主にあっての人生が始まったクリスチャン | ぶどうの木 Good News

主にあっての人生が始まったクリスチャン

holygirlですニコニコ

 

今週の集会は、詩篇90篇から始まりましたベル

 

詩篇90:9~17本

われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがってあなたの憤りを知るでしょうか。
われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。
あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。
あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。
あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。
われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。

 

アーメン宝石ブルー

私たちの人生は、神のひと息で尽きるようなものです。人間が健康を維持して生きられるのは70年~80年であって、現代寿命が延びているのは医学・医療によってです。日本人は世界一の長寿国と言われますが、それは健康で長生きしている人だけではなく、管に繋がれていたり、ポンプで心臓を動かしていたり、胃ろうで栄養を取っている寝たきりの人も含まれており、それによって10年寿命がプラスされているのです。自分の力で、自分の意志で生きられなくても、寿命を延ばせる現状をつくりだしたのは、神がつくった摂理を無視した人間の知恵です。逆に、どうせ死ぬのだからと投げやりになったり、自ら命を絶ったりと、自分の命や他者の命を軽んじている人や、生物兵器であるコロナウイルスとコロナワクチンをつくって、無差別に命を奪う者たちもいます。このように、命に対しても、人としての生き方に対しても、神を自身の創造主と認めずに生きている人間に、神は怒っておられるのだと語られました。

神の怒りの力を知り、神を畏れて知恵の心を求めて生きられるのは、私たちクリスチャンです。神のみわざと栄光、恵みをあらわす者として使っていただくことを、私たちは祈り求めていかなければなりません。今週は、そのためにどうあるべきかを、みことばを通して学んでいきました。

 

詩篇91:1~16本

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

 

アーメン宝石緑

先週語られた通り、私たちはイエス様の内に生かされています。この詩篇のみことばでは、【主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。】と表現されていますが、信仰をもち神の守りのある人と、神を認めず好き勝手に生きることで神の守りから出ている人の人生は明らかに違います。イエス様はご自身の名を知る者を守り、ご自身の名を呼ぶ者に応えて下さり、悩みの時には共にいて、救い、光栄を与え、長寿をもって満ちたらせると約束してくださっています。

 

牧師がロサンゼルスの母教会に導かれた時、ヤマハで地位を確立し、社長とも親しかった兄弟が、イエス様に全ての時間を捧げるために会社をやめる決心をし、最後は社長が引き留めましたが、自身の証をして退職したのだという証を聞きました。彼はロサンゼルス駐在中に救われ、会社をやめてそのままアメリカで永住権を獲得しました。ヤマハ音楽教室を開拓した人でもあり、救われた後は、母教会の賛美歌をつくり、彼の妻は演奏する働き人をしていました。そのように、自分の人生をイエス様に捧げた彼から、さらに素晴らしい証を聞きました。ある時、西海岸の砂漠地帯を車で家族と共に走行していると、突然車が横転したそうです。誰もいない、車も通らない場所での事故。幸い家族に怪我はありませんでしたが、車から出ることもできず、ただイエス様の御名前を呼び、助けを求めました。心は平安で、必ず主が助けてくださるという信仰がありました。すると、2人の人の足が近寄ってきて、「大丈夫ですか?」と声をかけられました。顔は見えませんでしたが、「大丈夫です」と答えると、「すぐに助けを呼びますので待っていてくださいね」と言われ、去っていったのです。そして、すぐに救助隊が駆け付け、無事に助かったのでした。救助隊は、「どこの誰だか分からないが、救助の連絡がきた」と言いましたが、よく考えると砂漠地帯に人が歩いていたはずもなく、車もなく突然現れたあの2人は御使いであったのだと分かったのです。へブル1章14節に、【御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。】と書かれてある通り、まさに、御使いたちが遣わされたのです。砂漠地帯という肉の世界においては誰も気づいてくれない場所であっても、主はご自分を愛する者を知って下さり、守ってくださったのでした。私たちがイエス様の御名で助けを求めるなら、たとい千人、万人がかたわらに倒れるような状況であろうと、災いは近付かず、一人でいるようであっても、仕え奉仕してくれる御使いたちに守られて過ごすことができるのです。

 

また、自分の力で家族や大切な人を守ることには限界がありますが、クリスチャンにはその祈り(異言)によって、相手が渦中に置かれている問題やこれから起こる事故に対し、主がその羽をもっておおって、守ってくださるという特権もいただいています。イエス様の内に生かされている日常生活であることを悟って過ごしているなら、決してその守りから出たいとは思いません。イエス様を信頼している者に与えられた特権を自ら放棄するのであれば、サタンから放たれた矢が当たり放題であり、疫病と災い、悩み、滅びが襲ってくることを知っているからです。

事故にあって守られる人もいれば、重傷を負い、そのまま命を落としてしまう人もいます。悩みに襲われても立ち上がれる人もいれば、耐えきれなくて自ら命を絶ってしまう人もいます。疫病から守られる人、コロナワクチンの危険性を知って打たない人もいれば、打って後遺症に苦しみ、コロナに何度も感染する人もいます。運が良かった、悪かったという言葉でこの世の人は表現しますが、イエス様としっかり繋がっているクリスチャンであれば、神の守りとサタンの働きを思います。神の守りの中にある人、救いを受け継ぐべき人として選ばれ、幸い命は守られる人と、サタンの支配下であるこの世に翻弄され、サタンの声を聞き続けて滅びに至ってしまう人がいます。だからこそ、この詩篇91篇の契約に、この契約が成就する仲間に、加わろう!日本人!という思いで、私たちは福音宣教していかなければならないと語られました。

 

しかし、せっかく選ばれ、救われ、クリスチャンとして神の守りの内にある人生を歩み始めたにもかかわらず、自ら守りから出てしまう人たちもいます。そのような人は、自分の力、能力によって何事もできていると勘違いし、自分を誇って高ぶり、神の御業に対して鈍感にされています。(本人はできたと思っていても、それは神の目から見たら落ち度があったり、わざわざそこまでやらない方が良かったこともあります。)そして、この世に深入りし、霊性を汚す悪い交わりをしていくことで、いつの間にか、救われる前の自分がどんな境遇に置かれていたのかを忘れ、救われる前の方が良かった、まだマシだった、私にイエス様は必要ないと、反キリストの霊に囚われていくのです。

改めて、私たちクリスチャンは、主にあって!私を強くしてくださる方によって、何事もすることができるのだと牧師を通して語られました。【主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。】(エペソ6:10)と書かれているからです。“主にあって”とは、“聖霊の力によって”、“イエス様の内にあって”、“みことばに書かれてあるから”という言葉に置き換えられます。「みことばにこう書かれてある!」「主にあってできる!」と、主との契約を握りしめて祈る時、私たちはサタンにパンチを食らわせているのです。さらに、みことばに書かれてあることを行う力として助け主聖霊が与えられており、一歩踏み出して行なうなら、サタンはノックアウトされます。この権威を体得していくと、自然に聖書にはどんなみことば(契約)が書かれているのか知りたくなり、聖書を読みたくなります。そして、自分の霊に蓄えられたみことばがサタンに対する武器へと変わっていき、どんな事があっても屈しない、負けない、勝利の歩みをしていくことができます。

ただし、みことばを一つの話や預言、神学としてしか読めなければ、みことばをもらうことも分からず、みことばの一節を握りしめて戦うという発想も生まれません。以前ぶどうの木に来られた著名なS牧師も、「そんな聖書の読み方はできない」とおっしゃっていました。しかし、集会に参加され、ぶどうの木の教会の在り方は初代教会のようであると感じ、そこから交わりを深めていくことによって、S牧師がある時、「みことばをもらうとはどういう事か分かりました。私が初めて頂いたみことばです」と、イザヤ書35章8節に書かれてある【そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者は、そこに迷い入ることはない。】というみことばを教えてくださったのでした。イエス様はS牧師に、みことばをもらう歩みは大路であり、聖なる道であり、人間の知性・神学だけで読むならその道は通れないと語られたのです。

 

詩篇119:9~11本

若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。わたしは心をつくしてあなたを尋ね求めます。わたしをあなたの戒めから迷い出させないでください。わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。

 

アーメン宝石赤

先週語られたように、みことばはただ読めば良いのではありません。どれだけ通読していても、それが自分の霊に着実に蓄えられ、どういう意味なのか魂でも咀嚼できていなければ、みことばを書かせた神・イエス様の御心を行なっていくこと、「主にあって何事もすることができる」と言って一歩踏み出すクリスチャンにはなれません。

クリスチャンが“主にあって”を取られるなら、独り善がりの歩みになり、神が望まないことを自分の力で行なって(高ぶり・偽善)、サタンに攻撃のチャンスを与え、周りの人につまずきを与えていくようになります。高ぶって微塵でも神の栄光を自分に帰す反キリストの霊に囚われると、「みことばに書かれてあるから主にあって行なってみよう!」と言われても、みことばに従うことに違和感や圧迫感、強迫観念を感じ、自分の肉が望むようにできないと反発し始めます。自我が強すぎると、チリのようにくずのようにされる訓練を受けているのに、「チリのようにくずのようにされた!」と怒り、恨みにもなります。そのような人は、神と言いながらサタンの声を聞いており、それゆえに神の守りから出てしまうのです。

 

 

ローマ12:1~2本

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 

アーメン宝石紫

改めて、私たちクリスチャンは、このみことば通り、何が神の御旨であるかをわきまえ知っていることが前提で、主にあって何事もすることができるのだと語られました。自分自身を捧げる霊的な礼拝を日々行うこと、そして、友人がしているから、あの人もやっているから、世の中では当たり前だからと言って、この世と妥協せず、救われた自分は心を新たにすることによって、造り変えられていること、神の内に生かされている自分が、置かれている場所で霊の流れ、聖霊の導きをしっかりと捉え、何が神の御旨であり、善であり、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをわきまえ知って行なうことが求められているのだと語られました。そうすれば、その都度いちいち聖書を開かなくても蓄えられているみことばによって、時と場合に応じた行い、神が求めておられる最善を尽くすことができるでしょう。

ある姉妹は、先に書いた反キリストの霊に囚われていた際、トイレに行っても良いかも聖書を開かなければ分からなくなっていたそうで、それはカルトであって、初めの愛を忘れ、高ぶって自分教をつくり上げてしまっていると牧師を通して語られました。ある教会では、信徒に未信者の家族とは絶縁するようにと牧師が教え、家庭崩壊が起きていると・・・神は愛であり、神の御旨をわきまえ知るという土台の上に立っているのであれば、そのようなカルトには陥りません。

 

聖書は、神の御前でやって良い事と悪い事を教えており、魂につまるものがなければ、霊⇒魂⇒体のパイプはスムーズに流れて、みことばの真意はおのずとわきまえ知っていけるものです。そこ(肉において)は家庭、学校教育、生い立ち、クリスチャンになった後の日常の交わり、人との交わりも関わってきます。いつも自分目線で主語が「私」になり、「私はこう思う!」「私はこれが嫌!これに傷ついた!」「私ならこうするのに!」と、自己主張ばかりで、相手がどう思うか、相手の立場になって考えられない人間であれば、目に見えない神がどう思われているか、その御心を知ることはできないでしょう。また、偏食もそうですが、好き嫌いという感情・感覚に流されている人は、みことばが臨んでも、その感情が露呈します。だからこそ、心を新たにし、古い自分は全て捨て去って180度真反対に造りかえられなければならないのだと語られました。

 

詩篇119:169~176本

主よ、どうか、わが叫びをみ前にいたらせ、み言葉に従って、わたしに知恵をお与えください。わが願いをみ前にいたらせ、み言葉にしたがって、わたしをお助けください。あなたの定めをわたしに教えられるので、わがくちびるはさんびを唱えます。あなたのすべての戒めは正しいので、わが舌はみ言葉を歌います。わたしはあなたのさとしを選びました。あなたのみ手を、常にわが助けとしてください。主よ、わたしはあなたの救を慕います。あなたのおきてはわたしの喜びです。わたしを生かして、あなたをほめたたえさせ、あなたのおきてを、わが助けとしてください。わたしは失われた羊のように迷い出ました。あなたのしもべを捜し出してください。わたしはあなたの戒めを忘れないからです。

 

アーメン宝石緑

神が求めておられるのは、私たちの知恵・能力ではなく、『肉を明け渡した器』、主にあってできる!という心構えができている器です。そういう人が御心を行なっていけるからこそ、改めて自分という者の認識を変え、自分が何者であるかをわきまえ知っていかなければならないと語られました。

 

ヨハネ3:1~7本

パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

 

ガラテヤ2:18~21本

もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。 わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

 

アーメン宝石赤

私たちは、救われクリスチャンになった時から主にあっての人生が始まっています。それゆえ主語が「私」になって、「私は苦しい」「私は辛い」「私は悲しい」と言っているならば、そのピンピンしている肉を打ち叩かなければなりません。神に生きるために、律法によって律法に死んだ体に、痛み、苦しみ、悩みはありません。五感は嘘つきであり、怒り誰かを裁いたり、いつまでも泣いているなら、怒りの霊や嘆きの霊を寄せ付けることになります。状態に目を留めず、いつも、キリストがわたしのうちに生きておられること、肉にあって生きているのは、神の御子イエス様を信じる信仰によって生きていることを忘れてはならないのだと語られました。そして、律法というこの世と妥協しないこと。日本は今人間がつくった律法によって義が行われているでしょうか?正しいことが正しい事としてあらわれず、コロナ禍では特に、真実を伝える人々が叩かれ、陰謀論者扱いされてきました。当たり前に信じてきた医学も、食生活も、歴史も、実は日本人弱体化計画の中にあったものであると解った今、義が律法によって得られる、人間界のルールの中で物事が解決できるとは到底言えません。だからこそ、神はイエス様(みことば)を送ってくださったのです。

 

ヨハネ1:1~14本

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

ヨハネ3:16~21本

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

 

アーメン宝石ブルー

イエス様が来られ、内に入られたという事は、初めに自分の意見・思いを言う者ではなく、みことばを言う者になったという事です。自分の意見や、裁きや怒りからくる悪い言葉を出しているなら、その人はサタンと共にあるため、速やかに出した言葉を取り消し、成就しないようにしなければなりません。

そして、ヨハネによる福音書からの2つのみことばを通して教えられるのは、イエス様を受け入れる者と、自分の行いが悪いためにイエス様(光)に来れない人がいるという事です。“この人は良い人だから聞いてくれる“、“この人に伝えたら影響力がある”と思って福音を伝えても、神の基準における善悪の知識がなければ、「私には必要ない」と言って光であるイエス様を憎みますし、救われても、「私は汚れすぎてるから、集会の席には着けない」と言う人もいます。どちらもとんでもない高ぶりですが、神は誰が光に来て、誰が闇を愛するか、誰が信仰をまっとうし、誰が途中で不信仰になり裏切るかも、全て御存じなのです。【招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない】(マタイ22:14)、【彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。】(ローマ11:20)と書かれてある通りです。

イエス様の名を信じ、イエス様を受け入れた者には、神の子となる力が与えられ、その人のおこないが、神にあってなされたということが明らかにされていきます。それが証です。与えられる証は自分を誇るためではなく、皆が神の栄光を見るためのものであり、全ての栄光はイエス様に帰すものです。私たちは光に来て、神の子としての特権を受け取れたことを感謝しますまじかるクラウン

 

今週の集会は、みことばが次々に与えられ、みことばに基づいて主にあっての人生がいかに平穏で素晴らしいものか、どのように自分の信仰の土台を建て上げていくべきかを改めて学ぶことができました。次の日曜日(31)は、イエス様の復活祭・イースターです。この1週間は、イエス様が十字架に向かう1日1日です。何が起きてきても、みことばを握りしめ、主にあって乗り越えていけたこと、一人一人が学びをしっかりと身にし、実(証)にしていけたことを感謝して祈ります!