イエス様を信じる者の命は永遠―命あっての物種― | ぶどうの木 Good News

イエス様を信じる者の命は永遠―命あっての物種―

holygirlですニコニコ

 

先週、私の母である牧師は、父と共に北海道旅行に行きました。海外出張が多かった父のマイレージがたまり、4年連続北海道へ一泊二日の旅をしてきました。そして今回、残っていた最後のマイレージを使って、5度目の旅となりました。旅の一番の目的は、北海道大学でした。牧師は新社会人となった22歳の時に、大学の教授秘書として初めて札幌市にある北海道大学理学部で行われた国際会議に出席しました。そこから44年が経ち、66歳となって同じ地を訪れたのですあし北海道大学は、今年創立150周年を迎えていました乙女のトキメキ

今回初めて知り感動したことは、あの日の理学部の建物が半分、北海道大学の歴史を知る博物館になっていたことだったそうです。明治9年7月、北海道開拓使長官であった黒田清隆に、将来の北海道開拓の指導者を養成するため、札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭として招かれたクラーク博士は、キリスト教のピューリタ二ズム(カトリック教会やイギリス国教会から分離独立し、清純な生活を理想とするイギリスの清教徒の思想)の家系から生まれました。彼は、聖書こそが人間の柱であり、まずは学生たちに聖書を読ませ、学ばせました。しかし、それはキリスト教の教理、神学、宗教を教える講義ではなく、生活に根差したもの、強い意志で神の愛を持ち、目的を達成できる人格・人間を育てる教育でした。彼の名言として今も語り継がれているのが、「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」であり、さらに青年たちに、「be Gentleman(紳士たれ)」と教えました。神は子として、親として、社会人(紳士)として、人としてどう生きるのか、身近で当たり前なことを教えており、生きる目標(大志)を持つことを望んでおられることを、クラーク博士の講義によって知った多くの若者は、救われクリスチャンとなり、卒業後、様々な分野で日本の土台を築く者となっていきました。

最初に訪れた時から44年という月日の中で、自身も救われ、クリスチャンとなり、今牧師として、クラーク博士と同じ志をもって聖書から、神が望まれる人としての生き方、夫婦の在り方、親子の在り方、家族のあり方を教えている母にとっては、神のその導きに涙が込み上げる感動がありました。

 

そして、博物館見学を終えて帰ろうとすると、右手の手袋がないことに気付いたそうです。「イエス様、(勝利の)右の手袋がありません!」そう思いながら歩き始めた途端、雪道で尻もちをつき、そのまま後頭部を地面にぶつけました。すごい衝撃で、一瞬死んだかと思ったそうですが、咄嗟に「イエス様!イエスの血!」と心の内に叫んだことで、気を失うことなく守られたそうです。父が驚き、「大丈夫か!」と声をかけていると、理学部の学生2人がすぐに「大丈夫ですか!」と駆け付けてくれたそうです。今時の大学生がそんな風に声をかけてくれるのかと驚いたと共に、その紳士的な姿にクラーク博士の教えがしっかりと精神に流れていると感じたそうです。互いが同じ静岡出身であったことも驚いたことでした。

何事もなく起き上がることができた母(牧師)は、イエス様に感謝しました。そして、イエス様が父を使って、「大丈夫!手袋も誰かが拾って置いておいてくれているはずだから。来た道を戻れば必ずある!」とおっしゃった通り、帰りの道で積もった雪の上にポンと置いてある右手袋を見つけたのでした。その途端、目の前が見えないぐらいの大雪になり、傘もなかったので、雪宿りのために帰路にあった北海道クリスチャンセンターに入ると、今年のイースター(イエス・キリストの復活祭)が、3月31日であると知りました。そこで見つけたのが、【わたしはよみがえりであり、いのちである】という御言葉が書かれたカードでした。命を奪われるかと思うほどの転倒から、勝利の右の手が戻ってくる一連の流れからも、このみことばが牧師(母)の霊に強く語られました。そして、今週の集会では、おみやげとしてそのカードが皆に配られ、改めてイエス様からのメッセージを受けました。

 

 

 

 

ヨハネ11:25~26本

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 

 

アーメン宝石赤

この地上での肉体には必ず死が待っていますが、イエス様を信じる者は霊の世界において、永遠の命をいただいています。そして、「あなたはこれを信じるか」と問われているように、私たちには今この時、時代において、信仰が問われ、本物であるか試されているのだと語られました。

ローマ5章1節から5節には、次のように書かれています。

 

ローマ5:1~5本

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

 

アーメン宝石緑

私たちはイエス様を信じて救われた時に、この世のどうしようもないところから神が敷いた線路の上に置かれました。その線路は、地上での命を終えても永遠に続いています。私たちは自分がいつ神の線路の上に置かれたのか忘れてはならないと語られ、それを忘れさせるのが、救われる前から慣れ親しんできた自分の肉であることを確認しました。信仰によって義とされている私たちが、自分の肉のやり方で物事を乗り越えていこうとするなら、平和・平安はありません。頭で解決するのは、肉で考え動いていた救われるの前の自分がすることであって、それでは信仰も聖霊の働きも解らなくなり、宗教・カルトの歩みになってしまいます。イエス様ではなく、目の前にいる人に頼り、依存し、誰かと自分を比較して、高ぶったり自己憐憫に陥ったりを繰り返すようになります。それは先に書いたクラーク博士が求めているものでも、ぶどうの木が教えてきた事でもありません。聖書の学び、世の中の真実を知ることを、“良い話を聞いた。そういう考え方ができたら、ポジティブ(積極的)に生きられる”という自己啓発の場にしているだけなら、長くは続きません。この信仰は主に信頼し、自ら実践してはじめて身にしていけるものです。イエス様が牧師を通して示し、おっしゃったことをいつまでたってもやらなかったり、牧師に不信感を抱き、神の家族を裁いているなら、そのまいたものを自分自身に刈り取っていくことになります。教会内での問題(人間関係)で群れを出る羊はいますが、それによって、イエス様への信仰までなくす、聖書を読まなくなる、雑に扱える、捨てれるという行為に至れるのであれば、そもそも本人に真の信仰は育っていたのか・・・自分自身を救ってくださったイエス様、聖書には何の罪もなく、たとえ一人になってもイエス様とだけは離れられない体験、しるしと奇跡が伴ってきたはずです。少なくともぶどうの木で学んでいた羊たちはそうであり、それさえもなかったことにして忘れてしまっている、裁きのパン種が膨らんでしまっているのであれば、完全にサタンに自分自身を明け渡してしまっている状態であると語られました。

 

私たちは、いつもイエス・キリストを思い、見えるものに一時的に目を留めるのではなく、見えないものに目を向けることのできる特権を頂いています。特に、人や自然、物を使って盗み、殺し、滅ぼすサタン、悪霊の存在を知り、戦って追い出せることは自分自身(や周りの人)を解放に至らせ、患難だと思えることも、神の訓練であると分かるようになります。それによって忍耐、錬達、希望が生まれていきます。聖霊によって神の愛が心に注がれているのであれば、聖霊に満たされている人間・クリスチャンはこの世で最も強いと言えます。どれだけこの世で変人扱いされ、迫害を受けようと動じません。神の目から見たら光っている存在であり、自分を明け渡しているなら、自分の内におられるイエス様と聖霊様が相手をとらえます。

今週の集会の中で、私たちはN姉妹の証を通して福音の姿勢、仕方を再度学ぶことができました。N姉妹は、人との出会いは、どんな場であっても福音を知らせる機会であるという意識をもち、目の前に置かれた人は偶然はなく神が送ってくださった人だと信じ、何とかして幾人かを救うために自分の時間を捧げ、語ってきました。

この世の人は、自分の肉で何とか乗り越えてきた人ばかりで、今だけ、金だけ、自分だけの生き方でたくさんつまずき、傷付いています。身近に自分の気持ちを話せる人がおらず、家族であっても、心配かけたくないと遠慮して、本音で話ができません。そんな人たちの話をしっかりと聞いてあげること、うまく気持ちを引き出してあげること、そして、相手が囚われているのは悪霊であり、盗み、殺し、滅ぼすサタンのやり方を分かりやすく伝えてあげることが、相手にとっての福音=グッドニュースになっていき、解放に至らせるのだと語られました。

 

【しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。】(ローマ10:14~15)と書かれてある通りです赤薔薇

 

これを自分の力でやろうとするなら、“ちゃんと語れるかな、救いに導けるかな、相手から迫害されたらどうしよう・・・”という強迫観念に囚われていきますし、相手が解放されたり、救われたら、“私ってすごい!”と高ぶり、イエス様ではなく自分に栄光を帰すことになるでしょう。聖霊によって、神の愛が心に注がれているからできたこと、主にあってできた事なのだと常に言える自分、そのような姿勢が大切であると改めて語られました。

 

牧師は北海道旅行のお土産として、もう一つ、北海道の有名菓子店の「ひとつ鍋」という最中を買ってきてくださいました。神の家族は、ひとつの鍋から同じ霊の糧を頂き、成長していきます。助け合い、励まし合い、愛し合って力を得、福音宣教に出て行きます。自分たちが生かされている意味は、福音を宣べ伝えるため!聖書の学びを自分の身にして、置かれた場所で神の栄光をあらわしているなら、神に喜ばれ、人に受け入れられていきます。決して宗教信者だと嫌悪されませんし、自分自身も宗教を信じている感覚にはならず、人間にとって生きていく上で最も必要な人としての在り方を神ご自身から直接学んでいるのだという誇りになっていくでしょう!そして、神への感謝が満ち溢れ、爆発的な喜びに満たされるびっくりマークそれがこの世で勝利と祝福を得ていくクリスチャンの姿、歩みであると語られました。

 

今日3月11日は、東日本大震災から13年目となる日です。まさに、当時は何が起こるか分からない世の中であること、盗み、殺し、滅ぼすサタンの支配下であることを思い知らされました。牧師の母教会の牧師は、よく「いいですか!今、震度10の地震が起きたらあなたたちが大事にしてきた持ち物、家、車、財産、学校、会社、何一つ残りませんよ!今まで生活していた全てのものがなくなりますよ!山も川もなくなります。自分の命さえもどうなるか分からない状況で、これだけは、あれだけはと思うものがあるなら、あなたはそれを握っているのです」と言っていたそうです。そのメッセージを聞くたび、思い出すたびに、牧師はさらに啓示として、星と月しかない真っ暗闇の中で、母教会の牧師と肩を並べて高い山の上に座り、地上を見下ろして、築き上げてきたものも、明日の予定も、未来の夢も全てなくなることがどれだけむなしいものかを実感している場面を何度も見せられてきたそうです。だからこそ、とにかく主と共にあれ!見えないものこそ永遠であり、神の国と神の義とを求めていく生き方こそが重要であると語られたそうです。

 

ルカ12:16~21本

そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

 

ヤコブ4:13~17本

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。

 

アーメン宝石紫

 

また、牧師にはずっと忘れられない夢の啓示があるそうです。その夢の内容は、「人ひとりが立てるほどの30センチ四方の岩に、自分一人が立っていると、大きな地震、津波がきたのか、周りがくずれはじめる。しかし、自分の立っている場所だけは強固で平らのまま、波も火も襲ってこないし、入ってこない。周りはどんどん流されて行き、自分の家族はどうなっているだろうかと思うが、救いたくても手出しできない。」というものでした。牧師は、この唯一の夢の啓示を通して、それが自分とイエス様の信仰、神に守られるという事であるのだと学んだそうです。神に信頼する者は、決して害を受けません。イエス様の守り、血の線が引かれている場所に、悪しき者も災害も近づくことはできません。そして、いくら自分の力で周りを救い出そうと思っても、究極、救えるのは自分だけであり、それもイエス様に救われ繋がっているからこその事であり、神との関係はどこまでも個人的なものであると語られたそうです。

夢の啓示は神が与えてくださるものでもありますが、夢の啓示ばかりに傾倒していき、御言葉なしに、夢の内容からアドバイスしたり、人を訓戒していくなら、カルトになっていく危険性があります。例えば、教会の中で、「あなたの髪の毛が全部へびになっている夢を見せられた」という人がおり、本人には何の心当たりもないところで、一方的に訓戒を受けるなら、それは神ではなく、偽預言者、サタンに誘導されているのだと語られました。

 

エレミヤ23:32本

主は仰せられる、見よ、わたしは偽りの夢を預言する者の敵となる。彼らはそれを語り、またその偽りと大言をもってわたしの民を惑わす。わたしが彼らをつかわしたのではなく、また彼らに命じたのでもない。それで彼らはこの民にすこしも益にならないと、主は言われる。

 

アーメン宝石ブルー

 

私たちは牧師の話を聞いて、自分自身は一体どんな信仰の土台の上に立っているのか吟味しました。東日本大震災は、今の時点で人口削減計画(約80億人いる世界人口を5億人にして、悪魔に心を売り渡した一部の人間の奴隷にする計画)の中の、人工地震であったこと、意図的に起こされた地震であったことが周知されています。そして、本当は東京に起こすはずが失敗したということ、地震、津波、台風などの自然災害は気象兵器として闇側の人間たちに用いられてきたことが発覚しています。まさに、悪しきはかりごとをする者たちによって、いつ何が起きてもおかしくありません。

コロナ禍があり、コロナワクチン接種も行われましたが、ここに来てついにコロナワクチンの危険性、死亡者数が公に知らされる世の中になってきました。国民を騙し、国民の8割に打たせることができたからです。

体の不調や、生活困難、社会復帰できないほどの病状、また、身内の死や、芸能界で相次ぐ死、ひっきりなしにサイレンを鳴らして走る救急車・・・京都大学名誉教授の福島氏の新型コロナワクチン後遺症の調査結果の記事下矢印を読んだだけでも、ワクチンが原因ではないかという心当たりがあるのではないでしょうか。

すでにファイザー社は、コロナワクチン副作用として、癌ウイルスが大量に含まれているワクチン接種によって自己免疫機能が低下し、発病するターボ癌(見つけた時にはステージ4まで進行している)、心筋炎・心膜炎、帯状疱疹、記憶力・集中力低下、口腔内カンジダ症、梅毒、血栓、月経異常、倦怠感、脱毛、めまい、蕁麻疹、肝障害、頭痛、胸痛、長引く咳、視力低下、聴覚異常、睡眠障害、流産死産、脳梗塞、顔面麻痺、歩行困難、脊髄炎、四肢しびれ、アトピー性皮膚炎の増悪、自己免疫疾患、精神疾患など、1291種類もの病名、症状を発表しています。

また、政府側から内部告発者も出てきて、日本国民の命を闇のワクチン治験に売り渡した悪徳医師がいること、それが厚労省医系技官であり、国立感染症センターのセンター長であることも、暴露されています。もともと製薬会社は薬の資料を添付して提出するのですが、薬を作った人が、認可する側には関われないというルールがあるそうです。(以前は関われたのでルールが変更されての今)しかしこの医系技官は、今回のコロナにおいて、日本で認可された薬の全てのデータに関わり、認可側にも最後までいたことが議事録を通して発覚しています。製薬会社とのずぶずぶの関係の中で、国民は治験、人体実験されてきて、超過死亡者数が40万人を超えているのです。

 

 

 

 

今回牧師が北海道で出会い、コロナワクチン後遺症のチラシを渡した人たちは、ワクチンの危険性に目覚めている人が多かったそうです。宿泊したホテルの従業員は、前日にコロナワクチン後遺症で歩けなくなった人の話をニュースで見ており、「系列ホテルの全従業員で目を通し、勉強させていただきます」と言って快く受け取り、食事をしたレストランのソムリエは、世界を見ていることもあり、「このワクチンは最初からおかしい、危ないなと思っていました」と言い、タクシーの運転手も、「危ないと思って、私は打っていません」と言ったそうです。国民を守るために立ち上がり、声を上げ続けてきた医師や国会議員、ジャーナリスト、専門家の方々の労苦が実を結んでいる今であると感じます。と同時に、ワクチンを打ってからその危険に気づいた人たちには衝撃的事実も多く、クリスチャンとしてはますますイエス様に救われ、イエス様の血による解毒方法が一番力があることを伝えていかなければならないと痛感しています。ぶどうの木には、ワクチン接種後に救われ、導かれてきた羊たちもいますが、真実を知らされても動揺することなく、神の守りの内に平安に、健康に過ごすことができています。逆に、神の守り、イエス様の血の守りから出て行ってしまえば、その保障はありません。

 

本当に明日の命も分からない世の中です。サタン・悪霊は昼夜動き回っては、無差別に人間の命を狙い、奪っています。私たちは命あってこそ、夢を持つことができ、大志を抱くことができます。「命あっての物種」であることをいつも心に留め、与えられた命をどのように使うのか、誰のために、何のために、命の時間を費やすのかをイエス様にしっかりと聞いて生きていかなければならないと語られました。

【わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。】

永遠の命を授けてくださったイエス様に感謝を捧げて今週も歩み、傷付いてきた魂、サタンに囚われている魂のために働きます!!

 

詩篇1篇本

悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

 

アーメン!まじかるクラウン