御霊で始めたことを信仰で行ない抜くクリスチャン | ぶどうの木 Good News

御霊で始めたことを信仰で行ない抜くクリスチャン

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今週の集会は、まず1週間の内にあった様々な霊的戦いによってざわついている一人一人の霊魂体を静まらせるために、皆で異言の祈りをしました。そして、牧師を通してみことばが臨みました。

 

ハバクク2:1~5本

わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。また、酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼の欲は陰府のように広い。彼は死のようであって、飽くことなく、万国をおのれに集め、万民をおのれのものとしてつどわせる」。

 

ハバクク2:12~14本

わざわいなるかな、血をもって町を建て、悪をもって町を築く者よ。見よ、もろもろの民は火のために労し、もろもろの国びとはむなしい事のために疲れる。これは万軍の主から出る言葉ではないか。海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。

 

第2テモテ3:1~5本

しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。 

 

第2テモテ3:10~4:8本

しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

 

アーメンダイヤモンド

 

先週牧師は、霊が圧迫されて苦しく、肉的には鬱状態になっている時があったそうです。しかし、霊では“なぜ私は喜びがない?何があっただろうか?”という思いであり、自分の私生活に目を向けると特に問題もなく、思い煩うことなく順風満帆で、“ならばこれは何ですか!?”とイエス様に聞いていたそうです。まず、このように分析できているか、自分の霊に目を向けているか、私たちは問われました。そして、牧師はこの状態は自分ではなく、群れの羊の霊的状態であることを教えられました。

実際、置かれた場所で霊が圧迫され、“死にたい”と思うほどの鬱状態・瀕死状態になっている羊や、不信仰になり、報告・連絡・相談も牧師にしないまま、群れを離れた方が良いかと考えている羊がいたり、群れを離れた後、刈り取るだけ肉に刈り取って大変な状況にある羊から連絡が来るなど、たくさんの霊的戦いがある1週間でした。

 

イエス様を受け入れクリスチャンになると、サタンの支配下である暗闇のこの世の中で、ピカッと光っている存在になります。その光は、たとえ信仰を失くしてこの世の人と変わらない生活を再び始めても変わることはありません。イエス様は一度入られたら出て行きません。そして、まるで夜間飛行で何もない山の上を通っている時に、一件だけ明かりをつけている家を見つけるように、サタンはそんな光=クリスチャンの存在を憎み、攻撃してきます。救われる前と同じ肉の人として生きていても、サタンから救われる前以上に狙われ続けるので、状態は7倍悪くなるのです。

今週与えられたみことばに、【キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。】(第2テモテ3:12)と書かれてある通り、迫害、患難があるのはイエス様にあって信心深く生きている証拠であり、喜び踊る事ですが、サタンに狙われた時に、クリスチャン自身に、サタンに打ち勝てる強さがなく、内に頂いた霊の炎が消えかかり、周りの影響を受けてしまうのであれば、そこを離れ、まず自分自身の霊性を守らなければなりません。また、無言を貫き、牧師・兄弟姉妹に相談せず、置かれている場所にいる上司や同僚、先生=この世の人の意見を全て受け入れてしまうのであれば、律法的に縛られ、主にあっての自由を奪われてしまうのだと語られました。

 

さらに、聖霊の門が開かれ、「今だ!」と言われている時にやるべきことを行わずに機会を逃してしまえば、次、いつ門が開くか分かりません。次はないかもしれません。だからこそ、クリスチャンの歩みは一期一会、一生に一度しかない出会い、一生に一度かぎりであるとわきまえ知り、日々緊張感をもってイエス様と繋がり、行いに移していかなければなりません。聖霊のタイミングを逃せば、今度は悪霊に門を開くことになり、どんどん上手くいかない状態になっていきます。霊の世界は、自然の世界より現実的です。肉の思いは死に至るからこそ、牧師は24時間勤務で霊の世界を見極め、羊にゴーサインを出しています。その時に、頭に戻って自分の意見を言い、自分のやり方を行うなら、サタンの支配下で迷路に陥ります。

ぶどうの木には、霊の監督者である牧師から常にメッセージを受け取れるよう、また、他のキリストの肢体を教材に、自分自身を吟味できるようグループラインも与えられていますが、そのように至れり尽くせりしてもらっている恵みの中にいるにも関わらず、その価値が分からず「豚に真珠」状態、吐いたものに転がり続けているだけでは、どんどん汚くなり、悪臭を放っていても分からなくなっていきます。先週語られた通り、私たちは司令官であるイエス様を喜ばせる兵卒となれているか問われました。

 

第2テモテ2:1~8本

そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

 

アーメン宝石ブルー

聖霊に満たされた主の兵卒が、忠実に!熱心に!任務を遂行しなければ、何一つ達成されません。だからこそ、皆が静まって、「私こそ主である」とおっしゃる神の御声を聞いていかなければならないと語られました。

 

【主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。】(へブル2:18)というみことばがあります。先に書いたように、牧師は群れの羊の霊的状態を身に受け、誰がこの状態にいるのだろうかとイエス様に聞きます。自分の身に起こる事に対して、血肉で自分自身を見ることはしません。常に見えない霊の世界に目を向けています。根本的原因は見えない霊の世界から来ているからです。そして、ご自身が先に試練・訓練を通って勝利しているからこそ、羊に勝利への道を伝えることができます。

 

土曜日に、ぶどうの木牧師の潰瘍性大腸炎の完治の証の後編動画がアップされました!

 

 

ぜひ、ご視聴いただきたいですが、今回の証の中で、牧師の霊的な戦い、肉の世界と霊の世界は繋がっていることについて、次のように語られています。

 

寛解期であっても、突然腹痛におそわれて下痢をしたり、血便が出る時がありました。それは、集会や大切な交わりに出掛ける直前であったり、核心に触れる話の途中だったりと、明らかにサタンが行かせまい、語らせまいとして持ってきているものだと分かりました。牧師は、「イエス様の御名によってサタンよ、退け!私は神の子だ!私に指一本触れることを許さない!地獄に帰れ!」とキリストの権威でサタン・悪霊に命じることによって、その霊的戦いに勝利していきました。(「神様」ではなく、イエス様の御名で戦うこと、本人が「サタンよ退け!」と命ずることに力があり、未信者に対してはこちらの信仰で悪霊の追い出しをするよう、今週の集会で再確認しました。)そんな中で、大腸カメラを行った際には、潰瘍ではなく、ナイフで切られたような跡が3カ所大腸にあり、主治医が「これは潰瘍性大腸炎の症状か!?」と驚きました。牧師がイエス様に聞くと、それは当時対峙していた反キリストの霊に囚われた3人の羊との霊的戦いによってついた傷であると示されました。まさに、魂の状態が体にあらわれることを知った瞬間でした。悪霊に取り憑かれた相手から放たれる裁きや憎しみの霊力に対しては、徹底的に真理に立ち無条件の愛と無条件のゆるしで向き合うしかありません。それを忘れ戦いを怠り、肉の思いに負けて相手を裁けば、自分の霊性が狂わされ、身体に刈り取り一歩も行けなくなってしまうことも、イエス様は教えてくださいました。真理に従って、3人の羊も解放されて、翌年大腸検査を受けた時には、その3つの跡はきれいになくなっていました。

その後も、牧者として霊的攻撃は続き、見える状態においては、次の大腸カメラ検査ではどんなひどい状態になっているだろうと思うこともありましたが、毎回大腸カメラをしてもきれいな腸であり、血液検査も問題なしでした。しかし、主治医は「寛解期だから。いつまた発症してもおかしくない。薬をやめたら、またひどくなる」と言い、薬の処方を続けました。牧師は毎回「上に立つ権威」の御言葉に従い、主治医の指示に従って薬を飲んでいましたが、ずっと「イエス様、いつまでですか!?薬から解放されたいです」と祈り求めていました。そして、2022年7月に聖霊の導きにより、参政党の選挙演説で吉野敏明医師の話を聞いて知らされたのは、今まで食べてきたものが腸の炎症を引き起こしてきたという事、第二次世界大戦後の驚くべき日本の食に対する改悪の真実でした。まさにサタンによる日本人に対する攻撃でした。唯一の治療法は、いともシンプルに180度食事を改善することでした。牧師はついにイエス様が明かして下さったことに感謝し、食事改善による潰瘍性大腸炎の完治の症例を数多く持っている吉野医師のもとに行く決心をしました。この医師の元には、末期がん、難病患者など、現代医学から見放された患者が次々に来院するため、いつも半年先まで予約が一杯でした。その中で、あろうことか、吉野医師の病院が乗っ取りにあい、一旦吉野医師も牧師も絶望に見舞われたわずか1か月後、奇跡的に吉野医師に支援者が現れて新規開業された初日、2022年9月1日の最初の患者として当初の予定よりずっと早く、牧師が診察を受けれたことも、神業であったとイエス様に感謝しました。
そこで牧師は、未来医療と言われる「メタトロン」という、ロシアの宇宙飛行士の健康管理のために開発した健康チェックと健康調律のための波動機器によって、脳波から何が自分の体に良いか、合うか、何を食べない方が良いかを知り、さらにどんな感情をもって自分自身が成り立っているのかも徹底的に分析されました。
「メタトロン」による治療は、病気の原因を追究していく治療であり、未病のための治療、つまり病気にならないための治療でした。吉野医師と彼の著書から、「あなたの身体は、あなたが食べるものでできています!よく噛めば、唾液の成分で毒を緩和することができますし、食べるものが変われば身体が変わり、身体が変われば思考が変わります!人間の身体はオーケストラと同じです。各部位が楽器として音を奏でています。それがあなた自身から発せられるものです。もし、どこかの部位が不調になれば、オーケストラは不協和音を奏でます。今日の治療で、今あなたは完璧に癒されている状態ですが、2,3日後にはもとに戻るでしょう。なぜなら、あなたが何を食べ、飲み、あなたが誰と会い、どんな言葉を出すか、どんな環境に身を置くか、周りがどんな言葉を出しているかで身体は変わるからです」と聞き、まさに聖書真理、病気、癒しは霊から、魂、体にあらわれるのだという事と一致したそうです。【初めに言があった。言葉は肉体となる】という御言葉通り、自分自身をつくりあげるのは日常生活で自分が出している言葉、また人からかけられる言葉です。自分は気をつけていても、周りに妬まれたり、恨まれたり、不平不満を言われたり、ズルをされたら、身体に悪影響を及ぼします。それを医師は良い波動と悪い波動と表現していたそうですが、クリスチャンで言えば、霊力です。まずはどんな霊力を自分が発しているか、次に、どんな霊力を自分は受けているかで、身体の状態も環境も変わっていくのです。それゆえ、いついかなる時も、いつも魂が健全で、平安であること、サタン・悪霊に隙を与えて、他者から害を受けないように言葉にも行状にも気を付けることが、健康な体に繋がるのだと語られました。

 

 

医学界にはたくさんの病名があり、原因が分からないものも名前をつけて分類されていっていますが、病名が増えたところで、治療法がないもの、対症療法になっているものも多いです。例えば、うつ病の人を薬で本当に治せるでしょうか。精神を高揚させるような薬、何も考えなくていいように眠らせる薬を出したら、その人は治るのでしょうか。その場しのぎを続けているだけではないでしょうか。精神科にかかれば、一生薬漬けです。薬を飲んでいたら安心と思い込まされるだけです。それよりも、寂しさや不安に駆られないように、誰かが親身になって寄り添い、話を聞き、愛を注ぎ出すことが必要だと、霊的には教えられます。それはどんな症状に対しても言えることです。牧師は母教会で見聞きしてきた様々な癒しの証を通して、胃腸系の病気は、3代4代に渡る呪い祟りの霊から来ていることや、心臓疾患はお金を握っていることから来ていることを知りました。神仏に仕える日本人は、特に仏教行事には多額のお金が絡んでくるため、両方の霊力を受けていると言えます。また、様々な病気や問題を抱えている人の話を聞いていけば、なぜそこに至ってしまったのか、霊的原因が明らかにされ、そこに対峙し、本人も意志を向けてみことばに従い、自ら悪霊を縛り上げて戦っていくことで(他者にやってもらうのではなく、自分で行うことが重要)、問題解決や病気の癒しを得てくることができました。本来教会とはそういう場所であり、いつまでたっても病気のまま、問題を抱えたままでいるなら、「救われたのに、なぜこうなるの!?」と思う事があるなら、肉で生き、ずっと血肉の戦いをしているのです。牧師が霊の世界を知らず、悪霊との戦いに目を向け、戦い抜くことができなければ、羊は解放されず、サタンを教会の中に入れ、好き放題にさせてしまうのです。

 

動画の最後には、以下のような牧師からのメッセージが語られています赤薔薇

 

「本来クリスチャンとして、マルコによる福音書16章18節に【病人に手をおけば、いやされる】と書かれている通り、そのように信仰で祈るなら癒されます。実際、私は救われてすぐ、幼子の時にその癒しも体験しました。血便が突然普通の便になり、中華のあんかけ揚げ焼きそばを食べても平気でした。ところが、そこから主治医から処方された薬を飲み続け、今になって振り返ると、食事を変えていませんでした。肉において何を食べるか、霊においてどんなみことばを食べるか、人間には両方ともに必要なことです。完治までに27年もかかった事については、イエス様が、肉の世界と霊の世界、2つの角度から語ってくださいました。
まず、肉の世界においては、寛解期もなく癒されていたら、西洋医学と日本の食の歴史の闇は暴かれませんでした。日本人の食にあったサタンの策略が暴かれるのに、その時が満ちるのに、待たされた歳月が27年だったのです。それだけの時間が必要でした。しかし、感謝なことに、その間私は一度も点滴で治療することなく、入院、手術をすることもなく、集会や海外にも普通に行くことができました。私自身、クリスチャンとしての聖霊の守りがずっとあったのです。そして、腸の病は家の3代から4代に渡る呪い祟りの霊からであると教えられてきましたが、私の腸の病は、日本人にあった3代から4代に渡る呪い祟りの霊からのものであったということを、イエス様は教えてくださいました。
さらに、霊の世界においては、難病とされている潰瘍性大腸炎をはじめ、すべての難病、病気とは、悪霊による攻撃が原因であることが、はっきりと聖霊により教えられました。私にとっての27年間は、どんな病気も霊から魂、体に現れることを徹底的に知る期間であったのです。特に牧者として、大腸に出来たナイフで切られたような3カ所の跡は、当時3人の羊を捕えている悪霊の霊力のあらわれでした。導かれた羊と対峙する時には、必ず霊的戦いがあります。私の場合は、それが潰瘍性大腸炎の症状としてあらわれました。自分の肉の事ではなく、羊の解放のために霊的な戦いを戦い抜き、勝利を勝ち取り、肉においても自分の体が癒しを受ける体験は、牧師職の本分、霊的な任務であると教えられました。
マルコによる福音書5章に書かれてある“長血をわずらっている女の癒し”のみことばが与えられた時、自分自身を長血をわずらっている女と重ねていましたが、今霊の世界における牧師としての戦いを教えられて改めて読むと、長血をわずらっている女がイエス様のみ衣にさわった時に、【イエス様の内から力が出て行ったことに気付かれた】という箇所が霊に入ってきました。癒しを求めてくる人、抱えている問題の解決を求めてくる人が持ってくる霊力に対して注ぎ出す力こそ、イエス様の内から出て行った力であるのだと語られました。イエス様が私にそれを体験させてくださったことを感謝します。」

 

この世で肉体をもって生きている以上、日常生活の中で私たちは様々な攻撃を受け、まさに聖霊対悪霊の戦地に置かれていると言えます。しかし、霊の世界を知っているなら、自分の状態はイエス様から来ているのか、サタンから来ているのかに目を向けることができます。相手がサタンに使われていることが分かれば、その言動にいちいち落胆したり、怒ったりしません。悪霊の策略には、徹底的に抵抗し、戦い抜く力もすでに頂いています。「イエス様から来ていないものは全部取り去ってください!」と祈ることもできます。そして、神はいつもご自身の栄光の富の中から、私たちのいっさいの必要をキリスト・イエスにあって満たして下さるお方ですから、この世のことで思い煩う必要もありません。

しかし、今私たちが日常生活の中で思い煩っているとするなら、それは家計・経済的なことではないでしょうか。お金はサタンが一番使ってくる武器でもあります。特に、日本社会は30年間給料が上がらず、一生懸命働いてもお金が得られず、物価は上がる一方で、自分を食べさせるのに精一杯で結婚できない若者が増え、家庭をもっても貯金ができない状態です。貧困は人の心から余裕を奪い、お金を得るためにどうすれば良いか、一円でも自分が得をするためにはどうすれば良いかという思考に陥ります。夫婦間であっても、家計、口座が別々が当たり前となり、女性も働いているため、“俺のお金、私のお金”意識が強いです。離婚したい時に問題なく折半できるからという理由もあるとか・・・夫婦が一体になりきれていない現状があります。

また、何か問題・事件が起きた時には、金銭絡みが多いです。【神と富とに兼ね仕えることはできない】【受けるより与える方が幸い】と聖書は教えていますが、富に仕え、いかにして人から受けるか、自分の利益ばかりを考える人間がどんどん生まれてしまっている世の中です。そこにクリスチャンである私たちもまかれていくなら、給料が増えること、社会的地位が上がること、宝くじや景品が当たることが祝福、自分の肉の欲が満たされることが祝福であると勘違いし、本当に大切なものを見失っていくことになるでしょう。今となっては、コロナワクチンを打たなければ会社に居づらい、辞めさせられるという理由で接種し、後遺症で苦しんだり、命を落とした人がいることもそう言えます。

 

クリスチャンとなり初めに大きな神の愛を受け、せっかく神の道を歩き始めたのに肉の人に戻るなら、私たちはこの世の律法=ルールにがんじがらめになり、“どうせ無理、不可能でしょ!”という思いに囚われていくのだと語られました。何事も「ルールだから」「国が決めたことだから」という理由で従うのではなく、ルールがおかしかったら、ルールそのものを変えていかなければなりません。貧困の原因の一つは、なんでもかんでも税金がかかることです。車を買う時に税金を払っているのに、なぜ購入後も自動車税を払うのか、なぜ親が築き上げてきたものを相続しただけで、相続税を取られなければならないのか。なぜ、家を購入したら多額の固定資産税を取られるのか。世の中や相手の言動に対しておかしいと反応せず、声もあげずに言いなりになっているから、一部の人間(ディープステート)だけが裕福に、自由に暮らせる世界、世の中になっていることも、私たちは学んできました。

一つ一つの事に対して、みことばと照らし合わせ違和感を感じながら生活できているでしょうか?その場しのぎの生活をし、握っているものがあれば、世の中に対して、また自分の身の周りで起きていることに対して違和感も感じません。御霊で始めたことを肉で仕上げようとするなら、肉の声にどんどん翻弄されていくだけです。

今週の集会の総括として頂いたみことばはガラテヤ3章3節~5節でしたひらめき電球

 

ガラテヤ3:3~5本

あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

 

アーメン宝石赤

 

今一度、御霊で喜んで始めたことが、いつの間にかこの世の声やルールによって肉で仕上げることになっていないか、見える状態に翻弄されて信仰を奪われていないか、霊魂体がいつも健全な状態を保てているか、自分のここまでの歩みを振り返り、神の子の特権を行使して一人一人が立ち上がっていけたことを感謝して祈ります!!