預言の成就を祈る4月初集会 | ぶどうの木 Good News

預言の成就を祈る4月初集会

holygirlですニコニコ

 

昨日の集会前に、私たちは牧師を通して、自分に甘すぎる、自分の肉を何とかしなさい!サタンではなく、主にあってできる!と立ち上がりなさいと語られました。自分にとって困難な事が起こった時、上手くいかない事に対して、「主よ、やってください!解決してください!」と祈るクリスチャンが多いですが、私たちは「あなたがやりなさい!変わりなさい!」と学んできました。また、自分にとって嫌なこと、やりたくないことに対して、「サタンよ!退け!」と祈るクリスチャンがいますが、神の目から見たら、「怖いから、揉めたくないから、面倒くさいから」という自己愛、自己正当化によって、逃げているだけであると語られてきました。つまり、どちらも自分の肉の問題であり、肉に甘すぎて、肉の堕落がすぎるだけなのです。朝起きれないのであれば、肉を打ち叩いて起きる、「汚れた霊よ、退け!」ではなく、部屋が汚れているなら掃除するのは当たり前のことです。この世の人は、「気分がのらない、気が滅入る」という言葉を使いますが、それも理由にはなりません。気分のせいにしている場合ではない!気分は自分次第で変えることができます。

何でもサタンのせいにしていたら、サタンが図に乗って喜ぶだけです。牧師から見たら、羊が抱える8割の問題は、家庭教育における肉の問題であり、自分で自分を躾ける必要があります。サタンのせいにする前に、自分に甘く、怠惰なだけではないかと考え、改めていかなければなりません。そして、サタン・悪霊によるものであれば、本人が変わりたい!解放されたい!と望むことが解放の道なのだと語られました。

 

4月初集会となった今週の集会は、満開の桜の中、『ぶどうの木寺子屋教会』の始業式という思いで、皆が着席しました桜

神の似姿に創造された人間だけが、霊を持つ人間だけが、肉の自由さ故に好き勝手に神に定められた人生を狂わせ、自然界に多大な迷惑をかけてきました。私たちは、神が定めた、人間が持つべき人としての価値観を学び、取り戻すために、寺子屋教会での学びを続けていかなければなりません。イエス・キリストから、使徒たちへ、パウロへ神の教えが伝わり、彼らがそれを広めて、町々村々に長老をカシラとした教会を立てていったことも、日本に置きかえるならば、寺子屋(〇〇塾)と同じような要素をもつものであったでしょう。日本には宣教師によって、キリスト教主義学校がつくられ、「ミッションスクール」と呼ばれてきましたが、キリスト教主義とは何でしょう?今やどこの学校が、神に喜ばれるクリスチャンを育成するミッション、任務、宣教を果たしているでしょうか?日本のクリスチャン人口は減っていくばかり・・・サタンが妨害しているとも言えますが、関わる人間の肉の堕落、甘さが、このような現状を来たらせていないか、吟味するべきことです。

 

今週の集会は、エレミヤ書の預言のみことばから始まりましたベル

 

エレミヤ書25:11本

この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。

 

エレミヤ書25:30~38本

それゆえ、あなたは彼らにこのすべての言葉を預言して言いなさい、

『主は高い所から呼ばわり、その聖なるすまいから声を出し、自分のすみかに向かって大いに呼ばわり、地に住むすべての者に向かってぶどうを踏む者のように叫ばれる。叫びは地の果にまで響きわたる。主が国々と争い、すべての肉なる者をさばき、悪人をつるぎに渡すからであると、主は言われる』。万軍の主はこう仰せられる、見よ、国から国へ災が出て行く。大きなあらしが地の果からおこる。その日、主に殺される人々は、地のこの果から、かの果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、地のおもてに糞土となる。

牧者よ、嘆き叫べ、群れのかしらたちよ、灰の中にまろべ。あなたがたのほふられる日、散らされる日が来たからだ。あなたがたは選び分けられた雄羊のように倒れる。牧者には、のがれ場なく、群れのかしらたちは逃げる所がない。牧者の叫び声と、群れのかしらたちの嘆きの声が聞える。主が彼らの牧場を滅ぼしておられるからだ。主の激しい怒りによって、平和な牧場は荒れていく。ししのように彼はその巣を出た。主のつるぎと、その激しい怒りによって、彼らの地は荒れ地となった」。

 

アーメン宝石ブルー

神学的な解釈があるのでしょうが、霊でこのみことばを受けた牧師は、戦後79年間、日本は神ではなく、バビロンの王に仕えてきたのだとおっしゃいました。そして、預言を通して、集会の前のメッセージ通り、神によって【肉なる者】はさばかれ、殺される人々もいること、また、牧者が裁かれる時がくるのだと語られました。クリスチャンであっても肉が強く、神の御心を行えない者、プライドと自己顕示欲で牧会し、羊を養わず苦しめ、惑わしている牧者たち・・一体神の御前で何をし、どんな種を蒔いてきたのか・・・最近もある教会の牧師と羊の問題を聞かされることになりましたが、暴走する牧者、カルト化していく教会に対して、保身をはかるあまり、黙って見て見ぬふりをし、真っ当な判断ができなくさせられている羊たちによって、どちらも破滅していっています。そのような群れ、クリスチャンに対して神の激しい怒りがのぞむのは当然であると語られました。

 

また、今月に対する素晴らしい預言のみことばも与えられましたゆめみる宝石

 

ヨエル書2:1~32本

あなたがたはシオンでラッパを吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。国の民はみな、ふるいわななけ。主の日が来るからである。それは近い。これは暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日である。多くの強い民が暗やみのようにもろもろの山をおおう。このようなことは昔からあったことがなく、後の代々の年にも再び起ることがないであろう。

火は彼らの前を焼き、炎は彼らの後に燃える。彼らのこない前には、地はエデンの園のようであるが、その去った後は荒れ果てた野のようになる。これをのがれうるものは一つもない。

そのかたちは馬のかたちのようであり、その走ることは軍馬のようである。山の頂でとびおどる音は、戦車のとどろくようである。また刈り株を焼く火の炎の音のようであり、戦いの備えをした強い軍隊のようである。その前にもろもろの民はなやみ、すべての顔は色を失う。彼らは勇士のように走り、兵士のように城壁によじ登る。彼らはおのおの自分の道を進んで行って、その道を踏みはずさない。彼らは互におしあわず、おのおのその道を進み行く。彼らは武器の中にとびこんでも、身をそこなわない。彼らは町にとび入り、城壁の上を走り、家々によじ登り、盗びとのように窓からはいる。

地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。主はその軍勢の前で声をあげられる。その軍隊は非常に多いからである。そのみ言葉をなし遂げる者は強い。主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。

主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とをあなたがたの神、主にささげさせられる事はないとだれが知るだろうか。

シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集し、民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください。どうしてもろもろの国民に、『彼らの神はどこにいるのか』と言わせてよいでしょうか」。

その時主は自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれた。主は答えて、その民に言われた、「見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはこれを食べて飽きるであろう。わたしは重ねてあなたがたにもろもろの国民のうちでそしりを受けさせない。

わたしは北から来る者をあなたがたから遠ざけ、これをかわいた荒れ地に追いやり、その前の者を東の海に、その後の者を西の海に追いやる。その臭いにおいは起り、その悪しきにおいは上る。これは大いなる事をしたからである。地よ恐るな、喜び楽しめ、
主は大いなる事を行われたからである。野のもろもろの獣よ、恐るな。荒野の牧草はもえいで、木はその実を結び、いちじくの木とぶどうの木とは豊かに実る。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。

その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。

わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。すべて主の名を呼ぶ者は救われる。それは主が言われたように、シオンの山とエルサレムとに、のがれる者があるからである。その残った者のうちに、主のお召しになる者がある。

 

アーメン宝石緑

この預言は、牧師に先週後半から臨んでいたそうで、主の軍隊による悪霊に対する勝利が語られました。そして、今週の賛美歌としても歌った2章23節、【シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。】を通して、【雨】という知識の言葉から、神とクリスチャンの関係について語られました。

桜が最高にきれいな今の時期、また、入学・入社を迎える春に、雨を望む人、雨を喜ぶ人はあまりいないでしょう。雨が降ったら嫌だから、日本にはてるてる坊主をつくる文化もあります。しかし、実際は雨が降らなければ困る人たちもおり、自然界は雨が降ることでバランスが保たれていますから、てるてる坊主をつくることは、自己中心的な考えのあらわれであると言えます。現代は、気象兵器として、大量の雨を降らせ、台風を起こすこともできてしまいますが、本来、神は秩序正しく雨を降らせ、作物を育て、私たち人間を養ってくださっています。そんな神による【雨】とは、霊的に私たちにとって神の試練、義とされるための訓練の時でもあり、恵みでもあるのだと教えられました。「雨降って地固まる」という言葉や、「雨のち晴れるや」という歌もありますが、雨が降った後には、基盤がしっかりして良い状態、良い天気になるのです太陽

神は心を見ておられ、試みられる方です。物事に取り組む時に真剣かどうか、死ぬほどがんばったか。必死に神の御心を聞いて、それを行おうと努力したか。心の土壌が乾いてカチカチであれば、せっかく種がまかれても何も成長しませんが、雨=水=みことばをしっかり吸収できる土壌であれば、豊かに実を結んでいくことができます。そのようなシオンの民、選びの民として主によって喜び楽しむ特権を私たちは与えられているのだと語られました。

 

そして、ヨエル書2章の後半の預言は、使徒行伝2章にも繋がりますひらめき電球

 

使徒行伝2:1~21本

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、

『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。

 

アーメン宝石紫

霊の世界を知った私たちは、日本人が知らない本物の霊の世界を教える寺子屋教会として、小羊の血の力と証をもって、この預言者ヨエルが預言し、実際に使徒たちに臨んだ神の賜物、聖霊の力を体現し、この時代に多くの人々を救いに導いていかなければならないのだと語られました。

 

使徒行伝2:38~47本

すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。

 

アーメン宝石赤

 

 

先週土曜日に、私は昨年公開された映画『エクソシスト 信じる者』をアマゾンプライムで観ました。昨年末に、牧師である母と妹が映画館での最終上映日に観に行き、群れの皆に映画の内容と、霊的に何を伝えているか解説してくれたのですが、私自身も実際に観て思ったのは、悪霊の性質がとても分かりやすく描かれているという事でした。映画の中で悪霊と対峙するクリスチャンが、直接体を傷つけられたり、命を落とすこともあるのですが、その原因が分からない人(未信者)が見たら、クリスチャンも結局は悪霊に対して力がないのだな・・・と思うでしょう。しかし、イエス様の教え(みことば)・真理を理解し、霊の世界における戦いを体得しているクリスチャンであれば、サタンに負ける原因は何かよく分かります。これはクリスチャンが自分の信仰を吟味し、自分に信仰があるかどうか、教えとキリストの権威が身についているか確認するための映画、テキストのような映画であると思いました。ただの恐ろしいホラー映画ではなく、とても興味深い内容でしたので、クリスチャンに対してはぜひお薦めしたい一作です。

イエス様ご自身も、悪霊と対峙する時に必要な事を、みことばを通して教えてくださっています。

 

マタイ17:17~21本

イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。

 

アーメン宝石緑悪霊は、対峙しているクリスチャンに信仰があるかどうか分かっており、心も見抜いています。自分と神しか知らないことを知っており、過去に犯した罪、弱みに付け込んで落ち込ませ、情にも訴えかけてきます。クリスチャンとは名ばかりで、この世に迎合している人、悪霊の存在を疑いながら悪霊の追い出しをしている人、信仰が足りない人は、悪霊に嘲られて追い出すことができません。ですから、実際悪霊の追い出しをする時には、一つ思いになれない人は退出してもらった方が良いと言われます。

また、イエス様がおっしゃった【祈りと断食とによらなければ、追い出すことができない】という事は、滝にあたるような修行をするような事ではなく、この世の事に深入りせず、流されることなく、キリストの花嫁になれているか、自分のことではなく他者のために熱心になり、祈りに専念していたら自ずと飲む事も食べる事も忘れ、断食していることになるのだと語られました。

 

改めて、クリスチャンとしての信仰について問われ、続くマタイ18章のみことばを通しても、自分を吟味することになりました。

 

マタイ18:1~20本

そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

 

アーメン宝石ブルー

まず、幼子のような信仰があるかどうか。幼子は素直で正直ですが、プライドがあり、自分の意見を主張する大人は、神に対して反逆者になっていきます。主にあってできる!ことを喜んで受け入れ、実践することができず、「主にあってできた!」と言えずに自分に栄光を帰して誇っていきます。心をいれかえて、神がおっしゃることを素直に行なえるクリスチャンであるか問われました。

また、肉がついている以上、罪の誘惑はありますが、それをきたらせる人はわざわいです。冒頭に書いたように、自分の肉は自分で制することが必要であり、自分のプライドによって他者を軽んじたり、好き嫌いを言う人は、一人一人を愛しておられる神に敵対し、拒絶しているのだと語られました。

そして、クリスチャンにありがちなのが、起きている問題に対して祈ることはしても、直接忠告したり、行いに移すことはしないという事です。しかし、イエス様は、「祈っているだけではなく語れ!行え!」とおっしゃいました。正しいことを愛で語るなら、聖霊が働きます。たとえ、相手が聞く耳を持たなくても、キリストの思いで祈り、どうするか聞いていくことができます。見捨てたり、追い出すことは決してしません。

逆に、憎しみや裁きの思いで言うなら、悪霊が動きます。親子、友人関係がうまく築けていない人、本音で語り合えてこなかった人は、いざという時に何と言葉を出したら良いのか、どう対応して良いのか分からず、一人で荷を負い、悪霊を野放し状態にしてしまいます。それは神との関係の築き方にも関係し、神に信頼することや、何でもご存知の神と共に歩む信仰が分からないのだと語られました。

 

次に、無条件のゆるしの信仰があるか・・・みことばは続きますひらめき電球

 

マタイ18:21~35本

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

 

アーメン宝石紫

このみことばを通して、私たちは一万タラントの負債=罪を許されたことを忘れてはならないと語られました。それにも関わらず、現実社会の中でなぜ誰かを許せず、百デナリを貸した人を責めるのか。【借金を返すまで獄に入れた】というのは、ずっと裁き続けているという事であり、相手が謝るまで、借金を返すまで絶交状態であるなら、それはサタンと友達になっていることであると語られました。この構図の中にいるのであれば、天の父も、私たちをゆるしては下さらないでしょう。

そして、サタンは、私たちの過去の罪を持ち出して来て攻撃してきますから、武器を作らせないためにも、兄弟だけではなく、自分の犯した罪、自分自身をもゆるさなければならないと語られました。

 

最後に、ぶどうの木寺子屋教会における家族のあり方講座として大切な学びがありましたクローバー

先週の日曜日に、名古屋から通っているA姉妹が集会に向かう行きの高速道路で車何台かを巻き込む玉突き事故を起こしてしまいました。最初は、自分が事故に巻き込まれたと思ったそうですが、警察が検証した結果、自分が原因であったことが分かったそうです。車は廃車になるほど損傷していましたが、感謝なことに自分自身も、他の車の人たちも大きなけがをすることなく、事故後の応対も皆親切で、事故処理を終えてレンタカーを借りた時には、集会に間に合う時間であったため、A姉妹はそのまま駆け付け、イースター集会に着席することができたのでした。

事故の衝撃の際には、大きな神の力に包まれた感覚があり、本当に命があって良かった!守られて感謝!よくぞ恐れることなくレンタカーで浜松と名古屋を往復することができたという思いに満たされたと証してくれたのですが、月曜日から、保険会社との対応が始まると、たくさんの人を巻き込んでしまったという罪悪感にさいなまれ、どうしてこんな事になってしまったのだろうかといって落ち込むこともあったそうです。

ちょうど私も一年前に、単独ではありましたが、車が横転する事故を起こしましたので、生きているのが当たり前ではないという感覚をひしひしと感じながら過ごす日々と、事故を思い出して落ち込んだり恐れたりするA姉妹の気持ちはよく分かりました。

自分は罪を犯してしまった、なぜサタンに狙われたのかという思いに囚われると、喜びは奪われます。しかし、それもサタンの策略で、それだけサタンにとって手強いクリスチャンになっているからこそ攻撃も受けること、それでも命までは奪うことができない神の守りがあること、名古屋に置かれているA姉妹を通してこれからたくさんの人が救われ導かれるからこそ、何としてもそれを阻止しようとする力が働いたが、詩篇90篇のみことばと仕え奉仕する御使いによって、無事にイエス様の復活を祝う集会の席に着けたのだから喜んで!と牧師を通して解き明かされたA姉妹は、霊から立ち上がることができ、魂が癒され、出てきていたむち打ちの痛みも癒されたのでした。

 

今週の集会でA姉妹がこの1週間の報告と、いかに神が守って下さったのかという証をしてくれたのですが、皆が一番驚いたのは、A姉妹がサラっと話したことの中にありました。それは、日曜日に、別の用件でご主人と会話していたにも関わらず、日曜日に起こした事故について伝えたのが金曜日であったという事でした!保険の名義人であったご主人に、保険会社から様々な連絡メールが入っており、それに気づいたご主人が事情を聞いてきて、話すに至ったそうです。単身赴任をしている主人に余計な心配をかけさせたくないという思いから、すぐに報告しなかったA姉妹の霊的状態が明るみとなり、家族間、夫婦間の風通しは大丈夫か?事後報告になったことを、ご主人も気にせず、A姉妹もゆっくり話せる時に・・・という感覚でいたことが、おかしいでしょ?という話になりました。

「今、事故を起こしたけど、私の身体は大丈夫です!」と事故直後に言えたなら、A姉妹は一人で対応に追われることもなく、ご主人と協力してもっと平安の内に過ごすことができたでしょう。そして、事故から守られたという凄い証も、家族にタイムリーに伝えることができたでしょう。ご主人の単身赴任から1年、一人で気を張りすぎて肩に力が入っていたことに気付かされ、悔い改めたA姉妹でした。

牧師を通して、「主人に頼ることは、主人に対して貴方が一家の長です!と常日ごろから自覚してもらう知恵でもあり、共に家庭を守り、築き上げることに繋がります。主人に自分のこと、子どもたちのことを知ってもらえるように話すこと、自分が思ったこと、感じたこと、考えたこと、行なったこと、その結果を報告することで、主人も心を開いて全て話せるようになる関係が生まれる・・・それが風通しが良いという意味です。皆さんの家庭は、なんでも話せる関係ですか?一大事が起きた時に、すぐに報告、連絡、相談ができる関係ですか?」と語られ、改めてA姉妹が教材となり、今の日本の家庭に欠如している夫婦の在り方、家族のあり方を再確認することができました。

 

預言と共に、人として、またクリスチャンとして、大切な事が語られた4月初めの集会となったことを感謝します乙女のトキメキ何が起こってくるのか、預言の成就を楽しみに、一人一人が学びを身にしていく月となったことを感謝して祈ります!!