ピリピ人への手紙を通して学ぶイエス様・聖霊様との歩み | ぶどうの木 Good News

ピリピ人への手紙を通して学ぶイエス様・聖霊様との歩み

holygirlですニコニコ

 

今日5月6日は、1985年にアメリカ・ロサンゼルスで日本、日本人に向けた預言が出されて39年目です。また、ぶどうの木牧師が聖霊のバプテスマを頂き27年目となります。

 

<1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言>


大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。
あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。

そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。


わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!

わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。

わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。

(中略)

今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。

 

昨日の集会では、この預言を受け継いで、神の臨在、目的、言葉と力を注ぎ出す器になることを改めて語られました。そして、いかに聖霊が大切か、どこまでも悪霊の策略を見抜き、見分けて戦うという学びがなければ、何のための教会であり、クリスチャンであるか、確認する集会となり、ピリピ人への手紙を通して、クリスチャンとしてイエス様と共に歩むとはどういう事なのかを語られました。

 

ピリピ3:13~16本

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

 

アーメン宝石ブルー

“きっとこうなる”、“前もダメだったから、今回もどうせ同じことになる”という占いの霊に囚われると、自分の意見・思いが先行して、イエス様に示されたことができなくなります。「祈っているんだけどね」とは言っても行いには移さず、状態にとらわれて一歩も踏み出せないクリスチャン、牧師が聖霊の賜物による【知恵の言葉】で「こうしたら良い」と教えて下さっても、「そう言われても無理です」と言うクリスチャンは不信仰であり、キリストの僕ではありません。いつまでも後のもの、過去を握り、物事を判断している違った考えについて、イエス様は牧師を通して徹底的に示してくださいました。

 

また、このみことばは主の訓練についても教えてくれています。「ノウハウを知ったからもう大丈夫」という事は、クリスチャンにはありません。「牧師は完璧だから、もう訓練はない」という事もありません。主の訓練は一生続きます。だからこそ、立っていると思う者は倒れないように気をつけなければなりません。そして、訓練のハードルはクリスチャンとしての成長に伴って上がっていきます。高跳びと同じで、1センチずつ上がっていったとしても、跳び越えようとしたらいっきに上がったように感じるものです。どれだけの歩幅で助走をし、どのタイミングで踏み込むのか、そのタイミングが合ってこそ跳び越えることができ、それが聖霊のタイミングを逃さずに門が開いている時に行いに移す事と同じであると語られました。失敗したら、聖霊のタイミングを逃したら、もう一度、霊・魂・体を整えて、ハードルが用意される事を、聖霊の門が開くことを待ち、次のタイミングで挑まなければなりません。

さらに、訓練のハードルは高くなるだけではなく、数も増えていきます。助走少なく、日々次から次へといくつものハードルを跳び越えていかなければなりません。ぶどうの木の牧師の姿を見ているとそれがよく分かります。24時間休む暇もなく、信徒が抱えている問題=目の前にあらわれるハードルを跳び越えながら、群れの羊皆を養って下さっています。私たちも訓練を嫌がるのではなく、次々に訓練が与えられることは神に愛されている証拠、私生児ではない証拠であることを喜び、牧師の姿勢に倣って成長していかなければならないと語られました。

 

後ろのものは忘れること、“前はこうだった、こう言われた”という占いの霊に囚われず、前のもの・未来に向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めるのがクリスチャンです。「なぜ神は私に乗り越えられない事ばかり与えてくるのか!愛の神ではないのか!」と肉の思いが爆発して、逃げ出してしまう羊もいますが、神は私たちの状態、気づいていない罪、過去、未来、全てを知っておられ、通れないところは通させません。忘れてはならないのは、全てのハードル=訓練は、主が与えているという事、そして、助け主聖霊も与えて下さっているという事、私たちは主にあって跳び越えていけるという事です。神は、いつも一人一人の達し得たところに従って、「次はこうしなさい」「この道を行きなさい」と教えて下さいます。逃げ出さずに忍耐して訓練を受け入れ、乗り越え、成し遂げるなら、必ず賞与・勝利の証・祝福が伴っていくのです。

 

ピリピ人への手紙を書いたパウロは、何度も迫害を受け投獄され、この世を去ってイエス様と共にいることを願い、望みながらも、神を愛し、私たちに信仰ある者としての行いとそこに伴う喜びを、命をかけて宣べ伝え続けてくれました。私たち同様、イエス様に直接お会いした事はなくても、イエス様の愛と力を知り体験しており、信仰を貫き通した先人であり、模範となる存在です。パウロのメッセージは、魂が揺さぶられ、同じクリスチャンとして「できない」「私には無理」とは言えず、霊から励まされ、力をもらうことができます。むしろ、そのように感じることができてこそ、霊魂体のパイプが開通し、連動しているクリスチャンと言えるでしょう。

霊にどれだけみことばを蓄えていても、魂(知性・感情)で考え、感じて、判断するのは自分です。神は人間をロボットにさせないために、自由意思を与えてくださったからです。しかし、魂が死んでいたらどうでしょう・・・自分の思いを言葉にできない、神の愛のメッセージを受けても何も感じない、心が動かされない、悪に対して聖なる怒りも沸き起こらない、神がしてくださった事や聖霊の導きを悟れない状態であれば、一方的に注がれている神の恵みも、聖霊の働きも全て無駄にしている事になります。

20代のA姉妹は、先週のブログに対して次のようなコメントを載せていました。

 

『私は元々あまり怒らない性格で、救われてからも「裁かない」は比較的すんなりと受け入れられたのですが、逆に聖なる怒りになることが難しかったです。肉を打ち叩いて裁きの思いを足の下にすることは分かるのですが、肉を打ち叩いて頑張って怒りをあらわにするのはなんか違うよな…となっていました。
そもそも怒らない、怒れないのは、周りのことに対してあまり考えていないからだと語られ、救われてからムカンシンを悔い改めました。それでもまだ何かに対して感想を問われた時、問われてから気がついて感想を考え出すことが多く、周りにも自分にも=霊の世界にも鈍感だと語られました。自分のように隣人を愛する。誰かに対して、状況に対して、肉においても霊においても自分はどう思ったのか、ちゃんと考えて、それを口にする訓練だと思いました。明け渡した器となり、イエス様の栄光を表していけたことを感謝します!』

 

今の日本社会、また、世界の動きを見ていたら、特に聖なる怒りは沸き起こるばかりです。息を吐くように平気で嘘をつき、“今だけ、金だけ、自分だけ”の自己愛、自己中心の人々によって、悪事が行われている世の中に対しては、怒り、声を上げていかなければ変わりません。姉妹が気づかされたように、悪事に対して怒れないのは、無関心(他者に関わらない)、無感心(何も感じない)、無観心(観て悟らない)であり、結局愛がないのだと語られました。聖書は【神は愛】であることを教えており、神の戒めは、第一に神を愛し、第二に隣人を愛する事です。毎週教会に行くこと、献金をすること、祈ること、神学的学びを深めること、奉仕することではなく、神の愛・キリストの愛が育っているかが重要なのです。しかし、魂がみことばによって変えられていなければ、救われる前と感じ方も、考え方も同じであり、平気でみことばを拒絶し、自分なりのやり方をしてしまいます。

ある姉妹は、牧師から「大事なものを失おうとしている家族に、大事なものを失わないように語ってあげてほしい!それができるのは姉である貴女だけだから!」と語られたのですが、それを「強制された!」と捉え、群れを飛び出し、後に強迫観念から解放されたと言ってきました。彼女が教材となり、私たちはイエス様から何のための聖書の学びなのかと問われました。自分さえ良ければいいのでしょうか・・・自分の家族にさえ愛を注ぎ出せない器に何ができるでしょうか・・・霊魂体のパイプが詰まりドロドロになってしまっていたら、神の御心は行えません。相手と魂で向き合うことを恐れ、自己防衛に入る人は、神の目から見たら愛がない人、冷酷、冷淡な人です。自分のために本気になってくれていると分かれば、相手は変わります。相手が本気だと伝われば、自分も本気で本音で向き合おうと思います。心から謝罪してきた人、それが解る人を、ないがしろにすることはできません。仮にそのような態度を取ってしまったとしても、良心の呵責を覚えるのが神が本来人間に与えた霊であり、魂です。

 

教会もそうです。牧師が神学的に、善人のきれいごとのメッセージを語っても信徒の心は揺さぶられません。良いお話止まりです。しかし、牧師が自身の過去の罪も、感じていること、考えていること全てをさらけ出して、霊から溢れる思いを語り、聖なる怒りをあらわにしたり、爆発的な喜びをあらわしていたら、信徒は自分の置かれている状況と重ね合わせて聞くことができ、互いの心が内に燃え、その場は聖霊充満となり、皆が恵まれていくのだと語られました。みことばも同じであり、霊にビンビンと感じるものがあるなら、「アーメン」と言葉にせずにはおれません。「アーメン!アーメン!」と言葉にすればするほど、霊が立ち上がり、力と喜びが湧いてくるのだと語られました。

世の中の人から見て、教会が弱者の集まり、社会に適応できない人たちが居場所を見つけ、傷をなめ合っているだけの集まりであると思われていてはなりません。「イエス様に救われたのに、なぜこんな事が起きるの!?」と思えるような不幸が降りかかることもあるでしょうが、それは、逆に救われたからこそであり、サタンの支配下で光輝く存在となったから攻撃を受けているのです。しかし、私たちクリスチャンは、敵対する者どもにろうばい(不意の出来事などにあわててうろたえること)させられていてはなりません。一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦うことが、本来のあるべき姿です。主の訓練の只中においては、苦しむこと、苦闘を続けることもあるでしょう。それによって私たちは神に対する従順を学び、傷のない神の子となっていくことができます。人の救いの達成に努力して、伝道活動に力を入れている教会は多いですが、まずは神を畏れおののいて、自分の救いの達成に努めるようパウロは教えています。パウロと同じ気持ちで、生きることはキリストであり、死ぬことは益であると考えられているクリスチャンがどれだけいるでしょうか。肉体において生きていることが、実り多い働きになっているクリスチャンがどれだけいるでしょうか。私たちはみことばを通して、自分自身を吟味しました。

 

ピリピ1:21~30本

わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。

ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

 

ピリピ2:1~30本

そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。

 

ピリピ3:1~21本

最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。

あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

 

アーメン宝石緑

3章からは、いつまでも自分の肉の思い、意見を言い続けることは、救われる前の自分に良いものがあったと主張している事であり、パウロが【わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。】とはっきり言っているように、同じく、過去の自分はキリストのゆえに損、握ってきたものはふん土であったと言える者となれているか、改めて問われました。そして、先週語られたように、私たちクリスチャンは『神を自分の内に迎え入れた者』ですから、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだす者、キリスト・イエスによって捕らえられた者となっているはずであると語られました。それは、一言で言えば、主にあってでしか言葉が出ない、行いに移せない者になっているという事です。そうでなければ、滅び、地獄行きです。中途半端に生きるなら、害を受けることをわきまえ知り、自分の身を清く保ち、情欲に流されてはならないと語られました。

ビリー・ブリム女史の預言通り、自分自身の全てを明け渡す5月に入り、連休明けの明日からまた、皆それぞれ自分の持ち場(職場、学校)での働きが始まります。最後に、何を大切に心にとめ、行い生活していくべきか、ピリピ人への手紙4章を読み確認しました。

 

ピリピ4:1~23本

だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。

わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた。ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。

主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 

アーメン宝石赤

【主にあっていつも喜ぶ】とは、肉は喜べない状況であったとしても、全てがイエス様の御手の中であることを信じ、いつも喜ぶという事です。そこには信仰が問われます。そして、祈りと願いは、【感謝をもって】捧げるものであり、神に向かって「主よ、こうしてください!」と命令形で行うものではありません。「祈っているんだけどね・・・」の次に続く思いは、「でも主がなかなか祈りを聞いてくれない」でしょうが、そんな棚からぼた餅式に何でもかんでも祈ればきかれるという信仰ではない事は、主の訓練という観点からも十分に学んできたことです。そして、パウロが言っているように、求めるところを神に申し上げたら全て叶えてくださるのではなく、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が与えられるのです。

また、みことばによってつくりかえられた魂を十分に働かせることも言われています。すべて正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、称賛に値するものに心をとめます。これらの事に敏感になって、わきまえ知っておかなければなりません。さらに、聞くだけの者にならず、学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、実行しなければなりません。平和の神は、そのようなクリスチャンと共にいて下さることを忘れてはならないと語られました。

 

そして、毎週のメッセージを良く聞き、霊に蓄え、魂で感じ、考え、忠実に実行しているなら、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ているはずです。相手が誰であっても、どんな場所であっても、どんな立場に置かれても、その都度どう対応するべきか、兄弟姉妹が教材にもなってくれ学んでくることができました。自分の肉では到底できない事も、主にあって、自分自身を強くしてくださるかたによって、何事もすることができることを体験してきました。その学びと体験を忘れることなく、改めて爆発的な聖霊の力を信じ、イエス様に信頼して、皆がここからの歩みを神に喜ばれるものにしていけたことを感謝して祈りますキラキラ

 

最後に牧師を通しては、【自分の持っている確信を放棄してはいけない。神のみ旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である】と語られました。前回のブログには、私たち夫婦が新しい命を授かるまでの証を紹介したのですが、まさに妊娠までの歩みも、忍耐をもって自分の肉を打ち叩き、神のみ旨を行って身も心も変えられてきたからこそ、神が私たち夫婦に約束してくださっていたものを、一つ一つ受けることができたのだと思っています。【忍耐】は御霊の実の中にはなく、キリストの性質というよりは、肉がついている人間が肉を打ち叩いて身に付けていくべきものなのでしょう。我慢になれば、肉の思いが爆発して途中で放棄してしまいます。神がおられるという望み、信仰によって生きることのできるクリスチャンに伴う証を、私自身ますますここから実らせていけたことを感謝して祈りますぶどう

 

へブル10:30~39本

「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

 

アーメン宝石紫

今日で出産予定日(6月6日)の1か月前となりました。いつ生まれてきても良いように心も体も整えていく時期に入りました。ブログもいつまで書き続けられるか分からなかったため、一先ず読者の皆さんには妊娠報告を証としてさせて頂きました。ブログがしばらく上がらなくなったら、出産したのだと思ってください立ち上がる

今週もブログの働きをさせていただけたことに感謝しますまじかるクラウン