ローマ人への手紙を通して学ぶ肉と霊の聖別 | ぶどうの木 Good News

ローマ人への手紙を通して学ぶ肉と霊の聖別

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今週は、牧師が聖書を開いて目が留まった伝道の書のみことばから集会が始まりましたぶどう

 

伝道の書4:9~12本

ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。またふたりが一緒に寝れば暖かである。ひとりだけで、どうして暖かになり得ようか。人がもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当るであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。

 

アーメン宝石ブルー

【ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。】という事は、二人でいるという事は、一人でいるより労苦があるとも言えます。一人が倒れる時には、もうひとりがその友を助け起さなければならないという労苦です。群れの姉妹たちのご主人がよく独り言を言っているという話が上がっていたのですが、牧師も一人で買い物をしている時、急に孤独感におそわれ、「これにしようかな?あっ、こっちの方がいいか」「こんな商品もあるんだ」など、自分で自分に語りかける独り言を言っていることに気付かされたそうです。つまり、独り言が多い人は孤独であり、それはパートナーがいても、友人がいても、心が満たされていない状態であるのだとおっしゃいました。【ひとりであって、その倒れる時、これを助け起こす者のない者はわざわいである】と書かれてあるように、かわいそうなのではなく、わざわいだと神はおっしゃいます。本当に心が通じ合う人がいたら、独り言を言わなくても平安、平穏です。もし、隣人が独り言を言っているなら、徹底的に寄り添って話を聞いてあげることが大切であり、どうやって相手の心に切り込んでいくのか、そこに労苦が必要であると語られました。そして、二人ではなく三人であれば、一人がサタンの攻撃を受けても、二人でそれに対応することができますし、二人が争っても、三人目が冷静に判断を下すことができ、三つよりの綱はたやすくは切れないという事も再確認しました。

 

もう一つ、伝道の書からみことばを頂きましたひらめき電球

 

伝道の書5:4~7本

あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。

夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。

 

アーメン宝石緑

誓いを果たすことを延ばしてはならない。つまり、自分の言葉に責任を持たなければなりません。「やっぱりあの時の言葉は違った!」「そんな事は言っていない」「あの時は誓ったけど、今はそう思っていない」などと、自分の言ったことをくつがえしていくことは罪です。神は誓った言葉、誓った時の気持ちも御存知であり、後の言い訳に対しては怒りをもって報いるお方です。その神を恐れて、言葉を出さなければならないと語られました。

また、隣人のために祈る時、例えば体の癒しを祈る時に、自分の心に“大丈夫かな?本当に癒されるかな?”という疑いや迷いがあれば、【信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる】(マルコ16:17~18)と宣言して祈り、いやさるでしょうか・・・幼子の信仰ならいやされますが、成熟したクリスチャンが疑いをもって祈ってもいやされないでしょう。サタンがその疑い、迷いで挑戦してきていることを容認しているからです。9つの聖霊の賜物の中にある力の賜物(行う力)の1つに、【信仰の賜物】がありますが、絶対に癒されるという信仰で祈れることも、聖霊の力によるものであると語られました。既成の教会で、癒しが行われない、病人が病人のまま長年居続けているのは、聖霊のバプテスマによる力を得ていないからでしょう。

また、体の調子が悪いからという理由で集会を休んでしまう人もいますが、それを理由にしていては、毎週のようにサタンが体に攻撃をしてきて、集会に行けないようにさせられてしまいます。サタンの策略を知り、「私はすでに癒されている!」という信仰によって切り替えて立ち上がる強さも必要であると語られました。

 

肉で生きてきた時間が長ければ長いほど、肉の習性がべったりとこびりついているため、いとも簡単にその習性に従ってしまいます。せっかく聖霊のバプテスマを受けて、聖霊が自由に働かれる体であっても、魂(知性・意思・感情)と体(感覚)=『肉』がなくなるわけではありません。この地上に生きている限り、常に魂と体からくる肉の思いと、それに相反する霊の思い(神のみ旨を行いたい本当の自分の思い、聖霊の導きに従いたい思い)が対立します。イエス様によってすべてが新しくなったはずの自分を一番迫害してくるのは、救われる前の古い自分・肉の自分であるのだと、パウロも言っています。

私たちは今週の集会でローマ人への手紙7章、8章を通して、人間のどうしようもない肉と、神としっかり繋がるために与えられている霊について学びました。「納得してしっかり聖別されてください」と牧師から一言受け、読み進めていきました。

 

ローマ7:16~25本

もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

 

アーメン宝石紫

救われ、霊がよみがえってクリスチャンになったのであれば、「どうせ私はこういう人間だから」と言ってはなりません。そう言って開き直り、自分の肉・悪に対して注意してくる人の言葉を終わらせてはなりません。世の中は、善をしようとうする意志はあってもそれをする力がない人、欲していない悪を行っている人、逆に皆ができない事はできるのに、皆と同じことができない人に対して、精神疾患のレッテルを貼り、薬漬けにして商売していますが、クリスチャンとして新しく生まれ変わったのであれば、善をしようとする意志、変わっていく力は、聖霊によって与えられているのだと語られました。

内なる人(霊)は、神の律法であるみことばを喜び、従いたい、行ないたいと思っています。しかし、「頭では解るけど、言われていることは解るけど、嫌なものは嫌!」と言えてしまう心の法則、罪の法則がその霊の思いを邪魔しているのです。肉そのものである自我が強いのは、神の御前で強情なわがままでしかありません。【強情は、偶像礼拝の罪に等しい】と聖書には書かれています。強情は、自分を偶像礼拝している、自分が神になっているということです。我を張っていても、実際はとてもみじめな事です。今週の集会の中で、人に頼れず、大丈夫!と強がり、“明るい子”と周りに思わせるよろいを身に付けてきた自分の魂の回復と解放について証をしてくれた姉妹がいましたが、彼女は、徹底的にイエス様に聞いて一つ一つ行なって行く歩みの中で、今まで強がっていて気付けていなかった自分の心にあった深い傷(両親の別居によって両親が実家を売却したことで、帰る場所・居場所がなくなった)に気付き、それを超越してありのままの自分・霊の自分をさらけ出せる人と出会えた喜びを話してくれました。人に対して自分の内側を隠して、本音を言えず、他者と上手く関われない人が、今の時代どれだけたくさんいるでしょう。それを“コミュ障”という簡単な言葉に変えてしまっていますが、神が与えた人間の霊は皆、【だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。】と思っているのだと語られました。

そして、自分の肉の過ちを認め、素直に降参して「私の生き方は間違っていました!」と悔い改めることができたら良いですが、救われていないこの世の人には、それを言える相手がいません。しかし、クリスチャンには、神という存在があり、いつでも意思を向け、やり直したいと願うなら、神に対して悔い改めることができ、その悔い改めの証人となってくれる牧師、兄弟姉妹がいます。今まで培ってきた肉の習性、既成概念、固定観念を捨て、一から、「イエス様、どうすれば良いですか?私を助けてください!こんな自分を忌み嫌います!」と聞き求めるなら、聖霊の働きが見えるようになり、自分の思いもしなかったこと、価値観や自分の頭でつくり上げるストーリーとは全く違う導きを体験し、全てを御存知であり、全てを支配しておられるイエス様との関係が強固に築かれていくのだと語られました。

パウロ自身、みじめで絶望しているところから突然、【わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。】と神を賛美する言葉に変わっていますが、ここに物凄く大きな神の霊の働きがあります。それは、8章にも続きますが、みことばとみことばの行間にある霊の動き、神の奥義を読み取っていくことが魂の領域であり、それを自分のものとしていく時、私たちは霊⇒魂⇒体でみことばを行なうことができ、キリストを自分の内に見い出すことができるのだと語られました。

 

 

ローマ8:1~17本

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

 

アーメン宝石赤

【こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。】と、冒頭からパウロは完全に解放されて語っています。イエス様の十字架の死から復活、それによって与えられた聖霊によって、肉は死に、霊によって生きる者へと変えられたという確信に満たされたからです。私たちも救われた時点から、肉とは完全決別した自分を見い出せる者となりました。肉ではなく、霊にいる自分であり、霊の思いは命と平安です。肉に従って生き続けるなら、死です。自分の肉・体の働きは、自分自身で意志を向けて打ち叩く以外ありません。そして、イエス様に100%従う意志を向けるなら、御霊に導かれている神の子と言えます。このみことばを逆から受け、「神の子なので、御霊に導かれている。だから、聖霊をいただいている」と解釈しているクリスチャンがいますが、それは間違った解釈です。神の御霊に導かれるためには、聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされ、神・聖霊に主導権を明け渡せる器でなければなりません。肉が強ければ決してできない事です。そして、人間がつくった宗教は魂を殺してまっとうな判断ができない奴隷にし、自由を奪いますが、神・聖霊に主導権を明け渡すとは、自由があることです。「クリスチャンは、神のみことばに従っているだけで、自分の意見がないロボットみたいだ!」という声も聞きますが、神のみことばに従うことは、人間をつくった神に従うという、人間に与えられた当然の本分であり、それを忘れ、自由気まま、好き勝手に生きた結果が、みじめな人生を生みだしているのです。神のみことば(聖書)に従うなら、私たちはこの世の律法において不可能と言われていること、人間の知識や努力、医学ではどうしようもない事も乗り越えられる自由があります。神を「父」と呼ぶことができ、神の子として認められ、神の相続人、キリストと共同の相続人になれたというこの祝福、恵みを、愚かな肉の思いによって奪われることのないようにしなければならないと語られました。また、肉の家族を握りすぎていたら、天の父である神にも、霊で一つの神の家族に対しても、心を注ぎ出すことはできません。自分は天に国籍がある神の子であることも再確認しました。

 

 

ローマ8:18~25本

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

 

アーメン宝石緑

牧師は幼子のころ、【やがてわたしたちに現されようとする栄光】という箇所を読むたびに、「イエス様、“やがて”とはいつですか?」と問うてばかりいたとおっしゃいました。しかし、母教会を離れて一人になってから、ぶどうの木ができ、たくさんの人々が導かれてきている今、パウロが言っていることがよく分かるのだと証してくださいました。

神は私たち人間(被造物)に、人間がつくった偽の神ではなく、自分自身を創造した本物の神に出会いたい!という神の子(クリスチャン)の出現を待ち望む心を与えてくださいました。特に、初詣に行く人数が、イスラム教徒のメッカ巡礼の人数より多いことからも、日本人ほど神を求め、飢え渇いている人種はいません。宗教を信じている人も、自分が神だと言う教祖も、神はいないという無神論者(それも自分が神と言っているのと同じ)も、皆、虚無の人生から変わることを待ち望んでいるのです。だからこそ、私たちクリスチャンの責任は重大です。

日本人が奴隷ではなく、先に救われている私たちクリスチャンの働きによって滅びのなわめから解放されてクリスチャンになっていかなければなりません。栄光の自由に入る望みが残されているのだから、目の前にいる人の肉の状態に左右されることなく、福音を語り続けなければなりません。反キリストの霊に気持ちを持っていかれたかつての同志、また、全くこの福音を聞いた事もない人たち、さらには違った福音を聞いてしまい、誤解している人たちがいますが、忍耐して神の愛を注いで向き合い、一人でも多くの人を神にたちかえらせなければならないと語られました。

 

欧米社会では、ワクチン被害者訴訟が爆発的に増大しています。闇側、「ハザールマフィア」と言うそうですが、彼らは、自分たちの権力を持続させるためには、有色人種を中心に世界人口を9割ほど減らす必要があると考えており、その手段として新型コロナウイルスという生物兵器をつくりました。しかし、人類がもつ免疫力が勝り計画は失敗しました。そのため、彼らは次に人口削減のためのワクチンをつくりましたが、今回ワクチン接種を拒む者が予想以上に多かったのは、彼らにとって想定外の事でした。ワクチンによる人口削減も終焉を迎えたところで、弁護士の多くが立ち上がり、訴訟が起こっているそうです。たくさんの闇の策略が暴かれ、騙されてきたことを知ることになったコロナ禍を経て、今や、アメリカ人の68%が、大手マスコミを信頼できないと思っているそうです。

バイデンはウクライナで人身売買、臓器売買、武器売買を行っていることも、ほとんどのアメリカ人が周知している事実です。人身売買の常套手段は、男を抹殺してから女子供を狩るのだそうで、ウクライナ戦争もそのためのものでした。

日本においては、新型コロナ作戦中、マイナンバーとワクチンの普及が仕組まれていました。接種者は、ハザールマフィアの羊となり、マイナンバーを持たず言うことを聞かない者は、社会のいたるところで迫害を受ける羊とされました。「アタオカ」、頭がおかしい人たちとも言われました。私たちは後者として、彼らの策略にとことん抗ってここまできました。日本はいまだにワクチン接種を続けており、目覚めている人が他国に比べると少ないですが、神は、【被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。】と私たちにおっしゃいました。アメリカの言いなりの日本政府であり、今年に入ってからも人工的と言えるような大きな地震や事故が起き、皆の心が沈んでいます。被災地にあり、放射能漏れが懸念されている志賀原発の情報が聞こえてこない、その被害の真実が隠されていることも、異常です。そんな今だからこそ、改めて私たちクリスチャンが、社会情勢、世界で起きていることにも関心をもち、皆に知らせ、日本人の覚醒を求めていかなければならないと語られました。

 

 

ローマ8:26~39本

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」

と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

 

アーメン宝石ブルー

私たちは、たまたま誰かのついでに救われ、導かれたわけではありません。「家族が仏教だから、自分も仏教」というレベルではなく、一人一人が“個”として、神の御計画に従って召されたのです。だからこそ、たとえ群れを出て行ったとしても、神は様々な形で語りかけ続けてくださいます。御手を伸ばし続けてくださいます。その羊の居場所は、すでに神によって決められているからです。肉が強くて神の言葉に背き、牧師を裁き、兄弟姉妹を軽んじた時があったとしても、私たちは、神が御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さってきたことを知っています。長子であるイエス様に連なる神の家族、牧師、兄弟姉妹のもとで、イエス様に似た者となるために訓練が与えられ、それを乗り越えてくることができました。

万物を賜る神の子である私たちは、祈りがきかれ、証が伴って当然です。しかし、自分自身がどれだけ真剣に、熱心に、忠実に祈っているか問われました。聖書を律法的に読んだら奴隷、カルト的になっていきますが、神のみ旨を聞き、「こう書かれてあるから、求めています!」と祈り、神のみことばを行い、相手のために寄り添う愛があるなら、神は必ずみ旨を成就してくださいます。自分自身の信仰の真剣度が求められているのだと語られました。

 

私たちはローマ人への手紙を通して、これが真のクリスチャンの姿であるのだと再確認しました。

神は肉の領域である魂をなくせ!殺せ!とはおっしゃいません。クリスチャンにとって魂(知性・意思・感情)は大事です。魂がなければ、相手の気持ちは分かりません。相手に寄り添って福音を伝えることもできません。愛も、喜びも、悲しみも分からず、共感できず、人を不愉快にして、嫌悪感を与えていくだけです。それを、「イエス様が」と言いながら行なっているのであれば、他者の気持ちが分からない独り善がりな人間、愛が欠如した人間、何も考えずただ神に従っているだけの宗教人間のように相手に映ります。それがどれだけのつまずきを与え、クリスチャンでありながら散らす側になるでしょう。

魂が死に、「イエス様に言われたから行う」=霊⇒体となって、考えることや感じることをやめてしまっていないかと問われました。キリストの思いに満たされているクリスチャンには、霊に蓄えられたみことばによって新しくつくり変えられた心・良心があります。クリスチャンであれば、心のままにではなく、肉を打ち叩いて生まれた良心・魂をしっかりと働かせて生きること、救われ、霊が生き返ったのなら、霊⇒魂⇒体で、父の御旨を行うことが重要です。みことばの意味を知性で考え、感じているなら、地に足の着いた歩みをしており、「イエス様が」「イエス様に言われたから」といちいち言わなくても、言動そのものが神の愛とイエス様(=みことば)を体現しており、何よりも説得力があるキリストのかおりを放つことができるのだと語られました。

 

ローマ人への手紙、特に【なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。】をしっかりと霊・魂・体に刻み、神の訓練を受ける中で、肉と霊の聖別を魂でも理解して、歩んでいけたことを感謝して祈ります!まじかるクラウン

 

へブル12:1~17本

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、

「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。

あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根(人をゆるせない気持ち)がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。

 

アーメンゆめみる宝石