みことばが教えている神の御心とは?行いとは? | ぶどうの木 Good News

みことばが教えている神の御心とは?行いとは?

holygirlですニコニコ

 

私たちは今週の集会で、みことばにある神の御心をどれだけ理解して行なえているか問われましたひらめき電球

【両親に従う】とは、今の自分にとってどうすることなのか?

【許しなさい】【無条件のゆるし】と教えられるけど、どうやったら許せるのか?どうなることが、本当に許していると言えるのか?

【愛し合う】とはどうすることなのか?許せない家族に対して、どうしたら愛し合えるのか?

ずっと語られてきたように、ただみことばを宣言していたらできるようになるわけではありませんし、みことばに書かれてあるからと言って、魂を飛び越えて、霊⇒体へ、魂を殺して何も考えずに従っているのなら、偽善でありカルトにもなっていきます。また、他者、特に未信者に対して、「〇〇と書かれてあるでしょ!」「聖書は〇〇と教えているから私はそれに従う!」とみことばを突き付けて言っているだけでは、相手は受け入れられず、イエス・キリスト、聖書の教えに対してつまずきを与えてしまいます。上っ面だけの行いでは、真の解決方法はありません。

 

では、どうすれば良いのかひらめき電球私たちはピリピ人への手紙3章~4章に書かれてあるみことばを通して教えられました。

 

ピリピ3:17~4:7本

兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。

わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 

アーメン宝石赤

パウロは、ユウオデヤとスントケに、【主にあって一つ思いになってほしい。】と勧めました。そして、それは真実な協力者として、福音のために自分と戦ってくれた二人の女を助けてあげることであると、具体的に教えました。また、肉では到底喜べないこともあることを知っていたパウロは、【主にあっていつも喜びなさい】と教えました。つまり、イエス様が内におられ、どんな時もイエス様が共におられることに対して喜ぶのです。さらに、私たちが求めるところを神に申し上げるなら、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、キリスト・イエスにあって【守るであろう】と教えてくれています。ここで注意すべき点は、私たちが求めるところを申し上げたら【叶えられる】とは書かれていないという事です。もちろん、【祈った祈りは叶えられたと信じる】信仰も聖書は教えていますが、まず大事なのは、祈り求めたなら、その後祈った事とは真反対の状況に陥ったり、思いがけない言動を相手から受けたとしても、動揺することなく、心と思いを守り続けるという事です。牧師を通しては、いつでも逃げ込めるイエス様と自分の部屋を持っているかと問われました。イエス様は何とおっしゃっているかを求め、イエス様=みことばによって肉の思いから霊の思いにすぐに戻れる部屋が自分の内にあるなら、私たちはどんな時も平安でいられるのだと語られました。

 

そして、パウロは心にとめるべき事と、実行するべきことをはっきりと教えてくれています。

 

ピリピ4:8~9本

最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

 

アーメン宝石ブルー

私たちは、みことばを知るだけではなく、みことばを実践する中で、神がおっしゃること、神の御心である真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、称賛に値するものを知り、自分の身に得てきました。それらを心にとめ、学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを誰に対しても実行していかなければなりません。

例えばコロナワクチンに対しても、聖霊を教師に、聖霊の導きによって、私たちは命を奪う生物兵器であるという真実を知り、「思いやりワクチン」だからと言って打つことが愛ではなく、隣人の健康・命を守るために、自分自身が受けたこと、聞いたこと、見たこと(ワクチンの後遺症で苦しむ人々や、ワクチン接種で大切な人を失った遺族の姿)を伝えるという事が隣人を愛することであると信じ、実行してきました。

また、学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなければ、人は救われませんし、証も生まれません。礼拝に参加し、「今日も良い話を聞いた」という感想どまりではダメですし、そもそも実践できるように、「このみことばは、このようにすることである」と具体例を挙げて牧師が説教していなければ、信徒はいつまでたっても、みことばの実践には至りません。

 

例えば、ある姉妹が大学進学を考えていた時に、牧師は【子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母を敬え』これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう』。】(エペソ6:1~3)を与え、この御言葉をもって、まずは両親を敬い、従うようにとおっしゃいました。その言葉を聞いた当時の姉妹は、親と口をきかず、会話をすれば「死ねばいいのに」と言ってしまうほど嫌悪して反抗していた状態であったため、“無理!親を親とも思っていない私がどうやって従えばいいの?両親を敬うだなんて一生できない”と思ったのでした。しかし、高校を卒業したら働けば良いと考えていた両親の気持ちを変えなければ、大学進学は到底叶わない状況でした。イエス様は牧師を通し「まずはこれまでの自分の態度を両親へ謝り、その上で自分の大学へ行きたい思い・誠意をしっかり伝えてごらん」とおっしゃいました。【両親に従う。父と母を敬う】とは実際にどのようなことなのか、聖霊の賜物である《知恵の言葉》によって教えてくださったのです。
この《知恵の言葉》により、“御言葉の言っていることは分かるけど、できない”と思っていた姉妹は、魂(心・知性)でも分かるようになり、一切迷うことなくすんなりと言われたことを主にあって行動に移すことができるようになりました。今まで絶対に両親へ謝ったことがなかった姉妹が、心から謝り、純真な心で自分がどうして大学へ行きたいのかを伝えた時、その変化に驚いた両親の心が変えられ、大学への進学、さらに一人暮らしを許可してもらうことができたのです。

 

また、【無条件のゆるし】とはどこまでする事なのかも、齊藤諒兄弟の証を紹介するトラクト「生きる力、赦す力」を読めば分かります。自分を四肢麻痺と人工呼吸器無しでは生活できない身体にした加害者を無条件で!ゆるすという事は到底できることではありません。しかし、イエス様は諒兄弟家族に、コロサイ人への手紙3章12節~14節【だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。】とおっしゃったのです。

このみことばを実践するとはどういう事なのか・・・まず諒兄弟と家族は、自分たちが聖書の学びによって一つになれた事、心が平安でいられる事、色々な苦労から解放されて元気になったことで、加害者側の苦悩も考えられるようになっていました。加害者は心労のため、若いのに髪の毛を無くし、父親も、息子の事故に対する責任を思い、自分が死んで保険金を賠償金にしようと真剣に考えていました。(自動車保険の期限切れで、加害者側からは賠償金が一銭も出ない事故でした。)そんな加害者親子を、諒兄弟家族はぶどうの木集会に誘いました。そこで、加害者親子は、悪霊の存在と、自分たちにも平等に注がれている神の愛を受け、救われました。そして、諒兄弟の母親は、“人を罪に定め、訴え続けるのは違う。事故の賠償金の裁判を一刻も早く終わらせたい”という思いを、聖書の学びを通して聖霊によって入れられ、弁護士に裁判の取りやめをお願いしました。弁護士は「頭がおかしいのではないか!」と怒ったそうですが、聖書の教えに従ったのです。

また、諒兄弟が事故に遭った直後、加害者の祖父(84歳)も病院に見舞いに来てくれたのですが、諒兄弟の母親は「顔も見たくない!」と追い返してしまい、聖書から無条件のゆるしを学ぶ中で、悪い事をしてしまったと、ずっと心に引きずっていました。そんな母親に、イエス様は和解の機会を与えてくださり、ある日の集会に加害者の祖父が来た際に、直接謝罪することができました。加害者の祖父は、「もったいない!」と涙を流し、背負っていた重荷から解放され、イエス・キリストを信じ、救われました。

ただ「許します。愛します。祝福します。尊敬します」と言っているだけではなく、実際にゆるすとはどういう事なのか、愛するとはどういう事なのかをイエス様に聞き、行いに移してこそ、本物のクリスチャンであり、真の和解が成就するのです。

 

今週の集会では、夫婦問題、特に夫婦間での経済問題が教材となり、どれだけみことばを実践できているのか、みことばの真意(どうすることが神の御心なのか)が分かっているのか問われ、一人一人が自分を吟味することになりました。

ぶどうの木では、聖書を土台とした家族のあり方を学んできましたが、それはこの世の今や常識?となっている考え方からすれば、「古い」と言われてしまうものです。例えば、男性は外に出て働き、妻子を養う責任があり、女性は家庭を第一に守り、子どもをりっぱに神の子として育てていくという聖書の教え一つとっても、女性の社会進出が当たり前の今の世の中では、「共働きが当たり前!女性が専業主婦になるなんて古い」「夫の給料が安くて、共働きしなければ食べていけない。老後の年金暮らしに備えて、少しでも多く貯金しておかなければ!」と反発を受けます。働く母親のために、保育園の無償化がすすみ、結果、働いていない母親も子供をあずけられるようになったことで母子関係が希薄となり、精神が安定しない子どもたちが増えています。

また、昔は専業主婦が当たり前でしたから、夫の稼ぎで家計は成り立ち、夫婦で一つの通帳を管理していましたが、共働きの今では、結婚しても家計(通帳)を一つにするのではなく、光熱費とローンは夫の口座から引き落とされ、食費は妻の口座から出すというように、それぞれが自分の財布から支払っている夫婦が少なくありません。その中で、「俺のお金」、「私のお金」という言葉が夫婦の中でも生まれ、「この費用はどっちが出す?」「これは私のお金で出すよ」という会話が当たり前であったり、「お前の口座はお金がたまっていて、俺の口座からばかり引き落とされるのは不平等だ」という不満がでてきて揉めるケースもあります。

女性が専業主婦として、家庭を守っていきたい!子育てに専念したい!という気持ちは軽んじられ、それを理解できる男性も少なくなってきています。実際、ぶどうの木で学び始めた姉妹たちが、「女性が家庭を守るなら、その祝福を受けるのは一家の長であるという真理に従いたいから、仕事を辞めたい」と話しても、「どうやって生活していくんだ!?」と反対されてきました。また、「俺のお金」という感覚があるご主人であれば、「俺のお金を俺が自由に使って何が悪い!俺の金をあてにするな!」という言葉が飛び出し、夫の自由に使わせていたら、家計は成り立たず、経済的不満から揉めます。お金の使い方がケチだったり、逆に浪費癖がある相手であれば、価値観が合わず、夫婦関係にひびがはいっていきます。

救われる前は上手く行っていた夫婦関係が、夫婦のどちらかが救われ、目覚めると、霊の自分と肉の人である相手の考え方が一致しなくなるのは当然であり、誰もが通ることです。そこから相手も神側に来れるように救い出す神の訓練が始まるわけですが、情にまかれ、自分の思っていることを話したくても相手の言動に圧迫されて伝えられなかったり、すでに何を言っても分かってもらえないという諦めが先行してしまっていると、訓練の途中で、「もう無理!こんなに頑な人だとは思わなかった!この人と一生一緒にはいられない!離婚したい!」と爆発してしまうことはよくある話です。

 

今週も、2人の姉妹たちがそのような状態になり、経緯を詳しく聞くこととなりました。その話を聞いていた牧師は、「諦めたら終わりですよ!“うちの主人はこういう人”と値踏みしすぎ!人と比べ、占い、自分の暮らしの水準を握っているでしょ?自分の主張をせずに、とことん付き合い、落ちるところまで一緒に落ちる覚悟はないですか?『俺のお金』と言って自由に使うご主人なら、『分かりました!どうぞ自由に使ってください。でも、あなたは一家の長で、家族を養っていく責任がありますからね!』と言って、主人を信じ、自分自身はイエス様を仰ぎ見て、必ず主がかえりみて下さるという信仰はないですか?それが、自分のプライドというものをずたずたにされ、【チリのようにくずのようにされる】訓練ですし、自分の生活をかえりみずに、全てを捧げて、ゆだねることが、【受けるより与える方が幸い】という事ですよ!」とおっしゃいました。

これがなかったらダメだと、守る必要のないものを守っていないか・・・そうであるなら、イエス様は「私を信頼できないのか?」とおっしゃいます。

また、相手に対して“どうせこの人は変わらない、この人に言っても分かってもらえない”とあきらめたら、そこから霊の世界は停滞し、どんどん悪にさとく、善にうとくなっていってしまいます。周りが気づいている変化に、自分は気づけず、裁きと憎しみ、落胆、孤独感に支配されていきます。

 

イエス様は、牧師を通して2つのみことばを与えて下さいましたぶどう

 

第2コリント2:8~11本

そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。

 

第2コリント4:1~18本

このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務についているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである。もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。それは、主イエスをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイエスと共によみがえらせ、そして、あなたがたと共にみまえに立たせて下さることを、知っているからである。すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

 

アーメン宝石紫

サタンの策略を知っていたら、相手の言動に腹を立てたり、落胆して、自分が何者であるかを忘れてしまうような事はありません。ゆるせないという思いは、サタンが持ってくる最たる策略です。と同時に、神もサタンを使って、私たちが全てのことに従順であるか、愛を示すことができるかどうかを試しておられます。

そして、全てのこと、夫婦の問題も、私たちの益のためにあります。人間対人間の中に愛が生まれ、愛を知り、愛を注ぎ出していけます。それが恵みです。一人でも自分のことを気にかけ、大事に思ってくれる人、何があっても一緒に生きて行く覚悟をしてくれる人をこの世の人は求めています。結局、姉妹たちのご主人もそうです。何も変わっていない、分かっていないわけではなく、姉妹たちがしてきた家庭での種まきは、その時々に、しっかりと芽を出し、花を咲かせ、実を結んできたことが、家族の証言を通して分かりました。見えるものにばかり目を注いでいたら、失望でしかないとサタンに思わされますが、私たちクリスチャンは見えないものに目を注ぎます。無条件のゆるしと無条件の愛を与え続けていくのなら、恵みがご主人にも、多くの人に増し加わっていき、一人一人に感謝が満ち溢れ、神の栄光となっていくのだと語られました。

 

改めて、【チリのようにくずのようにされる】とはどこまでの事なのか?【受けるより与える方が幸い】のみことばを、本当に行なえているのか?また、【主に仕えるように夫に仕える】という事ができていると言えるのか?【見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ】ことができているか?【立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい】と神がおっしゃるように、みことばのレベルを自分の計り、価値観で決めて、「私はできている」と思っていないか?すでにサタンの攻撃にあい倒されていないか?と問われました。「やっているのに、なぜ相手は変わらない?なぜ証が伴わない?」と思っているなら、すでに神に対して文句つぶやき、罪を犯していることになります。

神は私たちの心を見て、必ずその心に対して報いて下さるお方です。間違えたり、見過ごしたりはされません。姉妹たちが、完全にイエス様の者・キリストの花嫁となって、みことばを忠実に実践するなら、必ず相手は変わるのだと語られました。

 

ピリピ4:10~13本

さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

 

ピリピ4:17本

わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。

 

ピリピ4:19~20本

わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

 

そして、姉妹たちを励まし、霊が立つ証を、最後にA姉妹がしてくれましたピンク薔薇

A姉妹は、信仰を持ったことでご主人が大迫害者となり、離婚を突き付けてくるようになり、家に帰ってこない、自分のつくった料理に口をつけない、他の女性に気持ちが向くような状況に陥っていた時期がありました。それでも、コリント人への第2の手紙4章17節に書かれてある【このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。】というみことばを握りしめ、【しばらくの軽い患難】なのだから、いつか必ず終わる!そう信じて、目の前に起きる様々な問題を乗り越えてきたそうです。

信仰のせいで離婚を要求され、離婚調停にまで話がいき、他にも心労が重なり、群れを離れていた時期もありましたが、A姉妹はそれでも、聖霊の導きや、悪霊のやり方を実感しながら、自分の思考からイエス様がなくなることはないとはっきり分かったそうです。例えば、【主に仕えるように夫に仕える】というみことばに従い、家に帰ってくることがあれば、お茶を入れて迎える、食べないと分かりながらも料理をつくって出してきました。主人の反発的な態度に、肉では腹が立ち、「ゆるしなさい」というみことばが臨んでも、肉ではなかなかアーメンしたくないという思いもきましたが、最終的には、「アーメンです!ゆるします!」と宣言して歩む日々だったそうです。

そして、離婚をしたら自分の生活はどうなるのか・・・という心配はありましたが、サタンが主人を使って離婚を突き付けてくることはこれ以上耐えられないと思った時、自立を覚悟して、「離婚を見据えて自立を考えるから、息子の大学受験が終わるまで待って欲しい」と伝えたそうです。すると、ご主人はその後黙り、そこから、様々な形で聖霊が豊かに働き始めました。ご主人の職場環境が希望していた部署に変わったことで、単身赴任となり、その中でご主人自身の心が和らいでいきました。娘さんの精神崩壊からの自殺未遂がきっかけで救われた家族ですが、ご主人が夢で再び娘さんが自殺する姿を見せられたこと、救われた当初のことを思い出させられたことも、まさに聖霊降臨の出来事でした。神の御心に意志を向ける者には、必ず聖霊の助けが与えられるのです!A姉妹は、集会を離れている間に緑内障になり、目が見えなくなるかもしれないという恐れから、集会に戻ることになり、聖書を新たな気持ちで学び始めました。息子さんが希望の大学に合格し、巣立ってしばらく経った時、ご主人の単身赴任が終わり、家に戻ってきました。子育てを終え、悠々自適に生活していたA姉妹でしたが、ここから真剣に夫のために仕えるのだ!と決心し、向き合っていきました。ご主人のこともあり、毎週の参加は躊躇していたA姉妹でしたが、牧師を通して「A姉妹の意思だけど、目が見えなくなってもいいの?」と問われ、「そうか!」と自分がどうするべきかはっきり示され、ご主人に集会参加の意思を伝えることになりました。

ずっと集会参加を嫌がり、迫害し続けてきたご主人でしたが、A姉妹が臆することなく純真な心で、「私には聖書の学びが必要だから、集会に通い続けます」と伝えると、いとも簡単に「そうか、分かった」と受け入れてくれ、今では自分から牧師やぶどうの木の話を聞いてくるようになったそうです。娘さんが第1希望の会社に就職が内定したことも、神の力をあらわす大きな証となりました。

 

結婚して26年指輪今は結婚した当時の優しい御主人に戻り、A姉妹の手料理を楽しみに喜んで食べ、子どもたちも安心できる仲の良い夫婦関係、家族関係に戻ったそうです!乙女のトキメキA姉妹は母子家庭で育ったため、自分の母親の姿を通しても、母親が頑張ればよい!と思ってきたそうですが、今は、やはり父親が見守り、一家の柱として居てくれることが大事であり、父親がしっかりと立てるように、家族のバランスを取れるようにするのが母親・自分の役割であると気づいたと証してくれました。

約7年に渡る訓練、夫婦関係の問題はそれ以前からのものでしたが、A姉妹が握りしめてきた通り、必ず終わりが来る【しばらく】の患難でした。A姉妹の信仰通り、ピリピ人への手紙4章に書かれてある純真なことを心にとめ、純真な者となって得た勝利に、皆の霊が喜び、同じ訓練を通らされている姉妹たちの希望の光となったのですキラキラ

 

A姉妹の証を通して、「みことばに書いてあるからやる」という義務感を越えたものが自分の内から生まれてこそ本物であると語られました。ご主人に真心から仕え、集会に通い続けたいことも、素直に正直に誠実に伝えた時、聖霊は働いてくださいました。神に向き合おうとする純真さに、サタンは介入できません。

改めて牧師を通して、クリスチャンに求められるのは、真に【純真】であること、きよい心であり、その心・魂がストレートに思考回路となることが重要であると語られました。愛は自分の利益を求めない!受けるより与える方が幸い!ですハートやり遂げたら、神が心を見られ良しとされたら、祈りは必ず成就します。祈りがきかれないなら、自分を吟味です。神は何でもできるお方、その信仰を堅くもって、今週も一人一人がみことばを行なう者となれたことを感謝して祈ります!!

 

 

最後にお知らせですクローバー

今週10日土曜日から15日木曜日まで、1年ぶりに韓国の兄弟姉妹たちが来日しますニコニコ霊の交わりを楽しみにしている彼らをどのようにもてなすか、昨年末から考えてきました。皆の霊が満たされるように私自身も通訳として日々の交わりに参加することを優先するため、次の集会のブログはお休みさせていただく予定でいます。一人一人が自分自身を捧げ、互いの益となる交わりが持てたことを感謝して祈りますラブラブ