真実の愛・神の義 | ぶどうの木 Good News

真実の愛・神の義

holygirlですニコニコ

 

今週私たちが握りしめるみことばとして与えられたのは、先週に続き、ガラテヤ人への手紙にある2つのみことばでした。せっかく救われ、毎週集会に出席していたにもかかわらず、ある時、「私には難しい、解らない」「私にはできない」と言って遠ざかっていく人たちがいます。ガラテヤ人は、人間の角度から神を見る人たち、頭で神を理解しようとする人たち、つまり宗教的にイエス・キリストを捉えている人たちです。聖書真理、神の教えをどのように聞き、捉えているのか、クリスチャンになり神と共に歩むとはどういう事なのか、私たちは再確認しました。

 

①ガラテヤ6:14~15本

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。

 

アーメン!
救われる前の私たちは、仕事、家柄、学歴、名誉、地位、外見、能力などを誇って生きてきました。それは、少しでも周りの人がうらやみ、驚くような自分でありたいと願う私たちの中にある肉の思いです。しかし、未だにそれを良しとして誇っているのであれば、私たちは聖別されたクリスチャンとは言えません。
【わたしもこの世に対して死んでしまった】・・・これを悲しく思うのであれば、肉がピンピン生きている証拠です。クリスチャンになるとは、今までのように肉でがんばっても上手くいかない、自分のやり方が一切通用しない、まさに、この世は何一つ力になってくれない、かわいがられない歩きです。完全にイエス様に明け渡さなかったら、何もできない自分になるということです。迫害も伴います。しかし、それは最高の恵みです!この世にまかれず、この世の常識や価値観に左右されずに、【主にあって何事でもすることができる】【私が弱い時こそ私は強い】と立ち上がるチャンスが与えられたからです。そして、一歩踏み出した時に、神に愛されている事が分かる証・体験が伴います。もし、そのような体験がないのであれば、肉が今もまな板の鯉になれずに真理の道を歩いていない、要するに死んでいないのです。

この世で得たものを誇り、握っているものがある人は、イエス様を一番としていないので、神の目から見て高ぶり(傲慢)、強情な器です。自分のやり方をし、頭でイエス・キリストを知っていく人は、本当の神に出会ったとは言えません。サタンには喜ばれますが、神には決して喜ばれません。自分が今生かされている事への感謝があれば、イエス様を知っている事、イエス様に罪が許され救われた事、イエス様と共に生きている事だけが誇りとなり、自分の意見を言いたくなるような傲慢な態度や強情な肉の思いは剥ぎ取られていきます。高ぶっている人に対しては、ちりのようにくずのようにされる訓練があります。

最近、クリスチャンと名乗って活躍している人がテレビに取り上げられていたのですが、その番組の中で、「神は不平等だ」という発言をしており、すごい高ぶり、ルシファーのパン種があると感じました。神に対してそのような思い、自分の意見をもっていたら、「だから、自分が何とかしなければ!」とがんばることになります。その人は、疲れて、霊的にカラカラに飢え渇いているように見えました。神が不平等にしたのではなく、私たち人間の的外れな生き方の問題です。まず神の国と神の義を求めるなら、あとのものは全て添えて与えられ、健康面、社会的、経済的な神の祝福は全ての人間に平等に約束されています。

 

また、「自分が何とかしなければ!」という思いは、様々な霊力を引き寄せることになります。情が深くなると、全部受け入れてしまい、キャパオーバーになります。しかし、【すべての霊を信じてはならない】と聖書に書かれてあるとおり、疲れさせる霊力があることを心に留めなければなりません。クリスチャンが情と高ぶりで動くなら、サタンはどんどん問題を抱えた人を送ってきます。しかし、彼らは時間とお金と優しさだけを奪って、しっかりとイエス様に繋がることはしません。だからこそ、寄ってくる人に十字架の血を注いで血のバリアをつくって霊を試し、マルコによる福音書16章17節~18節のみことばを宣言してイエス様から来ていない人は退けていくことも必要であると語られました。

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②ガラテヤ2:19~21本

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

 

アーメン!

“私は完全に神の宮だ!生きているのは私ではない!私は体を全面的に捧げているだけ”というところに至ってはじめて「聖別されている」と言うことができ、そこに神の霊が下り、神に用いられる器になれるのだと語られました。

人間が、自分なりの義を行なうことで神に良しとされるのであれば、イエス様が十字架にかかって贖いの血を流して死ぬ必要はありませんでした。「私の正義」「私の意見」「私の感情」「私のやり方」をふりかざす者は、神の御前で忌み嫌われます。それは神が本来人間に求めている在り方ではないからです。神が求めておられるのは、神ご自身に“自分”を明け渡して【神の義】を行なう器、古いパン種が取り除かれたきよい器です。主語が「私」ではなく、「イエス様」になっているか。全ての栄光はイエス様に帰せているか。「私が良かった!私は神に喜ばれることをしている」ではなく、「イエス様にさせていただけたことを感謝します」とへりくだっているか。ただ肉体を神に捧げ、神が内に生きておられる器・クリスチャンに、証は伴うのだと語られました。

 

今回そのように自分の肉を打ち叩く訓練を経た姉妹が、素晴らしい勝利の証を勝ち取りましたまじかるクラウン

先週のブログで紹介した証、癌の親族(義理の姉)の魂の救いに行ったR姉妹が、ブログコメントで証(詳細)を書いて下さったので紹介しますガーベラ

 

姉からの一報、近況を知り涙が溢れ、「クリスチャンとなったのに、なぜもっと早く私から連絡できなかったのか」と情けなさと悔いる思いでいっぱいでした。姉に対するいろんな思いは一瞬でなくなり、とにかくキリストの愛で満たされ、癒しを勝ち取って欲しい、救われて欲しいと心の底から思いました。そして和解も祈りました。姉からの一報に「何だろう?」と一晩躊躇したことが[裁き]だったと言われ、私の奥底に、姉への怖さ、不信感、不安が拭えずにいた事に気づきました。主人に対しても、関わりに線を引き、互いに思いをぶつけるまでに至らずここまできた事、姉に対する思いもしっかり聞けずに、そこに行けば何とかなる!との思いでいましたが、思いがけず自分自身の胸の内が光に出され、娘夫婦の分派分裂の危機から一人一人の大掃除が始まりました。神の御前にて夫婦それぞれの思いを伝える必要があるとイエス様から言われ、その思いに主人が応じ、姉を訪ねる前日に牧師との交わりに出向いてこれた事、二人に対する私の思いを受け、主人の思いも聞く事ができ[一致の思い]で姉の所に出向けた事、本当に感謝でした。

[人をさばくな。自分がさばかれないためである…] マタイ7-1~5アーメン!裁きの中での何気ない一言は魂を傷つけ自分も相手も獄屋に閉じ込めていました。自分だけが傷つけられ可哀想で、主人を傷つけてきたとは思っていませんでした。夫婦は鏡。同じ場面を記憶に刻んでいた事もわかり感謝でした。大人になった娘達、娘婿も同行し、穏やかな思いで遠方に向かっている事も奇跡、それを素直に話せている自分にも喜びでした。

直前の姉に対する思いは、会いたいけど不安と怖さがある…でしたが、会った瞬間のお互いの涙で、全て無くなった様でした。主人の溢れる思い、涙、笑顔、一緒に救いの告白をし、異言も語り…主人の全ての行いが光となっていました。姉からの一報から主人は少しずつ変えられている様に見えていましたが、この2日間で自分自身が体験体得に至ったのではないかと感謝します。

沢山の話をした中で、主人は幼い頃から頭が良く、何をさせてもできてしまう、成績を残す、みんなの注目の的だったと。嬉しい反面、羨ましい、何で私は注目されない?妬み…自慢の弟だけど、憎らしい思いが同時にあった。母は弟にばかり熱心だったと。3代4代の呪い祟りの霊、妬み、孤独…主人においては家系における長男の重圧もあった様です。さまざまな霊力の中、翻弄された二人だった、家族だった。誤解、記憶違い、捻じ曲げられた関係、その時互いに話せばわかりあえたのにそれもできず、サタンのやりたい放題。サタンは盗み、殺し、滅ぼす。主人が心を開いたことで、主人の姿が証となり真の和解がうまれました。朝早く起き、一人静かに持参したトラクトに目を通す姉の姿を見て、心から感謝しました。

のちに、私達一人一人が昔とは違うイメージで、そんな私たち家族の姿に光を見て、聖書ってなんだろう?と改めて学びたくなったとの姉の言葉に感謝でした。チリの様にクズの様にされ、マンホールを開け一掃しなければその姿は見せれませんでした。全てが益となりました!神のご計画が成就したこと感謝します。皆が揃って聖書を学べた事、実践していく神の兵卒となれた事感謝します。御言葉アーメン!

 

今週の集会で改めてR姉妹、娘2人、娘婿から証(報告)を聞きました。過去にR姉妹夫妻と義理のお姉さんの間に、分派分裂の霊が動き、R姉妹のご主人は「もう一生会う事はない」と心に決めていました。R姉妹とご主人の間にも分派分裂の霊が動き、R姉妹は娘たちが成人したら離婚を決めていました。R姉妹が娘2人と共に救われた時、牧師はR姉妹に対して「離婚はダメですよ!ご主人の見える状態ではなく霊に目を向けて下さいね」と話し、娘たちには、「お父さんとお母さんが仲良くなる日が来るよ!」と伝えました。娘たちは顔を見合わせ、「そうなったらどうする!?」と嬉しそうにしていました。一度も両親が仲良くしている姿を見た事がなく、家族揃って旅行した思い出もなかったのです。

今回の義理のお姉さんを救いに行った1泊2日の旅行は、そんな神から来ていなかった思い、隔ての中垣というサタンの策略を完全に足の下にした共に、一人一人の心の願いを神が叶えてくださったものになりました。6人で話が尽きずに1日中同じ空間で過ごしたこと、車で両親が運転席と助手席に仲良く座っていることも、娘たちにとっては奇跡でした。雨の予報だったにもかかわらず、晴天で涼しい中、夕飯に予定していたバーベキューを無事に行なえたことも神の計らいでした。初めて見た父親の姿、父親の涙に、思わず長女は父親の頭を撫で、次女は肩をさすったそうで、それを嬉しく思ったのだと父親自身が教えてくれました。また、R姉妹はご主人がとても素直な人だと分かり、帰宅後も夫婦で色んな話ができるようになったそうです。

義理のお姉さんは、R姉妹の長女に、「お父さん変わったね!R姉妹とあなたたち娘二人のおかげだね!これも聖霊だね!」と言ったそうです。そして、10月には浜松に来て、牧師と交わること、ぶどうの木集会に参加することを希望しており、再び家族が一つ思いで迎えたいと一人一人が強い愛の気持ちで決心し、証してくれました。

 

ここに至るまでのR姉妹の労苦、苦悩、それでもみことばを握りしめ、信仰を捨てずに神の訓練を越えてきたこと、娘2人の両親に対する思いも知っているからこそ、今回の大勝利の証、3代4代に渡る呪い祟りの霊が神の愛によって完全に立ち去った証は、神の家族に感動を与え、本当に良かったと喜びに満たされました乙女のトキメキ

 

私たちクリスチャンがあらわす愛が本物であるか、サタンは見抜きます。一生姉には会わないと決めていたR姉妹のご主人が、素直に正直に、「会いたかった!姉には感謝しかない!」と言葉にできるまでに、キリストの思いに満たされたこと、R姉妹も恐れや裁きの思いから解放されて、会った瞬間思わず抱き合ったことで悪霊が去り、いっきに和解の力が働いたことからも、どこまでも自分の心一つなのだと語られました。

聖霊の導きは頭では計り知れません。ガラテヤ人への手紙のみことばから語られたように、【自分】という人間が死んで、イエス・キリストが生きていなければ、聖霊が与えてくださる道を歩むことはできません。自分が死んでイエス様が生きるなら、聖霊が100%働きます。愛がほとばしり、元気と笑顔で自分自身も周りも満ち溢れます。「これも聖霊だね!」とお姉さんが証言したことを通しても、本当にR姉妹家族に神の栄光が満ち溢れていたのだと分かります。

自分の感情がいかに嘘つきか、相手が見せてくる姿がいかにサタンによるものかをわきまえ知って、イエス様・みことばをしっかりと握りしめるなら、私たちは必ず見えるところに左右されずに勝利を得ていくことができるのだと語られました。

 

改めて、神は愛です。願いが叶わない、いやされないことを神のせいにする前に、100%信じてやるべきことをやったのか、「やってみるけど・・・でも・・・」と文句つぶやいているのか、吟味しなければなりません。神は全て御存知で、信仰通り私たちの身にしてくださいます。また、他者のために祈ること、罪を犯していると思うならその罪が覚えられないようにとりなして祈る心、悪霊を縛り上げて追い出す信仰も見ておられます。

 

最近は、精神を病んでいる娘がいる人が牧師のカウンセリングを求めて来ることが続きましたが、“医者が処方した薬を飲んでいるから安心”、“薬を飲んでいればいつかは治る”と思い(そう思って平常心でいたい)、西洋医学の対症療法にどっぷりつかり、現状維持どころか薬の副作用も出てきて、娘がどんどんひどい状態に陥っていても、そのままにしている現状が見せられました。

母親の愛が娘に伝わっていない、悪霊を見据えて、的外れなかかわり方を正すよう牧師から語られ、そこから、真理を知って立ち上がった母親が、みことばを宣言してサタンを追い出したり、娘が自分に対する裁きの言葉を浴びせてきても、あなたを愛している!という思いをしっかりと伝えていくことで、娘に神の力による変化があらわれています。

たった数日で変えられていく証を通して、改めて精神病に薬は必要ないと分かります。自分のことを大切に思ってかかわってくれる人、過去にもつれた糸をほどいてやり直すことができる神の力、捕らわれている悪霊を見抜き縛り上げる聖霊の力が一番必要なのが精神病なのです。

 

また今週は、イエス様・みことばを握らずに、医者の言葉、薬を握っていないかと問われました。何に望みをおくのか・・・医者によって自分に貼られたレッテル、この世の医学知識をそのまま受けて自分を呪うなら、イエス・キリストの死は無駄であったことになります。全てが新しくされた身体、神の宮に病気はありません。体にあらわれる症状はサタンが見せて来るもの、持ってきているもの、自分がイエス様以外のもの・この世のものを握ったことで来たらせているものであり、私たちは悔い改め、「受け付けない!」と宣言するなら癒しを得られる神の子の特権、キリストの権威を頂いていることを再確認しました。

 

生きているのは、もはや、わたしではない!キリストが、わたしのうちに生きておられるのである!

牧師を通して、「わたし」のところに自分の名前を入れて、宣言しなさいと語られました。一人一人がこのみことばの意味、イエス様が100%自分のうちに生き、働かれていることが分かる体験をする1週間となったことを感謝します。

 

ローマ8:26~39本

「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 「わたしたちはあなたのために終日、 死に定められており、 ほふられる羊のように見られている」 と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」

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アーメンまじかるクラウン