神の御計画の成就―イエス様の十字架刑から復活― | ぶどうの木 Good News

神の御計画の成就―イエス様の十字架刑から復活―

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昨日3月31日は、イエス様の復活祭(イースター)でした王冠1

 

【神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。】(ヨハネ3:16)という神の御心・目的をもって、紀元0年(西暦はイエス・キリストの誕生が基準)に地上に遣わされたのがイエス・キリストです。キリストとは、救い主という意味です。なぜ、人類に救い主が必要であったかというと、最初の人間アダムとエバがへび(サタンの象徴)にそそのかされ、神が取って食べてはならないと言った“善悪を知る木”から実を取って食べてしまったことにより、人間に本来与えられていた神の霊が死に、そこから人類は、自分の知識、良識、常識から答えを出す魂(知性・感情・意思)と体だけで、神の的から外れた人生の中で罪を犯し続けてきたからです。この世に誕生して、へその緒を切られた瞬間から3代4代に渡る呪い祟りの血が全身に流れ始め、遺伝を受け継ぎます。家系の霊力に縛られ、先週語られた通り、神の守りから出てしまっている人間は、サタンが放つ矢に当たってばかりです。

 

創世記1章1節~3節に【はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。】と書かれてありますが、神、神の霊である聖霊、光であるイエス様(「光あれ」とは、「息子よ、出番だ」という意味)によってこの世はでき、堕落した人間の姿を見て、この三位一体と言われる神・イエス様・聖霊様が人類をどうするのか話し合ったとか・・・(人間的な推察かもしれませんが、そのような話も今までに聞いたことがあります。)そして、天の父である神は、息子であるイエス様に「人類の救いのために、お前が地上に行ってくれ」とおっしゃり、聖霊様が、「ならば私が助けます」と言って、イエス様の助け主として、また、イエス様が天に帰った後も、イエス様を信じる者の助け主として地上に残ることにされたのです。イエス様に与えられた人類救済のミッションは、十字架にかかって人類の罪の贖いのための血を流して死に、三日目に死人の中からよみがえって、死(サタン)に勝利されることでした。

 

紀元0年、イエス様は、処女マリアの胎をとおり、大工であったヨセフの子として生まれました。

余談ですが、人の染色体は、全部で46個あります。父親から23個、母親から23個、父親から22個の常染色体、母親から22個の常染色体、母親からX染色体、父親からXかYどちらかの性染色体を受け継ぎます。しかしイエス様には、24個の染色体しかありませんでした。母親マリアからの23個の染色体と、1個のY染色体です。母親からの常染色体がなければ発育できないので、全ての身体的特徴は、母親からの遺伝情報によって決定されました。男性という性は、その一つのY染色体、人間の男性ヨセフから来たものではない性染色体によって決定されたのだと分かりました。また、乾燥した血液、死んだ血液でも、DNAやその他色々な情報を得る事はできますが、染色体の数だけは生きた白血球からしか分からず、この事が実証された時に染色体の数まで分かったことから、イエス様の血が今の時代も生きている事も証明されました。(詳しくは、動画「契約の箱の発掘」をご覧下さい)

 

24個の染色体しかないという事自体、医学的に人間として存在する事はありませんが、イエス様は私たちと同じ人の形をとって生まれて来ました。マリアの染色体は受け継いでいますが、マリアの血を受け継いだわけではありません。イエス様は人間の中にある3代~4代に渡る呪い祟りの血を受け継ぐことなく、無原罪の神の子として誕生されました。つまり、聖霊がマリアに臨み、御子の霊(キリストの霊)が胎内に入り、そこに肉体がついてイエス様は誕生されたのだと言えますひらめき電球みことば通り、生れ出た時から聖なるものであり、神の子であったのです!

 

そして、マリアに育てられたイエス様は、12歳になった時に、過越の祭りのためにエルサレムに行き、その宮の中で教師たちのまん中に座り、彼らの話を聞いたり質問し、聞く人々を驚嘆させました。捜しにきたマリアにイエス様は、【どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか】と言いました。イエス様は自分の父が誰であるのか―天の父(神)である事―を知っていたのです。両親はその言葉の意味を悟ることができませんでしたが、母マリアはこれらの事をみな心に留めていました。

この事からも、少年イエスの内に御子の霊が入っている事が分かります。その後、イエス様はヨハネからバプテスマを受け、その時助け主聖霊が下り、30歳から宣教を始められました。御子の霊に聖霊が下ったことにより、聖霊に満たされたイエス様は、荒野を40日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあい、それに勝利されて、数々の御業を行っていきました。そして、33歳の時、一番の御業、神からのミッションであった十字架刑へと進んでいくのです。

 

今週の集会では、救われたばかりで知識のない兄弟姉妹のためにも、マタイによる福音書27章と、ルカによる福音書23章、24章を読み、十字架刑から復活までの事を知り、イエス様の姿勢からクリスチャンとしてのあるべき姿を学びました。

 

マタイ27:1~18本

夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。ときに、バラバという評判の囚人がいた。それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。

 

ルカ23:13~25本

ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当るようなことはしていないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるように要求した。そして、その声が勝った。ピラトはついに彼らの願いどおりにすることに決定した。そして、暴動と殺人とのかどで獄に投ぜられた者の方を、彼らの要求に応じてゆるしてやり、イエスの方は彼らに引き渡して、その意のままにまかせた。

 

ピラトがわかっていたように、イエス様は人心のねたみによって不利な証言をされ、訴えられていたにもかかわらず、一言も弁明されず黙っておられました。私たちと同じ肉体をもち、感情があり、十字架刑の恐ろしさ、残酷さも御存知でしたので、刑を逃れたいと思えば逃れることもできたのです。しかし、イエス様はご自身がこの時のため、十字架刑を受けるために地上に遣わされたことを心にしっかりと留めておられたのです。イエス様が逃げたら、人類は全員地獄行き確定でした。何も言わない、ひと言も答えないことが人類救済計画をまっとうするために必要なことだったのです。

それでもピラトは、3度も民衆にむかって、イエス様に死に当たる罪は認められない!ゆるそう!と訴えました。それでも民衆は極悪人バラバの恩赦を求めたのです。ここにサタンに使われた人間の姿があります。善悪を知る木から実を取って食べたことにより霊が死に、自分の思い(魂)のままに善悪を判断する人間の声(言葉)が勝つ世の中なのです。お金と引き換えにイエス様を裏切ったユダの悪。そして、ユダが罪を犯したと気づいても、お金繋がりの闇側の人間関係に愛はなく、「われわれの知ったことか」と言い放つ冷淡さ。利用するだけしたら、ユダが命を断っても関係ありません。

 

神を神と認めず、サタンの声を聞いて動く人間、私利私欲のために平気で悪事を行い、人の命を軽んじる人間がおり、彼らの言葉が勝ち、彼らの決めたことによって成り立っている恐ろしい世の中は、今現在も同じです。先日、アメリカ・テネシー州上院で、ジオ・エンジニアリング(旧ケムトレイル・化学薬品を大気中に散布すること)を禁止する法案が賛成多数で可決されました。つまり、陰謀論の代表的存在だと言われていた「ケムトレイル散布」は実際に行われていたということです。水や食品からだけではなく、私たちは空からも有害物質をまかれていたことになります。花粉症(アレルギー)だと思わされてきた症状も本当に花粉が原因なのでしょうか。直近では、4月4日にNTT法が廃止されようとしています。NTT法の柱は、アナログ電話の公平な提供と、電気通信技術の研究の推進及び成果の普及という2つの責務をNTTに負わせることでしたが、岸田政権は、NTTをアメリカの外資に売り渡そうとしています。これに対し、他の通信事業者(KDDI、ソフトバンク、楽天モバイル、全国ケーブルテレビ連盟など)181社が、料金の高止まりや地方維持できない問題を訴え、反対の意見を表明していますが、すでに与野党一致で、NTT法改正案が閣議決定されており、岸田首相は、これを手土産に4月10日に、天皇と同じ国賓待遇でアメリカを訪問する予定だと言われています。改正案では、NTTに対する研究成果の公開義務の撤廃や、外国人役員の規制の緩和、社名の変更を可能にすることなどが盛り込まれていますが、驚くのは、この事実をNTTの社員が知らないことです。何の繋がりも関係もない外国人役員が入ってきたら、日本人社員の人員削減も容赦なく行われるでしょう。日本国民は通信手段を奪われる可能性もあります。今の日本の政権の悪事、社会の異常さをあげればきりがなく、そこに立ち向かっている人たちがいることは感謝ですが、彼らにはイエス様に対する信仰がありません。私たちクリスチャンは霊の世界を知っている者として、生身の人間では打ち勝てないサタンに使われた人間との戦いであることをわきまえ知り、サタンを縛り上げる祈りによって応戦していかなければならないと語られました。

 

話をみことばに戻します。

 

ルカ23:26~56本

彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。

大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうされるなら、枯木はどうされることであろう」。

さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。

ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。

 

「神の子だったら、ここから飛び降りても死なないだろ!飛び降りてみろ!」「イエスが癒し主だと信じているなら、今ここで癒してみろ!」と言われる迫害を受けた事のあるクリスチャンもいると思います。ぶどうの木牧師もそのように、サタンに支配されている人から挑発を受けたことがあり、まだ救われたばかりの幼子の時には、「イエス様、あなたの力を見せつけてやってください!」と訴えたこともあったそうです。しかし、それはイエス様ご自身も受けた迫害でした。イエス様はそのようなサタンの挑発、あざけりにはのらずに、無条件の愛と無条件のゆるしによって、【父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです】と、とりなしの祈りをして彼らの罪をゆるしました。そして、「もし神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい。」「ユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」という役人や兵卒ども、また同じ十字架にかけられながらも、「キリストなら、自分を救い、われわれも救ってみよ」と悪口を言い続けた犯罪人に対しても、「分かった!やってやろうじゃないか!」とは言わず、ただただ、ちりのようにくずのようにされ、自分の肉が砕かれることをお選びになったのです。十字架にかかることが神の御心であり、一度十字架上で死に、復活したら、彼らが言う「自分自身を救うこと」以上にすごいことが人類に起きることを御存知だったからです。

しかし、イエス様の十字架刑は、太陽は光を失い、全地が暗くなるほど、天の父である神でさえ直視することができるものではありませんでした。イエス様は素っ裸でしたが、それが分からないほど全身血まみれであり、その流された血によって、最初の人間アダムの時から受け継がれてきた全人類の罪が洗い流されたのです。

 

私たちクリスチャンも、イエス様の十字架を負うて従う訓練期間は、とことん高ぶりやプライドといった肉を打ち砕かれ、イエス様を信じているがゆえに、理由もなく妬まれ、憎まれ、時に罵倒されたり嘲られて、この世でちりのようにくずのようにされます。「悔しい!見返してやりたい!なぜ私がここまで言われないといけないのか!こんな扱いを受けなければならないのか!」と思ったらサタンに対して敗北です。その時に必要なのは、自分の魂を主にゆだね、イエス様が模範を示して下さったように、徹底的に【無条件のゆるし】を行うことなのだと語られました。なぜなら、その時の苦しみを忘れてしまうほどの神のなさり方で、後に神の栄光を受けることが約束されているからです。

 

十字架刑の後、イエス様に神の御計画の成就の時、復活の時が訪れました。

 

ルカ24:1~53本

週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだ(「イエス」ではなく、復活され「主イエス」に変わっている)が見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕

この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。(⇒その後、使徒たちに聖霊が下りました。)

それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 

アーメンダイヤモンド

イエス様の墓に行き、御使いの言葉を受けて3日目によみがえるというイエス様の言葉を思い出したのは女性たちであり、男性(使徒)たちは、イエス様と共に行動していたのに、愚かな話のように思って信じませんでした。イエス様ご自身が姿をあらわしても恐れ驚き、信じられずに不思議に思っていました。ここに女性と男性の器の違いがあることを教えられます。

また、先週【御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。】と語られた通り、御使いの存在がはっきりと書かれており、イエス様の墓の前に置かれた石をころがしたのも御使いであったことが分かります。(一言で「ころがしてある」とありますが、簡単にできることではありません)イエス様同様、私たちも神と共に歩むなら、必ず御使いが仕えて下さるのだと語られました。

死人の中から復活された方こそ、私たちが信じる神・イエス様です。天に帰られたのですから、この地上にイエス様のお墓は存在しません。三位一体の神の御計画どおり、イエス様のよみがえりをもって、イエス様の名による罪のゆるしを得させる悔改めが、聖霊の力を受けた使徒たちによってエルサレムからはじまり、後に、パウロが召され、もろもろの国民に宣べ伝えられていきました。

復活されたイエス様が【モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する】とおっしゃった通り、預言者イザヤによって書かれたイザヤ書53章には、イエス様の十字架刑の御姿が詳細に書かれています。

 

イザヤ書53章本

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。

 

アーメン宝石赤

イザヤが預言者として活躍したのは、紀元前740年前から紀元前690年頃です。つまり紀元0年にイエス・キリストが誕生する約700年以上前に、救い主が来て私たちの罪のために十字架に架かって下さることを預言していたのです。その内容は、あまりにも事実と一致していたため、迫害者は、「ここは十字架刑を見た弟子たちがあとから旧約聖書の中に差し込んだのではないか!?」と言いますが、その口を封じるかのように、1947年に初めてイスラエルのクムランという場所で、イザヤ書を含む死海文書(約2千年前に書かれた世界最古の聖書を含む古文書)が発見されました。イザヤ53章も、イエス・キリストが生まれる前に書かれたことが証明されたというわけです。さらに、2021年にも65年ぶりに死海文書が発見され、私たちの記憶にも新しいです。

つまり神は、壮大な御計画、イエス・キリストの十字架刑にある御心を、まだイエス・キリストを見ぬ旧約時代の預言者にまで知らせ、人類に教えて下さっていたのです。

 

「クリスチャンなのに、なぜこんなに苦しい思い、辛い現状に置かれなければならないの!?」と不平不満を言い続けていないでしょうか?先に書いたように、イエス様の十字架を負うて従う期間は、当座は喜ばしいものではありませんが、真理に従って歩んでいるなら、必ず、神のみ旨・御計画が長年にもわたって与えられているのだと語られました。

 

3月28日に、ぶどうの木牧師はついに潰瘍性大腸炎の外来診療が終診となりました。牧師は人生の節目の年齢と同じ章をイザヤ書から頂き、53歳の時に、このイザヤ53章を頂いたそうです。

牧師は潰瘍性大腸炎と診断されてすぐ、マルコによる福音書16章17節~18節に書かれてある【信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。】をもって祈り、状態を来たらせる悪霊と戦い、血便と膿しか出ない状態から、健康な便が出る体へと癒された体験をしました。しかし、この世の医学・西洋医学では、どれだけ症状が安定していても、「寛解期」と言われ、薬を処方され続けました。霊的戦いの中にある時は、潰瘍性大腸炎の症状が現れましたが、大腸カメラ検査、血液検査での問題はみられませんでした。

牧師はずっと、“なぜいつまでたっても寛解期なのだ”と思いながら、27年間このレッテルと戦ってきました。そして、このブログでも証を紹介してきましたが、2年前にメタトロン診療に出会い、食事改善を開始し、薬をやめ、主治医も認めざるを得ない健康な体、健康な検査数値をあらわしました。そして、ついに先週、主治医はカルテに「終診」と書かざるを得なくなったのですキラキラ

ここまで27年という長い月日が経ちました。牧師は改めて、「みことばによってすぐに完治とは言えないこの癒され方が神の御心だったのでしょうか?」とイエス様に問いました。イエス様は、肉の世界と霊の世界、2つの角度から語ってくださいました。まず、肉の世界においては、寛解期もなく癒されていたら、西洋医学と日本に入り込んできた食の闇は暴かれなかったとおっしゃいました。そして、霊の世界おいては、どんな病気も霊から魂、体に現れることを徹底的に知る期間であったこと、だからこそ、クリスチャンは霊を清く保ち、御霊の実の9つ目である【自制】の実をしっかりと成らせていかなければならないのだとおっしゃいました。イザヤ53章10節に【しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。】と書かれてある通り、牧師自身も、肉を砕かれ、悩まされながらも、徹底的に神に自分の全てを捧げて主のみ旨に従って歩むことによって、神の御計画を成就させ、たくさんの人を目覚めさせる神の証人となったのです王冠1

 

今年のイースター集会は、イエス様の十字架刑からの復活を通して、神の御心とは何か、神の御心を成就することのできるクリスチャンに成れているか問われ、語られました。そして、4月から進級、進学、社会人、新部署に移ることになる兄弟姉妹や、牧師同様、霊⇒魂⇒体の学びから癌の完治を勝ち取った姉妹、夏に結婚する兄弟姉妹それぞれのここまでの証を通しても、一人一人が神の御心は何かをいつも聞きながら言動し、時に悔い改めて肉を打ち叩いて従ってきたことで、喜びの内に次なるステージに向かうことができることが分かり感謝でした。

 

4月1日、ようやく桜も咲き始め、新年度が始まりました桜ここから日本はどうなっていくのか・・・聞こえてくるニュースを魂で受ければ途方に暮れますが、死にも勝利されたイエス様と共に生き、聖霊対悪霊の戦いである霊の世界を知っている私たちクリスチャンの祈りと、置かれた場所における主に忠実な行いによって、悪しきはかりごとを打破していけると信じます!

闇の世界を暴くアメリカ人が、ある動画の中で、「これからの時代は寺子屋が必要だ」と言っており、それを聞いたぶどうの木牧師は、私たちが今行なっている事こそ、寺子屋の学びではないかと思ったそうです。聖書から人としての在り方、家族のあり方を学ぶだけではなく、食、政治、世の中の社会問題についても興味をもち学ぶ場がぶどうの木です。「ぶどうの木は、寺子屋教会である」という知識の言葉が与えられ、アーメンでした。ますます、学びを身にし、置かれた場所で生かす歩みができたことを感謝して祈ります!!