悪霊に勝利できるのは真のクリスチャンだけ! | ぶどうの木 Good News

悪霊に勝利できるのは真のクリスチャンだけ!

holygirlですニコニコ

 

映画『サウンド・オブ・フリーダム』が公開され、先週は牧師、兄弟姉妹たちが続々と観に行ってきました。私は息子の授乳間隔が1時間30分と短いため観に行けず残念ですが、皆からの報告を聞き(先週のブログコメントにも感想を書いてくれた人もおり)、クリスチャンとしてたくさんの事が語られる映画なのだと改めて思いました。映画も主にあって観るなら、神からのメッセージをしっかりと受け取ることができますし、イエス様から心が離れている状態で観るなら、的外れな感想を抱いてせっかくの恵みを無駄にしてしまいます。

映画を観て牧師に感想を伝えてきた姉妹がいたので、紹介します。

 

子どもの誘拐、人身売買、性奴隷という、闇に隠されてきた真実が明るみになり、その悪と戦うクリスチャンの捜査官ティム(主人公)を通して自分だったらどうなのか?と一人一人が神に問われていると感じました。ティムにも家庭があり、帰りを待つ奥さんと5人の子どもたちがいます。しかし、闇を知った以上、見て見ぬふりはできない、必ず子どもを救い出す!というあきらめない姿を通して、神に正しい良心、神の愛を教えられて魂が復活した人とはどういうものなのか見せられました。

そしてティムと関わる周りの人は、その愛に動かされ変えられていきます。たった一人でも燃え立たせた愛の火種は導火線のように引火し続けていくのだと感じ、ビリー・ブリム女史の預言も思いました。

小児性愛者を検挙するだけで、人身売買で海外に送られてしまった子どもたちまでは救い出すことができないもどかしさ、無力感を抱く中、「もうあきらめろ、法の下だから仕方ない」と上司に言われ、ならば警察官をやめるという選択をし、「退職金がもらえなくなるぞ!」という声も受け入れず、全てを捨てて神にゆだねて突き進んでいくティムの信仰も見せられました。

「神に問われた時、絶対に背を向けてはならない」という言葉も残りました。

この世の立場関係なく、一人の人間として、神から問われていることに向き合って、忠実に行なっていく姿は本当に感動しました。真実の愛に突き動かされていくとはこういうことなのだと!

神は人間に、善を行ないたい心を与え、隣人を自分のことのように愛しなさいとおっしゃいました。愛が冷めた時代、自分さえよければいいという世の中に、人間をつくった神は、「そんなふうにつくっていない!目を覚ましなさい!死んでいる魂を復活させなさい!」とおっしゃっているようにも感じました。

法という越えられない壁に直面しても、ティムの信仰と愛によって神から知恵と知識が与えられていき、そこに到達できる道が備えられ、与えられていくことも、自分のやり方では何もできないけれど、聖霊が働いて必ず、神の真実の愛ならば、成し遂げられるという素晴らしい証でした。

まさに、【人にはできないが神にはできる!】で、ティムの山を動かす信仰も語られ、捨てたらもっと素晴らしいものを与えてくださる愛の神のメッセージでした。

幼い子供たちを性奴隷にしている悪者たちが薬や酒に酔いながら集まり、歌っているシーンがあり、その歌詞は神を求めている歌詞でした。【ユダにサタンが入った】・・・まさか人間にそんなことができるはずがないという人間の思想、ワクチンが危険であると伝えても、「まさか国が危険なワクチンを勧めるはずがない、政府がそんなことするわけがない」と言う人がいますが、サタンが人間に入ったら、悪となること、悪霊を知ることが本当に必要だと感じました。そして、どこまでも人対人の見える所の問題だけではなく、敵はサタン!悪霊に支配されてしまった人の救いも必要だと語られました。

 

主人であるK兄弟は、「普通の男性なら、まず自分の家族を養い守ることが一番だから、わざわざ危険が伴うような事をしようとはしない。これは本当に神に忠実でありたい、従いたいという強い信仰があるクリスチャンだから成し遂げられたことであり、すごい証の映画だと思った」と言っていました。

 

牧師を通しては、闇側・小児性愛者たち(ペドフェリア)に一人で挑んでいく主人公ティムには必ず助け手・協力者があらわれ、絶対無理な場所に入っていけたことからも、そこに信仰による聖霊の働き、守りがあったのだと語られました。また、思いを入れられた一人の少女だけを見つけ、救出しに行く事を通して、霊の世界における選びの民を思ったと話して下さいました。

さらに主人公だけではなく、奥さんの信仰も素晴らしく、主人公が迷う時、必ず奥さんが背中を押していた姿から、奥さん自身も主人のためにどれだけの祈りを神に捧げていたのだろうかと語られたそうです。これは実話ですから、実際に奥さんに鼓舞されたからこそ、このミッションを成し遂げることができたのだと、映画の最後にティム・バラードからメッセージがあったそうです。

ある姉妹は、共に聖書を学ぶご主人と観に行った際に、一瞬ものすごい眠気がきて見れなかったシーンがあり、娘から「そこは絶対にお母さんに必要なシーンだからもう一度観た方が良い」と言われ、再度娘たちと観に行ったそうです。そのシーンがまさにクリスチャン妻としての在り方が語られているシーンであり、主に生きるために全てを明け渡すこと、夫の仕事、生活、家族、自分の命すら握らない、神に全てを委ねきる信仰があるのかと問われたそうです。

 

今週、集会のはじめに与えられたみことばはマルコによる福音書10章27節~31節でしたひらめき電球

 

マルコ10:27~31本

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、 必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟(肉の父は兄弟になる、父は天の父だけ)、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

 

アーメン宝石赤

映画『サウンド・オブ・フリーダム』を通しても、このみことばが語られ、主人公は全てを捨てて、子供を救出しに行きました。その姿から、神への信仰をもっているなら、何でもできる神の愛と力を体験し、不可能を可能にして任務を成し遂げられるのだと励まされました。映画の中で、「神の子を売り物にしてはならない」という言葉が何回も出てくるそうですが、信仰がある人にとっては、全ての人間・子どもたちは、神に大切につくられた作品、「神の子」であり、親にとっては神から預かった我が子です。そして、仕事も、神から与えられた仕事です。神無しには存在しない我が子、仕事ですから、神のために捧げる時、捨てる時、神ご自身がかえりみてくださいます。(注:肉で本当に捨てて家を出るのがエホバの証人です。そのような意味ではありません)捨てたら100倍にして返してくださる神であり、握っているものを全て捨てて、全てをゆだね、まず神の国と神の義を求めて主に繋がって行った時に、もっと素晴らしい親子、家族関係が与えられるのだと語られました。

 

マタイ6:33~34本

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

 

アーメン宝石緑

神の義(正しいこと、善なること)は、人間が考える基準とは違います。だからこそ、人間は知らぬ間に神の目からみたら罪であることを犯し続けているのです。神の基準は聖書に書かれているので、私たちは毎週日曜日に集って学び、自分の歩みが的外れになっていないか確認する機会が与えられ、いつでも軌道修正できるように手元に聖書が与えられているのです。

一日一日どう過ごすかを神・イエス様に聞き、一日1度神の義でなく自分の義を行えば、180日で180度真反対を向いてしまうことをわきまえ知って、目の前の物事にその都度意志を向けて神に従っていくのがクリスチャンです。明日が来る保障などないのですから、今日という日に全身全霊を注ぎ、一生懸命生きなければなりません。そして、死んだら神の国(天国)に行くのではなく、生きているうちに、この地上で神の国に入っていることが求められているからこそ、日々の生活が的外れになっていないか、罪を犯していないか吟味して生活しなければならないと語られました。

 

マタイ6:25~34本

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

 

アーメン宝石ブルー

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また、隣人が罪を犯していないか、キリストの肢体が的外れな歩みをしていないか、互いに関心を持つこと、真理に背いている者がいれば訓戒して正しい道に導くことも求められます。特に今週の集会では、親子間において、我が子が悪霊の声を聞いている時に、親は子どもの状態・発言から悪霊を見分け、握りしめているもの、囚われているものが何かを聞き、共に悪霊を縛り上げ、追い出すことが必要であると語られました。少しでも無関心になるなら、自分の肉のやり方で語り、導こうとするなら、子どもは反発し、いじけ、罪を悔い改めたくてもその機会を失ってしまいます。悪霊を見分けて語る親の言葉こそ、子どもの霊に刺さり、子どもを捕らえていた悪霊は離れ去って行くのだと語られました。神から預かった我が子、神の子をどう守るのか、救出するのか。親がしっかりとイエス様に繋がり、聖霊の力によって語り、的を射た訓戒ができているか、改めて問われました。

 

この世は、神対サタン、聖霊対悪霊の攻防戦の中にあります。もう一つ映画が教えてくれているのは、神に仕えるクリスチャンと、富に仕える小児性愛者、悪魔崇拝者たちがいるという事です。

 

マタイ6:24本

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

 

アーメン宝石紫

この世は富=お金がカシラであり、人々は、少しでも高い給与、地位、名誉を得るために、良い学校、良い会社を目指し、働いています。勉強が苦手なら、スポーツで、芸能界で、活躍すること、我が子をそのような世界に入れることを目指す親もいます。お金のため、生きて行くためなら、身を売ったり、株やギャンブルで一儲けしようと考える人もいます。全てはお金のため、自分の欲のため・・・そして、富を得ても人間は満たされず、行き着いた先が、小児性愛者(ペドフェリア)、悪魔崇拝者であり、小児誘拐、人身売買、臓器売買といった犯罪です。

アメリカでトランプ氏が大統領になった際、アメリカとメキシコの国境に壁をつくると言い、随分バカ者扱いされていました。マスコミによる洗脳によって、私たちも何を考えているのか!?と笑っていましたが、今になれば、その真意がよく分かります。メキシコから入ってくる不法移民。その中に、誘拐された子どもたちもおり、人身売買が行われており、それを知っていたトランプ氏は大統領に就任してすぐ壁をつくろうとしたのです。実際トランプ氏は大統領就任直後に、地下から5000人の子どもたちを救出しました。

 

『サウンド・オブ・フリーダム』は、未信者にとっては「重い映画」、もしくは「面白かった」という感想で終わってしまう話も聞こえてきます。現実を突きつけられ、目の当たりにしても、しっかり受け止めることができない、自分をごまかし正常性バイアスを働かせようとする人は、頭の中がお花畑で、今だけ、自分だけ、金だけのところにいるのでしょう。この映画は、小児性愛者による人身売買だけを取り上げていますが、実際はもっとひどい事が行われています。悪魔崇拝者による子供の生贄、子供の肉、松果体を食べ、血を飲む儀式、アドレノクロム(小児が死ぬ時に出るアドレナリンを抽出してつくった若返りの薬)の存在があります。そこにどれだけの子どもたちが犠牲になっているでしょう。日本においては年間1万8千人の子どもたちが行方不明になっている現実からしても、彼らが何の犠牲になっているのかと思います。他国の話、作り話ではないのです!日本人も、聖なる怒りをもって立ち上がっていかなければなりません!炎

映画の最後には、「動画やビデオで一時停止しながら見るのではなく、いっきに見て欲しいから映画化した!この映画にある事実を広めてほしい!チケットを送るので一人でも多くの人に見てほしい!」とティムさんからメッセージがあったそうです。

 

悪霊の存在は現実的であり、どんな人間でも悪霊が入れば狂わされます。殺人者が「頭が真っ白になって覚えていない」と証言したり、「魔が差す」という言葉がある通り、サタンが入る瞬間があるのです。

小児性愛者は気持ちは悪い!子どもの肉を食べ、血を飲むなんてあり得ない!と思っていても、悪霊を自由に出入りさせる生活をしていたら、自分も同じ穴のムジナであることを知らなければなりません。誰でも、そこに至る危険性を持っているのです。特に全ての人間に入り込むのが裁きの霊であり、人を裁けば、そこから高ぶりの霊、分派分裂の霊、占いの霊、恐れの霊、自殺の霊など様々な悪霊が動き、自分自身が崩壊させられ、持っていると思っていたものを失うことにもなります。イエス様は裁きについて以下のように訓戒しておられます。

 

マタイ7:1~5本

人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

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偽善者とは、「私は正しい。相手が間違っている」と言う者です。自分の基準で相手を判断して罪に定めること、審判することも裁きです。裁きの霊は、神の御手の中で生かされている事を忘れさせ、口を開けば不平不満しか言わない人間にしてしまいます。人を裁いたら何も見えなくなります。特にクリスチャンであれば、神の僕として忠実に私たちに語り、時に訓戒してくださる牧師を裁いたら、いっきにサタンに滅びの道に引きずられていくことを忘れてはなりません。

聖書はまず神を愛し、次に隣人を愛すること、互いに愛し合うこと、無条件の愛と許しを徹底的に教えています。悪を犯す者、自分を批判してくる者であっても、その挑発にのるな、裁くな、赦せとおっしゃる神です。耳元で、心の中で5秒と裁きの霊をあそばせず、すぐにキリストの権威で退け、聖書・真理の教えに立てているか問われました。

 

さらに、クリスチャンになるための基礎の教えは続きます。

 

マタイ7:6~29本

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

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アーメン宝石赤

 

イエス様の教えを握りしめ、忠実に行なえるクリスチャンとなれているでしょうか?何があっても動じない、揺るがない岩の上に自分の信仰の家を建てることができているでしょうか?神の御心はそのようなクリスチャンにだけ成し遂げることができます。そして、主に信頼し、権威を行使できる者だけが悪霊に勝利することができます。神のふるいの目が大きくなり、選別が進み、聖別が求められていることが、群れの羊の状態を通してもよく分かります。

サタンの支配下であるこの地上で、サタンに魂を売った悪魔崇拝者たちが悪事を行うこの世界で、私たちは選ばれ、神に救出されました。罪人の自分を贖い出してくださった神への感謝を忘れずに、ここから主にあってますます敵軍の策略を見破り、戦い、勝利を得れたことを感謝して祈ります!!