救いはクリスチャンの言葉と行いにかかっている | ぶどうの木 Good News

救いはクリスチャンの言葉と行いにかかっている

holygirlですニコニコ

 

先週の集会で、まもなく90歳になろうとしているU姉妹が胃癌かもしれないと聞かされ、皆で祈りました。U姉妹は救われてすぐ、胃癌が超自然に消えて癒されるという体験をしていたのですが、その後たばこがやめれず群れを離れ、その間に胃癌が再発し、手術をしました。今回、血圧が高く、心臓に痛みがあり、めまい、吐き気がするからと一人で診察に行くと、状態だけを見て自分は胃癌であるとひどく落ち込み、その心の状態が体にさらにあらわれ、食欲もなくし、集会も2週連続欠席してしまいました。しかし、共に聖書を学ぶ家族が医師に確認しに行くと、胃癌は思い込みであると分かりました。

腫瘍マーカーの数値がいつもより少し高めになっていたことから、末期癌の時の数値だと思い込み、以前、癌を手術する前にポリープは取らず家族に話しがあったことから、今回も同じ流れだったので癌だと思い込んでしまったようです。つまり、今回は胃癌ではなかったのです。24時間心電図、心臓のエコーも全て異常ありませんでした。自分の思い込みであったU姉妹は、吐き気もなくなり、元気になり、今週の集会に笑顔で出席することができましたドキドキ

 

サタンはクリスチャンを一人ぼっちにして滅ぼすために、ほえたけるししのようにそのチャンスを狙っています。羊の群れから離され、一人ぼっちになっていくと、自分の考え、やり方が先行して独り善がりになり、状態にとらわれて「お前はもうダメだ」という声を聞かされ、自己憐憫になり、口数が少なくなり、牧師、兄弟姉妹との交わりを避けるようになっていきます。この負の連鎖は、日が経てば経つほど、自分一人の力では止められなくなります。いかに早く、神との契約書である聖書から「みことばに~と書かれてある!」と宣言して、内にある不安や恐れの霊はじめ、自分を捕えている悪霊を追い出すことができるかが重要です。

【愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。】(第1ヨハネ4:18)、【心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。】(エレミヤ17:9)と書かれてある通り、恐れ、心の状態に左右されて、悪霊と戦い追い出すことができる神の子である特権を放棄して、サタンの餌食になってはならないと語られました。

 

先日、9年間うつ病に苦しんできた男性と交わったのですが、牧師から「薬でうつ病が治ると思いますか?薬によって気分がハイ(躁)になるって怖くないですか?」と尋ねられた男性はハッとし、ここまでの胸の内を打ち明け、イエス様を救い主として自分の内に迎え入れて救われました。そして、牧師を通して自分にささやく「お前はうつ病だ!」という悪霊との戦い方(マルコ16:17~18のみことばと、「サタンよ!退け!イエス様の打ち傷によって癒された」という祈りを覚え、疑いがきたらこの言葉を言うこと、自分をうつに定めるような悪い言葉を出さない、言葉に気をつけること)を学び、解放されたことに感謝し別れました。しかし、そこからまた一人になると、今度は“うつ病はない、あなたはまっとうだと言われ、今までの自分の病気(9年間)は何だったのか・・・これからどうしたら良いのか”と混乱に陥ったようです。救われたばかりのクリスチャンの霊にまかれた種を、サタンは奪おうと必死に攻撃してきますから、一人になってはなりません。すぐに聖書の学びを開始し、自分の内にみことばの種まきをしていくことが必要です。意志を向けて真理を求め学ぶなら、悪霊に打ち勝つ強さを得てどんどん解放され、癒されていきますが、そのままにしておくなら、7倍悪い状態になっていきます。聖霊対悪霊は日々攻防戦を繰り広げており、自分自身がどちら側に立って協力するかが求められているのだと語られました。

 

箴言12:13本

悪人はくちびるのとがによって、わなに陥る、しかし正しい人は悩みをのがれる。

 

箴言12:20~21本

悪をたくらむ者の心には欺きがあり、善をはかる人には喜びがある。正しい人にはなんの害悪も生じない、しかし悪しき者は災をもって満たされる。(人はまいたものを刈り取る)

 

アーメン宝石紫

 

 

18日土曜日は、ぶどうの木で6組目となる兄弟姉妹の結婚式が行われました。緑溢れたところで式がしたい!という新婦の夢が叶い、2つの幹が連なり大きな一本の木となっている「連理の木」の下でのガーデンウェディングとなり、当日は素晴らしい晴天を神が与えてくださいました晴れ

この場所を見つけた時、空に大きな鳩の形をした雲があらわれ、それはまさに聖霊の象徴でした。

 

 

 

 

二人の出会いから式当日に至るまでの様々な聖霊の導きと、心がバラバラに離れていた新婦家族が順に救われていき、神の力によって再生した奇跡、新婦が20歳になったら離婚しようとしていた両親が共に、「救われていて良かった。救われていなかったからこの日はなかった」とイエス様に感謝し、この日を迎えられたことを皆が喜び合いました。

新郎新婦は子どを授かってからの結婚でしたので、牧師としてもこのようなケースは初めてで、どのようなメッセージをすることが神の御前で正しいことなのかイエス様に聞いていましたが、新郎新婦の思いは、子供ができて急いで入籍し、夫婦としての基盤ができておらず、結婚したという自覚も薄かった自分たちが、神の御前で順番が間違ってしまったことを悔い改め、式を挙げることで夫婦としてのけじめをつけ、ここから新たな気持ちでクリスチャン夫婦、家族として生活していきたいという事、子供ができたから仕方なく結婚したのではなく、お互いがたった一人のあばら骨の相手(あばら骨をあげた男性ともらった女性だったから結婚した)であったと確信し、神の御前、大事な人たちの前で、一生一緒に歩んでいくことを誓い合いたいという事であったため、その思い・決心を受け、二人の決意と誓いの場を与える思いで、二人のここまでの証を紹介しながら式を執り行うことにしました。

特に新郎は、すでに一家の長としての責任感が勝り、式を行うこと(そこにお金をかけること)よりも、妻や子どもを養っていくこと、家を買うこと、一緒に働いている仲間や両親のために会社を守ることへの思いが強く、先月牧師や働き人たちと式の打ち合わせをするまでは、絶対に式をあげたい!という新婦との気持ちに温度差がありました。しかし、結婚式は一生に一度で、二人でつくり上げていくものなのにも関わらず、妻の式に対する気持ちに気付けなかった自分、仕事に追われ、式について妻と向き合えていなかったことを悔い改めた新郎は、式当日、両親に対して、また、サプライズで妻に対して、そして参列者に対して、自分の霊魂から溢れる思いを素直に伝え、「本当に式をやって良かった!」と涙ながらに何度も言葉にしてました。息子からの言葉を受けた両親、夫からの言葉を受けた妻は、その一つ一つの真っすぐな言葉に感動し、新郎の父親は「まさか自分が泣くとは思わなかった」と言葉を詰まらせ、妻も「子どもが先にできたのでプロポーズをしてもらっていなかったので、嬉しかった」と喜び、親子の絆、夫婦の絆がさらに強められた式となり、皆が大きな愛に包まれた時間となりましたピンクハート

 

また、式の2日前、新郎新婦と式の最終打ち合わせ、流れの確認のために交わった牧師は、新郎から「結婚の誓約の言葉、重いですね・・・自分は子どもを授かっていなくても、妻と結婚したい!と思っていたけれど、妻は美容師になりたい!という夢もあり、自分のことをどう思っていたのか不安な時期もあった。子どもが誕生してからは、妻の気持ちがすべて子どもに向いてしまい、『夫婦の関係があってこその子どもでしょ?』と伝えてきたが、妻は『子どもが一番大事でしょ!あなたも子どもをちゃんと見て!』と言われてきた。だから、今回夫として、結婚の誓約の言葉を言えることが嬉しい。やっぱり、夫婦の関係がまず大切なんですよね」と心の内を聞いたそうです。そんなエピソードも式の中で紹介され、結婚制度は仏教や神道がつくったものではなく、真の神・聖書の神がつくり、男女が一体になることで(同性婚では子は授からない。精子を与えられている男性と、子宮と卵子を与えられている女性という神が定めた男女が結婚することで)、子どもが授かり、地に子孫が満ちていくこと、その秩序を乱してはならず、結婚生活は神によって祝福されてはじめて円満に過ごしていけるのだと語られました。そして、改めて新郎、新婦それぞれの誓約文を聞き、結婚の重みを痛感しました。

 

<夫の誓約>

私は、〇〇を妻として結婚します。今より後、良い時も悪い時も、富む時も貧しい時も、病む時も健やかな時も、死が私たちを分かつまで、教会の定めにより、あなたを守ることを誓います。一人の真実な信仰ある夫がその妻に対してそうあるべきように、誠実に〇〇さんを守り、愛し、養うことを約束し、神の聖なる言葉と福音の教えに従い、全てのものをもって〇〇さんと共に敬けんに生活し、信仰を保ち、忠誠を尽くすことを私たちの主イエス・キリストと聖なる家族の前で告白します。

 

<妻の誓約>

私は〇〇を、夫として結婚します。今より後、良い時も悪い時も、富む時も貧しい時も、病む時も健やかな時も、柔和と従順をもって共に住み、死が私たちを分かつまで教会の定めにより、あなたを守ることを誓います。

神の聖なる言葉と福音の教えに従い、今日までのイエス様の全ての導きに感謝し、○○さんと共にますますの喜びをもって祈り生活し、信仰を保ち、忠誠を尽くすことを私たちの主イエスキリストと聖なる神の家族の前で告白します。

 

その後に交換する指輪も、指輪を身に付ける者を神の平和の内に留め、愛の内に生活させ、クリスチャンホームを築き、成長させ、長寿が与えられることを祈って交換することで、契約の指輪になるのだと語られました指輪

 

私たちの結婚式で語られた事ですが、新約聖書の使徒書(福音書以外の書簡)においては、夫(キリスト)の妻に対する愛の教えが人類の夫婦関係に絶大な影響を与えています。旧約聖書の男と女の結婚が、新約聖書においては、キリストと教会との結婚をあらわしています。ご自分の死によってキリストは教会を生み出されました。結婚に関する旧約の教えに対して新約には、夫は妻を、キリストが教会を愛したように命をかけて愛さなければならないという戒めが加えられたのです。そのように夫の愛とは、妻のためには命を捨てても、たとえ死んでも愛さなければならないという愛ですハートそれ故、地上では夫の愛こそが最大のものでなければなりません!一般的には、母の子に対する愛が最も大きな愛だと考られていますが、母の愛はほとんど母から子への一方的な愛・本能的な愛である側面が強く、時に、我が子への利己的な愛によって子どもが苦しむことになります。それに対して、夫(キリスト)の妻への愛は、結婚という契約によって自らの意志でなさねばならないものであるというメッセージも改めて思い出さされました。

 

エペソ5:22~33本

妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。

 

アーメン宝石緑

 

また、今週の教えにも繋がっていきますが、新郎新婦の証の中で、「救われる」「悔い改める」という言葉が出てきましたが、その意味が解らない参列者も多いだろうと、牧師は分かりやすく説明されました。

「救われる」とは「自分の中に神を迎え入れる」という事であり、「悔い改める」とは、文字通り、「自分の人生を悔い、改める」という事です。日本人は、人間が造った神(仏像、地蔵、石像など)を拝み、人間(先祖、歴史上の人物)を神としてきたため、神の内に自分が生かされていることが解らず、人間を造った神がいるという観念がありません。自分が神という無神論者もいます。自然が神、太陽が神と言う人もいますが、その自然、太陽をつくった神がおられるということには目を向けられません。しかし、木々と草花に囲まれ、鳥のさえずりを聞き、晴天の中、連理の木の下にできた木陰で心地よい風を感じながら、牧師が、「この環境の全てを与えておられるのが創造主である神、私たち人間をつくった神です」とメッセージされた時、参列者皆が、納得せずにはおられなかったでしょう。そして、「救われる」ことが、「クリスチャンになる」という事ですが、クリスチャンとは、自分の考え、思いのままに生きて様々な問題にぶつかり、人生の荒波の中で難破船状態であった者が神に見つけられ、救い出され、自分をつくってくださった神を自分の内にお迎えし、神の基準に従って生きる人たちの事であると語られました。

さらに、イエス・キリストは偶像ではなく生きた神であり、聖書の言葉一つ一つがイエス・キリスト(救い主)であること、御言葉=イエス様を「アーメン」(その通りですという意味)と感謝して受け入れ、従っていくことで、神が人間に与えてくださっている幸せの契約を身に成就していくことができるのだと語られました。新郎新婦が、式中に歌う賛美歌として選んだのが、「AMAZING GRACE」だったのですが、『先のことを考え、不安になることが多かった私たちですが、私たちの頭では到底計り知れない、創造主である神の計画があることを知り、不安や、先のことを思い煩う気持ちが一切なくなりました。』というメッセージ通り、二人の姿が神の栄光となり、皆の救いに繋がったことを感謝して祈りますピンク薔薇

 

今週の集会では、救いについて、さらに深く語られました。トラクト『未来へのプレゼント』には、①救いを受ける祈り(神を迎え入れる祈り)と、③真の神と聖書に対する理解力が与えられる聖霊のバプテスマを受ける祈りの間に、②今まで信じてきた宗教・神々からの解放の祈りが書かれてあります。その祈りは次の通りです。

 

②今まで信じてきた宗教・神々からの解放の祈り

「愛する天のお父様、イエス様。私が今日まで犯してきたオカルト・宗教の罪をお許し下さい。今まで信じてきたこと、教えられてきたことは、すべて間違いだったと認め、たった今捨て去ります。イエス様の十字架の血によって、私を清めて下さい。罪が許されたことを感謝し、イエス様の御名前によって祈ります。アァメン」

 

しかし、この世で成功している人、ここまでの自分の人生に満足している人、自分なりに努力してここまで歩み、幸せを勝ち取ってきたと思っている人ほど、この祈りを声に出して読むことに抵抗があります。「すべて間違いだったと認めるの!?全部捨て去るの!?」と躊躇します。賽銭箱に自分で決めた額を投げ入れ、神に「私の祈りを聞いて!」と対等な立場で交渉してきた日本人の神観、何があっても「私は間違っていない」と思い、自分の生き方を変えることはせず、周りが変わることを求め、神が変えて!と祈り求める神観こそ、高ぶり、ルシファーのパン種です。人間がつくった神、宗教、オカルトは、サタン(ルシファー)が、真の神から人間を離れさせるためにつくったものであり、人間はまんまとその策略にかかり、真の神を受け入れない人生を送ってきたのです。ぶどうの木牧師も、救われる前は、“私は結婚し、子どもを授かり、事業が成功し、富を得、全てがうまくいっているこの世での成功者だ”と思っていたため、福音を聞いても、「宗教は弱い人がすがるものでしょ!」と思っていたそうです。先のことを御存じの神のあわれみで牧師は救われる事になりましたが、実際2年間は自分の生き方を変えることなく、聖書の学びに足を向けることもありませんでした。しかし、牧師は救われた後も神に背いて歩んだ結果、当時十万人に一人しかならない難病になり、自分の努力ややり方、お金があっても解決できない、この世の医学から見放される状況に陥りました。その時はじめて「神様、助けて!」に至ったのです。私たちは牧師自身の体験から、自分は成功者だと思って福音を聞けない人、福音を嫌がる人がいるなら、その人に対する時が満ちるまで飢え渇きを求め、「聞ける状況を与えてください!再び語る機会を与えてください!」と祈ることも大切であると語られました。その時が来た時には、「ここまでの生き方は全て間違いだった!宗教、オカルトを信じてきてもこんなあり様で何も良い事はなかった!全て間違いだったと認め捨て去ります!」と言えるように神がしてくださっているでしょう。

先週、カン牧師からモーセは40年間荒野で訓練を受け80歳でイスラエル人を出エジプトさせる働きを行ったという話を聞きましたが、モーセのように様々な人生経験、酸いも甘いも知って、救われる人もいるでしょう。俺はこう考える!俺のおかげでこうなった!という男義も、この日本をけん引してきたと思っている男性たちほど強いですが、神の目から見たら、空気を吸うことができ、太陽がのぼり、朝が来て夜が来て、自然界の秩序が守られてきたからこそ、言える話です。“俺の命”が神によって生かされ、心臓を動かしてもらってきたから、成し遂げられてきたのです。それを悟るまで、時間はかかったとしても、自分がいたエジプト=この世から、人生の終盤に脱出し、神を認め、神の御前にへりくだり、使っていただける人生を送ることができるのなら幸いです。

もちろん、そこまで至らなくても、躊躇せずにストレートに②番目の祈りを読める人は幸いです。頭に戻って考えるのではなく、どういう事なのか解らない霊の世界のことなのだから、幼子のように言われる通りに読んでみること、そうすればあとから理解力を与えてくださる神です。

感謝なことに、先に書いた9年間うつ病に悩み苦しんできた男性は、躊躇することなく、スラスラと①②③の祈りをして救われ、聖霊の力を頂きました!その後どんな状態を聞かされようと、私たちにはそこに希望がありますキラキラ一度イエス・キリストを受け入れ救われた人間から、イエス様は出て行くことはなさいません。助け主聖霊も、彼が意志を向けられるように必ず働いてくださいます。一人の人間がサタンの支配下、獄屋から救われることの大きさを私たちは忘れずに、ますます置かれている場所で福音を宣べ伝え、魂を救っていかなければならないと語られました。

 

伝道の書11:1本

あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。

 

伝道の書11:6本

朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。

 

アーメン宝石ブルー

 

そして、人を救いに導く時に気をつけるべき霊力があることも、確認しましたひらめき電球

日本人が慣れ親しんできた霊(ファミリアスピリット)に“占いの霊”があります。“こう言ったらこうなる”、“きっとこう思うだろうからやる、やらない”などと、相手の思いを汲んで相手に行う忖度の文化がこの日本にはあります。お中元、お歳暮、年賀状、土産などは日本人にとって当たり前の文化ですが、牧師はアメリカの友人に日本のお土産を渡した時、「なんで誕生日でもクリスマスでもないのに、これをくれるの?私に何かしてほしい事があるの?」と言われ驚いたそうです。下心があると思われたのです。しかし、日本ではそれをやらない事で人間関係に亀裂が入ることもあり、しなければ!と義務感で行なっている場合もあるでしょう。自ら余計な重荷を負っているのです。

また、ファミリアスピリット:占いの霊は、「自分はこういう人間だ」と思い込ませ、サタンはこの悪霊によって、クリスチャンを自滅させ、自身の奴隷にしようとしてきます。占いの霊に捕われると、“人”しか見えなくなってしまい、占い⇒思い込み⇒独り善がり⇒自己陶酔でサタンの奴隷になっていきます。占いの霊は、特に新生クリスチャンを一番攻撃し、キリストの権威を忘れさせて腑抜けにします。私たちがもっとも気を付けるべき霊力です。

 

さらに、チャーミングの霊という悪霊が存在します。自分の持っているもの(才能、お金、容姿)、魅力で相手を惹きつけるのです。この霊力をもって福音宣教して相手が救われたとしても、それはいったん自分に姦淫させてからイエス様に繋げているにすぎません。イエス様が目的ではなく、自分が相手にとって偶像となってしまい、「○○さんとお近づきになりたい」「〇〇さんと仲良くなれるなら信じる」「○○さんと付き合いたいから受け入れる」という目的が先行してしまい、自分と相手の間に何か問題が生じれば、相手はイエス様も捨てることになるでしょう。自分が神の栄光をあらわして、相手を救いに導く事と、自分の魅力で惹きつけ、姦淫の霊、遊女の霊で救いの告白をさせ、集会に連れてくるのは違うのだと語られました。そのようにサタンに使われやすい種をまけば、最終自分が刈り取ることになるため、どんな言葉を出すか、相手とどのような人間関係を築くのか、改めて言葉と行いに気をつけ、偽ることなくイエス様の真理をまっすぐに伝えることの重要性を箴言12章、13章のみことばを通して確認し、聖霊による知恵をますます求めていかなければならないと語られました。

 

箴言12章本

戒めを愛する人は知識を愛する、懲しめを憎む者は愚かである。
善人は主の恵みをうけ、悪い計りごとを設ける人は主に罰せられる。
人は悪をもって堅く立つことはできない、正しい人の根は動くことはない。
賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は夫の骨に生じた腐れのようなものである。
正しい人の考えは公正である、悪しき者の計ることは偽りである。
悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。
悪しき者は倒されて、うせ去る、正しい人の家は堅く立つ。
人はその悟りにしたがって、ほめられ、心のねじけた者は、卑しめられる。
身分の低い人でも自分で働く者は、みずから高ぶって食に乏しい者にまさる。
正しい人はその家畜の命を顧みる、悪しき者は残忍をもって、あわれみとする。
自分の田地を耕す者は食糧に飽きる、無益な事に従う者は知恵がない。
悪しき者の堅固なやぐらは崩壊する、正しい人の根は堅く立つ。
悪人はくちびるのとがによって、わなに陥る、しかし正しい人は悩みをのがれる。
人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。
愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。
愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。
真実を語る人は正しい証言をなし、偽りの証人は偽りを言う。
つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。
真実を言うくちびるは、いつまでも保つ、偽りを言う舌は、ただ、まばたきの間だけである。
悪をたくらむ者の心には欺きがあり、善をはかる人には喜びがある。(喜んでいないなら、心の中に悪がある)
正しい人にはなんの害悪も生じない、しかし悪しき者は災をもって満たされる。
偽りを言うくちびる(真理をはっきり言わない)は主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。
さとき人は知識をかくす、しかし愚かな者は自分の愚かなことをあらわす。
勤め働く者の手はついに人を治める、怠る者は人に仕えるようになる。
心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。
正しい人は悪を離れ去る、しかし悪しき者は自ら道に迷う。
怠る者は自分の獲物を捕えない、しかし勤め働く人は尊い宝を獲る。
正義の道には命がある、しかし誤りの道は死に至る。

 

箴言13:1本

知恵ある子は父の教訓をきく、あざける者は、懲しめをきかない。

 

箴言13:10~14本

高ぶりはただ争いを生じる、勧告をきく者は知恵がある。
急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。
望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。
み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。
知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。

 

アーメンダイヤモンド

 

今週も、創造主である神の内に生かされていることに感謝し、自分の言動に気をつけ、責任をもって、一人でも多くの人を救いに導いていけたことを感謝して祈りますグー王冠1