自身の意識改革 | ぶどうの木 Good News

自身の意識改革

holygirlですニコニコ

 

毎週日曜日に集会に参加している私たちですが、その目的が“責任感”になっていないか・・・今週の集会では、それではどんどん苦しくなっていき、霊で受けたみことばやメッセージが自分の身にはなっていかないのだと語られました。

娘の精神崩壊からの自殺未遂がきっかけで娘と共に救われたA姉妹は、次のように証言してくれました。

 

「娘を理解するために学び始めた聖書が、いつしか良識のための学びとなり、なるほど・・・聖書は時代はそう読み解くのか!人間の情が霊の世界ではそう語られるのか!と知見を広めることの方に興味を持って行かれていた時期があったなぁと過去を吟味しました。というより、娘の保護者としての“集会参加への責任”から、良識の学びをモチベーションにすり替え、肉で持ち堪えていたか?と当時を振り返りました。人知を遥かに超えた神のメッセージを頭に戻し、神の力を小さくしていましたね。それで、最後は自分の力で何とかするしかない、という発想に至っていたのだろうと当時を悔い、改めます。」

 

集会は、責任感や義理で参加する場ではありません。誰かのためではなく、自分自身の救いのため。自分自身が神のみことばの力によって変えられていくために、集会での学びがあり、さらに、月曜日から土曜日まではそれを実践する場にしていくことが求められます。ぶどうの木では、神の栄光をあらわして生きるために必要な、みことばに基づいた良識、神の目から見た常識以外にも、今や隠されてきたこの世の闇を聖霊によって知り、学んでいますが、それをただ「良い話を聞いた」「知りたかったことを知れて良かった」と受けて終わっているだけでは、いざ自分の身にサタンの攻撃(神がサタンに許しての訓練)が来ても、みことば=イエス様に頼るのではなく、自分の頭で考え、自分の力で何とかするしかないと思ってしまいます。

 

そして、コリント人への第1の手紙1章18節~21節に、【十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。】と書かれてある通り、この世の知者の知恵が入ってくると、神の目から見た裁き、妬み、憎しみ、高ぶりが分からなくなり、自分の過ちに対しても素直に認められなくなってしまいます。公明正大に謝罪ができなくなり、狡さがまかり通っている政治家の姿からもよく解ります。

「おっしゃる通りです」「異論はありません」とは言えても、「私が悪かったです。申し訳ありませんでした」と言えない・・・思いっきり高ぶって弁明し続け、「私は悪くない!」と言い張っていたと思ったら、突然土下座をして平謝りをする・・・もしくは、簡単に「ごめんなさい」と言うけれど、すぐに開き直って、「謝れと言われたから謝ったが、もう済んでしまったことに対してどうすれば良いんだ!」と怒り出す・・・どれも、人間関係の中で見られるものです。

高ぶりと自己憐憫は背中合わせです。指摘を受けた時に、すぐに嘘をついて、自己正当化するための弁明をしていた人が、次の瞬間土下座して、「私が悪かったです!すみませんでした!」と謝り出す姿はそれを分かりやすく教えてくれています。完全にサタンの支配下で高ぶりの霊と自己憐憫の霊に操られているという事であり、こういう霊の世界が分かるようになるのが、イエス様、聖霊の力です。それゆえ、「なんだあの人は!」と血肉で見て裁いて終わることはありません。相手を捕える高ぶりの霊と自己憐憫の霊を追い出すのがクリスチャンです。

 

しかし、クリスチャンであっても、この世との交わりによって霊性が狂わされていくと、自分自身のことについては分からない、見えなくなる事があります。完全に霊が汚されてしまうと、「それは〇〇姉妹を裁いていますよ!」と牧師や兄弟姉妹が教えても、「裁いていない!」と言い続けます。この世に深入りしすぎて、霊の自由がなくなり、「こういう時は、常識的にこうするべき!」というこの世の律法に囚われてしまったら、「私は裁いているのではない!常識を教えているだけ!」と思い込み、「私だけじゃない!この世の人も私と同じ意見だ!」と自己正当化してしまいます。しかし、いくらこの世の常識を並べ立てても、神の基準から物事を見た時、「あなたは神の御心を分かっていない。あなたは〇〇さんを裁いていることをまず悔い改めなければならない」と言われることは多々あります。みことばがそれを教えています。

 

マタイ7:1~5本

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

 

アーメン宝石ブルー

ピュアな霊がどんどん汚染され、人を裁いていることが分からない、気づけない、さらに、周りに指摘されてもまだ反発し認められないのであれば重症です。裁きの霊は霊力ですから、自分の内にあっても自分の頭で納得できるもの、意識できるものではありません。いくらでも「裁いていない」と肉で自己正当化できてしまうものだからこそ、霊を見分けることのできる牧師が、発言の仕方、目つき、態度などから、内にある蛇を察知し、指摘してくださる事で気づくこともあります。指摘されたら、まず自分自身が神の御前にへりくだって、自分の内にある悪、裁き、憎しみ、妬み、高ぶりといった感情があることを認めることです。神を知っているから、神の御前にへりくだることができるのであって、神を知らない人にはそれができません。神と繋がっている事の恵みは、自分自身の過ちに気付き、速やかに悔い改めて、清い自分に戻れることなのだと語られました。

 

また、人に意見を求められた時に、聖書・みことばに基づいた発言ができているのか、集会での学びを霊⇒魂⇒体へとあらわすことができているのかも、今週の集会では問われました。「あなたの考えを聞かせてください」と尋ねられた時、ただ自分の意見を言い表すだけの器に成り下がっているなら、私たちはこの世に対して影響を与えることはできず、神の教え・福音を宣べ伝える者になっていけません。結局、自分の内にイエス様がおられても自分の肉の思い・意見がしゃしゃり出ている人間は、クリスチャン=キリストに似た者とは言えないのです。

 

先週の集会・ブログで話にあがったロシアのプーチン大統領とタッカー・カールソン氏の対談を、今やキリスト者の代表と言われるO氏が、様々なユーチューバーの動画に出演して解説しています。しかし、その解説は対談した二人のカシラであるイエス・キリストから人々を散らす側に使われていると私たちは感じています。

O氏自身はもともとプロテスタントで、父親もプロテスタントのクリスチャンだったそうですが、「プロテスタントは排他的である」と批判しています。O氏は、キリスト教という枠組みの中で、プロテスタントとカトリックは宗教戦争をしてきたし、キリスト教は他の宗教と戦争ばかりしていると言っています。「宗教は表面的に良いことを言っているが、戦争ばかりやっているという批判はその通りである。その原因は、自分たちの教え、自分たちの神様だけが正しいという考え方にある。キリスト教はイエスという神様で一緒だけど、その解釈で違っていて、殺し合いまでしている。その中で、ロシア正教の信仰があるプーチン大統領は、他のキリスト教と違う。ロシア正教はカトリックでもプロテスタントでもなく、ギリシャ正教から広がっていったもの。キリスト教の教義の中にあるのは贖罪説(人間は生まれた時から罪を持っているが、その原罪をイエスの十字架があがなってくださった)。だから、イエスを受け入れることによって、あなたが持っていた原罪は消える。これがキリスト教の根幹。これを突き詰めると、人間は生まれた時からものすごく悪い者で、イエスの信仰によってマイナス100を0に戻すという感じがある。しかし、ロシア正教は、0に戻すのではなく、神に近づきましょう!プラスにしていこう!という発展的な教えである。それがあるだけで、他の宗教に対して、寛容になる」と。

対談の中で、プーチン大統領は、「イスラム教や仏教など、他宗教も受け入れていく」と発言しましたが、O氏は、「今のロシアはキリスト教国家でありながら、他の宗教を受け入れ、差別していない。同じキリスト教でもこういう寛容な宗教が大きくなるっていうのが、世界史的な転換点になるのかもしれない」と解説しています。

O氏の話を聞く相手は、もともと仏教や神道を信じる人たちですから、O氏の発言は彼らに受け入れられ、その通りだ!それが正しい!原罪を抱え、罪と言われて抑圧されるのはおかしい!イエスを信じなければ罪が取り除かれないなんておかしい!人間はもっと自由ではないか!人間はもっと良いものだ!プロテスタントは排他的だ!という、プロテスタントへの迫害の流れに使われています。

 

O氏は神学を学んできたキリスト者の代表とされていますが、聖書を通して神の御心を知った者・真のクリスチャンが、サタンがつくり、サタンに使われている宗教と一致できないのは当然のことです。愛情、情欲、偽善がカシラになっている宗教を信じる者同士は、手を取り合って祈ることができても(それが新世界秩序の流れ)、神のみことばを信じ、神に従っているクリスチャンは、一線を引きます。神がカシラですから、神が良しとされることを行い、神に忌み嫌われること・罪とされることは行いません。ですから、私たちは、プーチン大統領が、「他宗教を受け入れる」と発言したことに対しては、引っかかっていました。しかし、改めて、彼の対談の発言を聞いていった牧師は、カールソン氏が「世界は神の導きによってここまで来たと思いますか?神が一つ一つ介入してきたと思いますか?」という意図で聞いた質問に対して、プーチン大統領が、「そうは思わない。神は宇宙、自然をつくり、その中で、人間に好きなようにさせてきた。神が植えていないものは抜き取られ、良しとされてきたものは残ってきた」というような答え方をした時に、プーチン大統領の「他の宗教を受け入れる」という発言の裏には、他宗教も受け入れていくなら、やがて彼らはロシアという国の中で、キリスト者になっていくという信仰があるのではないかと語られたそうです。

福音のためならどんな事でもし、一人でも多くの魂を救い、クリスチャンにするのは、神に与えられたキリスト者の務めです。プーチン大統領がその土台に立ってした発言であるならば、神はそれを成し遂げさせて下さるでしょう!O氏も、真のキリスト者であるならば、この二人の対談をもっと福音に生かして語ることができるでしょうが、注目されていることで高ぶりの霊が動けば、我こそは!の自分の意見しか出て来ず、神の御前では「あなたを知らない!」と言われる者、忌み嫌われる者になっています。「こんな事を言ったら、プロテスタントのクリスチャンが怒るかもしれないけど・・・」と前置きの言葉を言うO氏の霊は神の子であり、イエス様が彼の内におられると信じ、私たちはこれ以上彼が罪を犯すことのないよう、とりなし祈ります。

 

改めてO氏を通しても、人に意見を求められた時に、私たちは神の言葉をまっすぐ語ることのできる器でなければならないと語られました。神と繋がっていることの恵み、神から心が離れることの恐ろしさ、どちらも体験しているならば、神を畏れ、神に感謝して、みことばに従ってはっきりモノを言うことができるでしょう。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いです。私たちがみことばに基づいて語るなら、周りが人間の知恵と力でどれだけ対抗しようとしても、決して勝ることはできません。それが霊⇒魂⇒体にみことばを連動させて生きている器、クリスチャンがあらわす栄光の姿であるのだと語られました。

 

そして、そのような器になれていないのなら、「古いパン種を取り除きなさい」とイエス様はおっしゃいます。

 

第1コリント5:6~8本

あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

 

アーメン宝石赤

救われる前にふくらませて生きてきた古いパン種、自分の意見、やり方、考え方といった悪意と邪悪のパン種は全て取り除いて、イエス様の御前に、純粋で真実な器として自分自身を捧げるためにも、みことばによって徹底的にパン種を打ち叩いていくのがクリスチャンです。集会で、打ち叩き方を学び、実際に兄弟姉妹からも証を聞いて、理解し、励まされて力を得、日常生活の様々な場面で忌み嫌って打ち叩く・・・その繰り返しによって、霊から魂、体へのパイプがお掃除されてスムーズにみことばが流れるようになり、救われる前とは180度違う自分=神に喜ばれる器へと変えられていくのだと語られました。

そして、自分の霊性を清く保つためには、クリスチャン同士の交わりにも気をつけなければならないと語られました。

 

第1コリント5:9~13本

わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。

 

アーメン宝石紫

この世の人と交わってはならない、たとえ家族であっても未信者であるなら会話してはならないと教える牧師がいますが、それでは福音もできません。もちろん進んで不品行な者とたちと交際して自分を汚すことになるなら、遠ざかった方が良いですが、要は自分自身がその場で、また相手に対して影響を与えられるかどうかが大事であると語られました。そして、このみことばが教えているのは、兄弟姉妹と呼ばれる人で、真理の教えに反した行いをしている人がいるなら、警戒し交際しない方が良いという事です。私たちはクリスチャンになると、健康面、経済的、社会的に、祝福が伴うと教えられてきましたが、持病を抱え、貧困が美徳であり、社会的に評価されているとは言えないクリスチャンもいます。また、有名になりたい!という願望をもち、この世での地位、名誉を求めているクリスチャンもいます。彼らと交わると、神の力はどこにあるのか、サタンの支配下であるこの世で、悪霊に対して敗北していないかと思わされることが多々あります。健康面、経済的、社会的祝福、この世での地位、名誉は自ら努力して取りに行かなくても、みことばに素直に、正直に、誠実であれば神が添えて与えてくださるものです。クリスチャンと言いながら、人から非難されたり、軽んじられるような生き方をしてはなりませんし、そのようなクリスチャンと交わることで、自分自身の評価を下げ、霊性を汚すことのないように気をつけなければならないと語られました。

 

最後に、先週牧師が7回目のメタトロンを受けて、潰瘍性大腸炎がメタトロン上でも完治された事が証明されたことで、霊⇒魂⇒体の教えは、霊的なことだけではなく、肉的にも神が与えてくださった食物で人間は生かされていることがはっきり解ったと証してくださいました。

イエス様に救われたら、祖父母、親の代からの病気や遺伝的なあらわれはなくなり、“個”となることができます。しかし、肉にあるものはパン種として残ります。特に今回語られたのは食べ物に対する好き嫌いというパン種についてでした。このパン種は、食材をどのように調理し提供してきたかという、親の努力・しつけの怠りによって生まれるパン種です。子どもが一口食べて「嫌い!おいしくない!」と言った時に、「この子にこれを出すのはもうやめよう」と諦め、嫌いなままにしておくのか、それとも、調理の仕方を工夫し、「これを食べたら体が元気になるんだよ!」「丈夫な骨ができるよ!」など子どもに食べる意欲を与える言葉かけをして、絶対に食べさせるかで、将来の子どもの体は大きく変わっていきます。どんなものでも、「好き」とまでは言えなくても、食べれるレベルにまでしてあげることは親の責任です。そうでなければ、社会や世界に出て困るのは我が子であると同時に、親も恥をかきます。

神は人間の体に必要なものとして、様々な食材を作ってくださいました。ぶどうの木に導かれてきた若者たちは、まず牧師を通して、偏食をなくすよう躾られてきました。食べ物に対する好き嫌いを言う羊は、霊的にみことばに対しても「このみことばは好きだけど、このみことばは受け入れられない」と言うようになるからです。みことばを学んだら、まず何事にも感謝することを教えられます。ならば、好き嫌いは言えませんし、選り好みをすることもできません。神がつくってくださったものへの感謝をもって、何でも食べる。みことばを霊に頂くように、肉(体)にも神が下さった食物を頂く。それによって、健康な体を維持し、魂がしっかりと機能し、クリスチャンとしての栄光をあらわしていくことができるのです。

 

インスタント食品ばかり食べていたらキレやすくなったり、甘いものばかり食べていたら鬱になることや、霊的に、糖尿病になる人は自分に甘いとも教えられてきました。さらに、ぶどうの木牧師の場合は、羊のカウンセリングをしていると、朝方に寝ることも多く、1日に2食しか取らない生活になっていたのですが、2食では、食べ物(糖分)が体に入ってきた時に急激にインシュリンが出て、血糖値が必ず下がりすぎてしまい、次にそれを上げようとしてグルカゴンという発がん性物質が出てきてしまうと言われました。2回だけでは体への負担(内臓への破壊の力)が大きくなるため、目覚めた時にスプーン1杯のごはんでも良いから(その後二度寝しても良いから)、1日3食取ること、そして、引き続き甘いものを食べることを控えるよう今回のメタトロンの診察ですすめられたそうです。牧師に対しては、徹底的に生活基盤を改善するよう神がおっしゃったのです。

また、牧師は今回のメタトロンの感情面で、<悲嘆、心配、喪失感>という感情が並んだそうですが、これは膵臓から来ているもので、膵臓は、血糖やインシュリンに関わる臓器だそうです。今回なぜこのような感情が並んだのか、牧師自身心当たりがなく驚いたそうですが、甘いものを食べなければなくなる感情であると言え、日常の意識改革は臓器にも直結するのだと教えられたそうです。

牧師自身は、聖霊の導きで行ったメタトロンで最終的に語られたことを通して、自身の古いパン種が取り除かれて完全に一新された!イエス様が教えてくださった!と確信できたそうです。メタトロンも、カルトと思って疑って受けたら何の意味もなく、波動治療も全然回復しないそうで、やはり何事も信仰で、神が与えて下さったものであると感謝して受ける時に、霊魂体に変化があらわれるのだと語られました。

 

つまり、何事も自分の意識改革が必要です。「別に好きなものだけ食べて早死にしてもかまわない」「もう80歳だから、あとは好きなものだけを食べて死にたい!」と言うのも、生きることに対する自分の意見です。意識を変えたら、魂(心)も身体も変わります。考え方、発言、とっさの振る舞いも変わります。いつも喜び、感謝し、その感謝が満ち溢れるなら、神の栄光となります。肉においては、朝昼夜と、しっかりと栄養バランスと自分の体に必要な食材は何かを考え(メタトロンでは一人一人の体に合う食材も違います)、自然界にあるものから食材をそろえて食事をつくることで、異常な変化を体に起こさないようにすることができます。私たちはみことばを霊に頂くのと同じ考えで、自分(日本人)の腸(体)に合わせた食事を感謝して頂くことが大切であると語られました。

 

飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のため!神に用いられる器とますますなっていくために、一人一人が古いパン種、神に忌み嫌われる肉の習性を完全に捨て去って、意識改革する一週間となったことを感謝して祈りますグー炎キラキラ