信仰とは―私たち自身が教会― | ぶどうの木 Good News

信仰とは―私たち自身が教会―

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ホセア13:4~16本

わたしはエジプトの国を出てからこのかた、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない。わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。しかし彼らは食べて飽き、飽きて、その心が高ぶり、わたしを忘れた。それゆえ、わたしは彼らに向かって、ししのようになり、ひょうのように道のかたわらに潜んでうかがう。わたしは子を取られた熊のように彼らに出会って、その胸をかきさき、その所で、ししのようにこれを食い尽し、野の獣のようにこれをかき破る。

イスラエルよ、わたしはあなたを滅ぼす。だれがあなたを助けることができよう。あなたを助けるあなたの王は今、どこにいるのか。あなたがかつて「わたしに王と君たちとを与えよ」と言ったあなたを保護すべき、すべてのつかさたちは今、どこにいるのか。わたしは怒りをもってあなたに王を与えた、また憤りをもってこれを奪い取った。エフライムの不義は包みおかれ、その罪は積みたくわえられてある。子を産む女の苦しみが彼に臨む。彼は知恵のない子である。生れる時が来ても彼は産門にあらわれない。(←どれだけ言われても聞けない。時が満ちても誰も気づかない。)

わたしは彼らを陰府の力から、あがなうことがあろうか。彼らを死から、あがなうことがあろうか。死よ、おまえの災はどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか。あわれみは、わたしの目から隠されている。

たとい彼は葦のように栄えても、東風が吹いて来る。主の風が荒野から吹き起る。これがためにその源はかれ、その泉はかわく。
それはすべての尊い物の宝庫をかすめ奪う。サマリヤはその神にそむいたので、その罪を負い、つるぎに倒れ、その幼な子は投げ砕かれ、そのはらめる女は引き裂かれる。

 

アーメン宝石緑

霊的に今の日本の状態と重なります。神を見い出せない日本人。見い出せないどころか、欲のままに生きて心が高ぶり、神の存在自体を忘れてしまっています。世界的には凄いデクラス(情報開示)が続いていますが、いまだマスコミ報道しか見ない、信じない日本人は知らないことばかり・・・仮に知らされたとしても、世の中の激震・激変に魂がついていけない日本人がたくさんいることでしょう。しかし、私たちにとっては、そんな時こそ神の愛にあって真理を語るチャンスです。溢れる思いを止めないで、洪水のように語るべきことを語れる明け渡した器でなければなりません。恐れるな!黙っているな!語り続けよ!この町には私の民が大勢いる!と神はおっしゃいます。

こんな事を言ったらどうなるか・・・相手がどう思うだろうか?と躊躇した途端、聖霊の動きを止めてしまいます。私たちはその場のどんよりした空気(霊力)を変える起爆剤なのだと語られました。その場でどんな一言を出すか、相手の言葉(悪口、思い煩い)に同調するのか、それとも、相手に聖霊が臨むような相手の益になる言葉を出すのか・・・段取り、台本を持たず、聖霊が支配しておられることを信じて、自由に霊からの思いを語れた時、私たちがいる所が“教会”となります。牧師のメッセージや証も、あらかじめ用意していたものを語る、読み上げるだけなら、それは生きたメッセージ、証とは言えません。すでに賞味期限ぎれ、死んだものです。私たちは、歩く教会、生きた言葉、生きた神を語る器にますます成っていかなければならないと語られました。

 

そして、私たちが神に喜ばれる器になるためには、神への【信仰】が必要です。人と関わって魂を救うにも、癒しを得て神の栄光をあらわすにも、【信仰】が問われます。今週の集会では、【信仰】についてたくさんのみことばを通して語られました手紙

 

救われる前、自分のやり方・自分の義で頑張り、それなりの成果を得てきた人は、信心はあっても、信仰が分かりません。例えば、体の調子が悪い時、牧師に「集会に来たら治りますから、信仰で一歩踏み出して来てください」と言われても、「そんな無理強いをするのか!?それこそカルト宗教だ!」と理解できません。この世の人、肉の人の常識では考えられないことだからです。そして、「神に祈っているのに治らない。治ったら集会に行きます」「自分の状態、状況が良くなったら信じます」と言います。

信心は気ままです。自分が信じたいことは信じ、信じたくないことは信じません。神の前で自分の要求を並べて祈ることはしても、自分自身が変わろうとはしません。そのように生きてきた日本人、特に現実問題と向き合い、身を粉にして働き、日本の発展に貢献してきた男性ほど、自分の義(男義)も強く、見えない神を信じ、そこに自分自身の全てを委ねる事ができず、なかなか【信仰】に到達できないのです。

しかし、どんな器であれ、聖書は、【さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。】と教えます。望んでいる事がらを確信するのが信仰、まだ見ていない事実を確認することが信仰です。神を信じて仰ぎ見て、一歩踏み出した時、自分の思いをはるかに超えた神のなさり方を確信し、確認することができるのです。

体の癒しも同じで、肉の状態にとどまるのではなく、「痛みや苦しみは神から来ない!」と立ち上がるなら、足止めさせていたサタンの力は弱まり、神(ドクタージーザス)のもとへ出て行った時、全ての状態から解放される癒しを受けることができます。牧師自身、何度もこの信仰の戦いを繰り返しながら、ここまで歩んできたと証してくださいました。

 

900回近く集会を行なってきた牧師は、先に書いた通り、メッセージをあらかじめ用意することもなく、その日、その場で受けた神から与えられたメッセージを洪水のように、毎週3時間半語り続けてこられました。もし、他教会の牧師のように金曜日、土曜日と、メッセージを考え、その準備に追われていたら、3回もできなかったとおっしゃいました。

1995年に救われ、1997年に聖霊のバプテスマを受けた直後に、潰瘍性大腸炎という当時10万人に一人しかならない難病宣告を受けた牧師は、27年間医学の律法にがんじがらめにされてきました。治療法がないため、ただ痛みと下痢を抑える薬が処方されるだけでした。いつ腹痛が襲い、下痢になるか分からない恐れを抱えて生きる日々でした。そんな中で、2007年9月2日にぶどうの木ができました。毎週決まった時間に外出し、3時間半、羊たちに霊の糧を与えなければなりません。玄関を出る直前まで、サタンは潰瘍性大腸炎の症状を持ってきては、行くな!語るな!と攻撃してきました。しかし、牧師の信仰は強く、その攻撃に屈することなく、死んでもかまわないと思って玄関の扉を開いて一歩踏み出します。そうすると、超自然に症状(サタン)は去り、平安の内に自分を明け渡してメッセージを語ることができました。その度に、神に生かされていることを知りました。そして帰宅すると、今度は集会で語られた内容を嫌がるサタンが、お礼参りで攻撃してくるという繰り返しでした。その後、牧師の信仰通り身になって、潰瘍性大腸炎という診断は「寛解」となりました。この世の医学において、難病に完治は無いので、また状態が出るかもしれないという理由で「寛解」(症状が一時的あるいは継続的に軽減した状態。または、見かけ上消滅した状態)という言葉が使われるのです。

牧師は自分自身が信仰による癒しを体験しているため、病に苦しむこの世の人に対してや、群れの羊たちに対しても、「イエス様に救われ、信じて生きるなら、必ず癒されます!」と宣言し、共に祈り、癒しを勝ち取ってきました。しかし、サタンは「お前はどうなんだ?寛解じゃないか!」とささやいてきては、視界をさえぎるような薄紙を目に張ってきました。

牧師は改めて、「寛解」という言葉も自分から取り除きたい!とイエス様に切に祈り求めました。そして、2年前に知ったのが、今まで食べてきたものが腸の炎症を引き起こしてきたという事、戦後の驚くべき日本の食に対する改悪の真実でした。まさにサタンの日本人に対する攻撃でした。唯一の治療法は、いともシンプルに180度食事を改善することでした。牧師はついにイエス様が明かして下さったことに感謝し、食事改善による潰瘍性大腸炎の完治の症例を数多く持っている医師のもとに行き、そこから1年間、小麦、植物油、乳製品、甘いもの、ナッツ、コーヒーを全てやめ、食品添加物を使ったものを食べないという食事改善をしました。イエス様に命じられたという【信仰】があったため、徹底的に肉を打ち叩き、やり通すことができました。

すると、昨年7月の時点で潰瘍性大腸炎の症状は、主治医も認めるほど完治していました。牧師は、主治医に、食事改善によって良くなったことを伝え、処方された薬も全てやめたいと申し出ました。しかし、主治医は「クローン病(腸だけではなく、食道から腸に至るまで潰瘍ができる。潰瘍性大腸炎よりひどい難病)は食事改善で良くなったという症例はあるが、潰瘍性大腸炎にはない。腹痛で下痢をしても、食べることにストレスを抱えるよりは、食べたいものを食べて、ずっと薬を飲んでいた方が良いじゃないか。なぜそれが嫌なのか理解できない」と言い、薬を断つことに同意しませんでした。

潰瘍性大腸炎は治ったように見えても、寛解状態でしかないから、好きなものを食べて良いとし、その分炎症を抑える薬を死ぬまで服用する治療法となっているようです。振り返れば、主治医は血液検査の結果を見て、薬を出すだけで、一度もお腹の触診をすることもなく、食事指導もありませんでした。宣告された当時に比べたら医学は発展しているはずなのに、なぜ治らない?治せない?薬漬けにするのが医学なのか?と疑問を抱いた牧師は、主治医に「対症療法をしているだけですよね?」と投げかけました。そして、主治医がサタンに使われていることが分かり、この世の医学の在り方、薬を出して医者がもうかるシステムに聖なる怒りがきて、「患者は治りたいです!勝手に薬を断つことは良くないと思い、先生の管理下で薬を断ってどうなったのか診てもらいたいのです」と話しましたが、主治医は薬を処方できないことにいら立ち、牧師は主治医に激怒されたまま診察室を退出することになったのです。

薬を処方して、医者と製薬会社が儲かる世の中です。日本は医療費に一番税金を使っている国です。アメリカの国防費よりも多い130兆円もの税金がかけられています。国民は給料が上がらず、税金ばかりとられて苦しい生活をしているのに、自分は自己負担が少ないからと言って、むやみやたらに出される薬と注射で養われている・・・薬漬けにされ、通院に対するストレスでかえって悪くなる・・・牧師はずっとその状態から解放されたいと願ってきました。主治医はせっかく難病のレッテルを貼ってもらって、医療費が安くて済むのだから、そのままにしておけばよいという考えでしたが、牧師は、きっぱりその考えを拒否し、そこからさらに【信仰】で改善した食事療法を続け、薬を全く飲まずに過ごしました。

そして、先日1月17日、年始初の定期健診で、ついに、長年の潰瘍性大腸炎からの完全勝利を頂いたのです!キラキラ主治医に改めて食事療法の詳細を報告し、処方されていた全ての薬を辞めていたと伝えると、主治医は「外来の必要性がなくなりました。こんな事は聞いた事もないし、初めてです」と認めたのです。主治医にとって牧師は治験材料にもなっていたため、牧師が「潰瘍性大腸炎は食事で治る事を先生にも証明したかったのです」と伝えると、主治医は、「そんな食事療法ができるのは貴女だけです!」と言いました。主治医に対しても長年福音してきた牧師は、「確かに。私の神への信仰です!」と答えたそうです。

男義医師の縛り、医学の律法の呪いの縛りから解放された牧師は、正真正銘、視界良好となり、ますます力強く、大胆に、神の愛と力、クリスチャンとはどうあるべきか、【信仰】とは何かを語れるようになったと今週の集会で証してくださいました乙女のトキメキ【信仰】を貫くためには、何があってもぶれない忍耐、とことん肉を打ち叩き、霊によって生きる決心が必要であると語られました。

 

マルコ5:25~34本

さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

 

マルコ4:35~41本

さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。

 

へブル10:32~11:1本

あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

 

へブル11:6本

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

 

アーメン宝石赤

 

そして、【信仰】を築いていく自分の心の土壌はどうか、良い実をならすことができるクリスチャンとしての土壌ができているかも、みことばを通して問われました。

 

マタイ7:13~29本

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

 

マルコ3:35~4:34本

神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。

イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。

また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。種まきは御言をまくのである。道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞くがよい」。また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。

イエスはこのような多くの譬(たとえ)で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

 

アーメン宝石ブルー

神は私たちの心を御存じです。みことばを聞いても、すぐに世の考え方に持っていかれて、忘れてしまう人か、みことばを聞いて喜んで受けても、信仰、感じ考える力がなくて、持続せず、そのうち自分の義が通らなくなるような困難や迫害が起こってくるとつまずく人か、みことばを聞いても、人の目を気にして、この世に対する心遣いと、欲にまかれて、霊・魂・体のパイプをふさいでしまう人か、それとも、みことばを聞いて30倍、60倍、100倍の実を結べる人かどうか、全てお見通しです。

霊⇒魂⇒体に至るパイプがどろどろに汚れていたら、信仰は育ちませんし、良い実を結ぶこともできません。天国は死んでから行くところではなく、この世で天国に入っていなければなりません。だからこそ、分厚い聖書がクリスチャンに与えられ、神を恐れ敬い、そのみことばに従って生きなさい!神の御旨を行いなさい!と言われるのです。

そしてイエス様が、聞く力にしたがって、弟子たちには譬えではなく、ひそかにすべてのことを解き明かされたという事から、自分は聞く力がなく譬えで語られる側なのか、それとも弟子と認められて語ってもらえる側なのかも問われました。

 

さらに、イエス様は、不信仰な者、大事な時に心1つにできない者は同行させなかった事も、みことばを通して教えられました。

 

マルコ5:35~43本

イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。

 

同じく、先人パウロも、一つ思いで宣教できる人かどうかを見極め、判断し、選びました。

 

使徒行伝15:36~41本

幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。

 

アーメン宝石赤

ここを読んだ時、既成教会で学んできた姉妹が、「パウロは人を許さず、愛の無い人だ」とずっと思ってきたと話し、驚いたことがあります。【愛は寛容であり、愛は情け深い】から始まる有名な聖句(第1コリント13章)を残したのはパウロです。

宗教心のある人(これも宗教の霊という悪霊の仕業)は、何が神の御心であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか分かりません。クリスチャンとは、自分の肉の人生の御利益のために生きるのではなく、第1に神のために、第2に隣人のために肉を打ち叩いて生きる者です。パウロの判断は、後に「パウロ教」と言われるぐらい、全世界の人々を救う世界宣教へと繋がっていきました。一つ思い一つ心で、足並みを揃えられない者は、イエス様がそうされたように、神ご自身が取り除かれます。

いつまでも不信仰で、神のみことばに言い逆らう者、行いをもって示さずイエス様から散らす者は、神に仕える僕・弟子にはなれません。改めて、悟りある者、不義・不信仰を認めて主にたちかえったクリスチャンたち、義と信仰と愛と平和とを追い求めることができるクリスチャンたちが一つになっていかなければならないと語られました。

 

ホセア14:9本

知恵のある者はだれか。その人にこれらのことを悟らせよ。悟りある者はだれか。その人にこれらのことを知らせよ。主の道は直く、正しき者はこれを歩む。しかし罪びとはこれにつまずく。

 

第2テモテ2:1~26本

そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。

あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。

そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。

 

アーメン宝石ブルー

 

最後に、【信仰】のうち、最も尊いのは、【愛によって働く信仰】(ガラテヤ5:6)であると語られましたハート

誰かや何かを握りしめて「これが欲しい!」「神が絶対にこれを与えて下さった!」と思い続ける信仰とは違います。どこまでもイエス様のための自分として、自分という肉は無となり、ちりのように、くずのようにされながらでも、隣人に愛を注ぎ出し、自分の人生を捧げていく信仰です。私たちは、神の御旨に、御心にかなう信仰、つまり、花婿イエス様の思いと、花嫁である自分の思いが同じ線上、道の上にある信仰が自ずと産まれ出ているかと問われました。そのように自分自身が真のクリスチャンとなり(キリストと似た者、一体となり)変えられるならば、その歩きは確信となり、いつも勝利の前進ができる!それが神の御心を悟る生き方、人生なのだと語られました。

そして、キリスト・イエス様と一体となる時、イエス様と一つ思い一つ心の霊なる自分(腹)から生ける水が流れ出ます。そこには、老若男女の区別、親と子、夫と妻、上司と部下、先生と生徒といった一切の上下関係もなくなり、ただただその人を地獄にやりたくない!サタンの思う壺の人生・道へ追いやる敵の手には渡したくない!という無条件の愛が内側から湧き出ます。気が付けば、敵はサタンだけ!という無条件のゆるしに立っている霊の自分がおり、初めて、【生きているのはもはや私ではない!キリストが私の内に生きておられるのである!】と悟らされ、みことばが成就するのだと語られました。

肉の思いと霊の思い、両方の自分の思いと向き合い、納得してみことばを行なうなら、二度と同じ過ちをせず、裁きません。改めて、霊⇒体ではなく、霊⇒魂⇒体の歩みができているか、また、神・天の父、みことば、聖霊に対して、肉で生きてきた自身の内側に引っかかるもの、障害物(古い肉の思い考え)が何一つない完全に明け渡した器になれているかと問われました。

私たちクリスチャンの義は、この世の知者や外側ばかりを繕う偽善者の義にまさっていなければなりません。律法に、無条件の愛とゆるしの象徴であるイエス様が加わってはじめて、神が人間に定めた律法・みことばは成就します。そこに到達することを目指し、私たち一人一人が、確固たる信仰をもってイエス・キリストをあらわす教会となっていけたことを感謝して祈ります!まじかるクラウン

 

ヨハネ17:6~8本

わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、わたしに下さいました。そして、彼らはあなたの言葉を守りました。いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。なぜなら、わたしはあなたからいただいた言葉を彼らに与え、そして彼らはそれを受け、わたしがあなたから出たものであることをほんとうに知り、また、あなたがわたしをつかわされたことを信じるに至ったからです。 

 

マタイ5:13~20本

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

 

アーメンダイヤモンド