サタンに洗脳された状態だから、「無理」と言えてしまうのです。自分の思いを言い続ける事は自分で自分を洗脳しています。だからこそ、【初めに言があった】のみことばを心に留め、まず黙りなさいと教えられてきました。余計な言葉を出し合って、互いに洗脳合戦をしている暮らしから撤退すること、言葉を出すなら、互いの徳を高める言葉を出しなさいと聖書は教えています。
日曜日だけクリスチャンのように振る舞う、日曜日にただ教会に通っているだけの人を「日曜クリスチャン」と言いますが、月曜日から土曜日まで、肉がグイグイ先行して不信仰な言葉、悪口、自分を呪い他者を呪う余計な言葉を出し、生活しているならば、罪を犯し続けているだけです。
的外れな生活に対しては、聖霊が「違う!」と軌道修正をはかろうとノックしてくれているはずです。聖霊の声は、静かに小さく聞こえますが、自分が違った事をしているなら、聞いた途端に、クリスチャンは胸がチクっとします。
神の言葉を行うのか、行なわないのか、神は観ておられ、聖霊は待機しています。
自分の人生の主役は自分であり、神は人間を御自身の言うことを聞くロボットにしないために自由意思を与えてくださいました。だからこそ、一つ一つの選択、言動の責任は自分にあります。
救われる前の道は、生きて地獄、死んでも地獄の世界・次元であり、そこはサタンが神でした。その支配下でどんな実を結んだのか・・・終極は死であったことを忘れてはなりません。牧師はある人とのカウンセリングで、「広島、長崎への原爆投下や3・11などの災害で犠牲になった人たちが大勢いますが、なぜ良い人もいたのに、神はそれをおゆるしになったのですか?」という質問を受けたそうです。なぜこんな目にあうの!?なぜあんな良い人が死んでしまったの!?と思うことが、この世で生きているとあり、私たちも救われる前はそんな理不尽だと思うようなことが起きる世の中でもがき苦しんでいました。しかし、聖書、聖書の神観を学んでいくと、3代から4代に渡る呪い祟りの霊があり、人間の創造主である神は、ご自身ではない神をつくり拝む人間を妬む方であることを知りました。そして、私たち人間が思う“良い人”の基準と、神が言う“良い人”の基準は違うことを悟りました。
牧師は「私たちが頭で考えて、良い人もいたのに、なぜ?と思うことは神の目から見たら高ぶりです。旧約聖書はもっと広い神側の見方を教えています。被爆者、被災者、そこで亡くなった方々自身が良い、悪いという事以前に、3代から4代に渡る呪い祟りの霊によって、その場に集められてしまったのです。だからこそ、聖書はイエス・キリストによってその呪いの血を断ち切りなさい!個として生まれ変わりなさい!と教えているのです。3代から4代に渡る呪い祟りの霊を断ち切れるのはイエス・キリストだけ。他の神や、人間の力によってできることではないのです」と答えたそうです。全ての人が、神の道、きよい道への転換を意志を向けて行う事が必要です。私たちクリスチャンは情に流されず、日本人に対して救いの意味、聖書の真理、神の原理原則を教えていかなければならないと語られました。
そして、終極は死であった歩みから救われたのは、福音を宣べ伝えるためであり、改めて神によって生まれた自分であることを自覚し、永遠の命と神の子となる力=聖霊を与えていかなければならないと語られました。
クリスチャンの歩みは、「これは福音、これはプライベート(福音はしない)」と分けることなどできません。それができているなら、神に仕えているとは言えない二心者です。
ぶどうの木牧師は、集会の席に着いて自分を明け渡してメッセージを語る任務に就くまでに、たくさんの肉の思いを捨ててきました。「神に忠実なクリスチャンが日本に一人立てば、その人を通して神は日本を変えることができる」と母教会で語られ、自分がその一人なのだという思いでここまで働いてきました。静岡県浜松市に、神がぶどうの木をつくられたという事を大事に、そして、聖霊の力と聖霊の働きを伝える任務が与えられているのだという預言を握りしめ、今18年目の歩みをしていますが、牧師にならい、群れの働き人たちもこの浜松から離れてはならない!という思を入れられ、浜松からリバイバルが起きるのだ!という信仰をもって、自分の人生の様々な岐路に立たされた時、浜松を動かずにきました。私自身、結婚相手を求めるにしても、浜松で共に主のために働ける男性を祈り求め続けてきました。クリスチャンで、この教えを理解して共に働ける人がこの浜松にいるのか!?という不信仰な思いとも戦ってきましたが、なんと神はブログを通して九州から私のたった一人のパートナーを導いてきてくださいました。私の考え(律法)にはなかった、まさに神のやり方でした。
そのようにして、神が守り、存続させてきた群れに、今やたくさんの人が導かれてきています。しかし、その心はどうか・・・自分がぶどうの木でこの教えを毎週聞けることの恵みを悟っているのか、感謝をもって毎週集会の席に着いているか問われました。そして、ぶどうの木のためではなく、ぶどうの木を存続させておられるイエス様に仕え、イエス様のために働く意志があるのか、いつまでもお客さん気分で座っているだけであってはならないと語られました。自分の肉の思いは糞土であって、肉の思いを捨て去ってまず神の国と神の義を求めた時、キリストの兵卒として、「主よ、私を使ってください!」と言えるようになった時、はるかにまさる祝福が添えて与えられていきます。その信仰があるのか、一人一人が吟味しました。
そして、この道か、あの道かと悩んで一歩も踏み出さないなら不信仰です。失敗を恐れず、行動に移す信仰が求められます。全て信仰によらない事は罪だからです。長血をわずらった女がイエス様の御衣にでもさわれば癒されると信じて求めた信仰、そして癒された証からも語られます。やり続ける、やり通す信仰には忍耐も必要ですが、忍耐こそクリスチャンの力、聖霊の力であり、ぶどうの木では皆が頂いていることに感謝です。
牧師が肉の思いを握りしめていたら、働き人たちが浜松にとどまる選択を放棄していたら、今のぶどうの木はありません。
自由気ままな人間の肉は、神の御心、御計画を停滞させます。神のみ旨は堅く立ちますから、この人にはできないと判断されれば、別の人が用いられます。せっかく救われ、神の務めを果たすために選ばれたのに、一杯の食(1回の欲)のために長子の権利を売ったエサウのようになれば、悔い改めの機会を得ることさえできなくなるでしょう。私たちは改めてそれをわきまえ知り、自分の肉を制する主の訓練を喜んで受けながら、霊の思いに意志を向けて行なっていかなければならないと語られました。
へブル12:1~17
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
アーメン
罪(的外れな思い)と取り組んで戦う時、血を流すほどの抵抗をしたことがあるでしょうか?肉に流されそうな時に戦っているでしょうか?むち打たれることを嫌がって逃げ出す人は、肉でやりたい放題してきて自制を知らない人です。彼らにとってはきつい訓練ですが、きよさを取り戻すため、的を射るために必ず必要な訓練です。オーストラリアのように、肉が自制できなければ、国が法律でSNSを16歳未満の子ども達に禁止する世の中でもあります。
私たちは私生児ではなく、神の子ですから、しっかりと天の父が与える訓練を受けて、キリストに似た者へと変わっていかなければなりません。
狭い門から入れ!と言われ、細い道をいくのがクリスチャンの歩みですが、後になると平安な義の実を結びます。イザヤ35章に書かれてある通り、大路に出ることができますトランプ兄弟と敬虔なクリスチャン揃いのアメリカ軍の皆さんたちの歩きと、今を見ても教えられます。光はいつも闇の中に輝いています。クリスチャンとして常に輝かさなければなりません。そして闇は光に勝てません。
イザヤ35:8~10
そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。 そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。 主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
アーメン
改めて自称クリスチャン、名ばかりクリスチャンではなかったか?と問われます。
毎日が、神の国で働けるか、神の国の国家公務員として仕事を任せられる人間か、採用試験を受けていると思って生活しなければなりません。「神はあなたの心を見られる」「神に試みられる」とはそういう意味です。日本人は恥の文化で、人からどう思われるか、恥ずかしくないか、人の目を気にしていますが、聖書が土台の国、聖書を学ぶ人は、神が見てどう思うか、常に神の目を気にして生きています。果たして、今の自分はクリスチャンとして神を常に意識し、イエス様をいつも思って聖活できているでしょうか?
クリスチャンは主の軍隊、主の兵卒です。他のキリスト教会がそのように言っていることを聞いたことがありません。それゆえ、「ぶどうの木はカルト」だと思われ、迫害されてきたのかもしれませんが、聖霊によって知らされる今のトランプ軍の働きは、まさにアメリカを180度変える主の軍隊の精鋭部隊であると語られます。私たちもこの日本を180度変えるために、聖霊にもっともっと自身を明け渡して光輝かなければなりません。
今週はクリスチャンとして身についていないといけない当然の真理(心構え)に対しての復習をする集会内容でした。そして、クリスチャンでありながらあまりにも肉が強い羊の状態から、最後に、【盲人は盲人の手引きはできない】との訓戒も受けました。どんなに真理を語り、みことばを伝えていても、自分の内に相手の肉の思いと一致する思いがあるなら、救い出せません。福音がもっともしやすいクリスマスが近づいています。
牧師が今週最初に頂いたみことばは、ナホム書3章13節〜19節でした。
ナホム3:13〜19
見よ、あなたのうちにいる兵士は女のようだ。あなたの国の門はあなたの敵の前に広く開かれ、火はあなたの貫の木を焼いた。 籠城のために水をくめ。あなたのとりでを堅めよ。粘土の中にはいって、しっくいを踏み、れんがの型をとれ。 その所で火はあなたを焼き、つるぎはあなたを切る。それはいなごのようにあなたを食い滅ぼす。あなたはいなごのように数を増せ。ばったのようにふえよ。 あなたは自分の商人を天の星よりも多くした。いなごは羽をはって飛び去る。 あなたの君たちは、ばったのように、あなたの学者たちは、いなごのように、寒い日には垣にとまり、日が出て来ると飛び去る。そのありかはだれも知らない。 アッスリヤの王よ、あなたの牧者は眠り、あなたの貴族はまどろむ。あなたの民は山の上に散らされ、これを集める者はない。 あなたの破れは、いえることがなく、あなたの傷は重い。あなたのうわさを聞く者は皆、あなたの事について手を打つ。あなたの悪を常に身に受けなかったような者が、だれひとりあるか。
アーメン
日本人が知識がないために滅ぼされる事のないように、神のふるいにかけられ、取り除かれることがないように、みことばを聞いたらしっかりと土台をかため、信仰の言葉と祈りによって、一人でも多くの魂を救うクリスマスを迎えられたことを感謝して祈ります
ルカ6:39~49
イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。 悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。 善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。
へブル12:18~29
あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、 また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。 そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。 その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。 あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。
アーメン