2024年初集会―聖霊の声に聞き従えていますか?― | ぶどうの木 Good News

2024年初集会―聖霊の声に聞き従えていますか?―

holygirlですニコニコ

 

元旦から能登半島大地震、翌日には羽田空港での航空機事故が起こった日本ですが、アメリカでは小児性愛者が若い女の子をレイプしたり、人身売買を行っていたエプスタイン島(アメリカの実業家であり投資家であるジェフリー・エプスタイン氏が所有していた島)に出入りしていたクライアントリストが元旦から次々に公開され、1週間でその数は195ファイルにも及んでいるそうです。リストに載っている者で逮捕されたり、罪の賠償金を支払った人は一人もいません。エプスタイン氏だけが2019年8月に、児童買春で有罪判決となり、その後、刑務所で謎の死を遂げました。リストには、アメリカの歴代の大統領や著名人、日本の皇室や政治家の名前もあるそうです。アメリカでは大騒ぎのニュースですが、日本では一切報道されません。しかし、着実に闇の悪事は暴かれています。(詳しくは諒のブログ「アメリカで公開!!世界で起こっている子供の人身売買!!」をご一読ください)

 

この世を支配してきたディープステート(国際金融資本家)、サタンに魂を売った悪魔崇拝者、小児性愛者たちが、小児を誘拐し、強姦し、生贄として悪魔に捧げて殺し、その肉を食べ、血を飲んでいるという事実を私たちが知ったのは、コロナパンデミックが始まったころでした。当時は衝撃的で受け入れ難い事でしたが、それが事実であることがどんどん明るみになっていきました。「そんなのは陰謀論だ!おかしなことを言っている!気が狂っている!」と言われながらも、牧師は聖霊の導きに忠実に、知らされてきたことを私たちに伝え続けてきてくださいました。コロナワクチン接種が始まった時も、気が狂った彼らが人口削減のために作ったワクチンであることを知り、打たずに守られました。

聖霊対悪霊の戦いが現実的であることを教えてもらいながら、過ごしたコロナ禍。闇は光には勝てない!と宣言し続け、闇側の人間と戦っているクリスチャン達のために祈り、自分たちの置かれている場所で世の流れに抵抗し、真実を伝え続け、迎えた令和6年辰年龍能登半島大地震も、羽田空港の航空機事故も、不自然なことが多く、人工的に、計画の中で行なわれた事であったと言われています。地震の被災地にスマートシティをつくる、憲法改正して緊急事態条項可決にもっていくなど、岸田首相のその後の発言から思惑が見え見えです。逆に、地震は子どもを誘拐していた地下通路を爆発して起きたという見方もあり、新年早々、日本で何が行われているのか・・・見えるものに左右されず、ますますイエス様・聖霊様に聞いて行動しなければならないと語られた新年の始まりでした。

 

今年初集会の最初に与えられたみことばは、マタイ12章31節~32節でした。

 

マタイ12:31~32本

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

 

アーメン宝石ブルー

そして、さらに聖霊対悪霊の戦いを知るために、前後のみことばも頂きましたひらめき電球

 

マタイ12:18~37本

「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

 

マタイ12:43~45本

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

 

アーメン宝石紫

 

神(天の父)・イエス様・聖霊は三位一体の神と言われますが、神を汚す言葉、イエス様に対して言い逆らうことはゆるされても、聖霊を汚し言い逆らうことはゆるされないとはっきり書かれています。聖霊はイエス様が天に帰られる代わりに私たちに与えられた助け主です。聖霊なしに、私たちはこのサタンの支配下である地上で生き延びることはできません。先に書いたように、ぶどうの木牧師が、聖霊の導きに忠実であったからこそ、羊である私たちはここまで平安に、何の害も受けることなく神の守りの内を歩んでくることができました。

ガラテヤ5章16節~17節に【わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。】と書かれてある通り、私たちの肉は御霊(聖霊)に反します。私たちは牧師を通して、「肉が強い人、肉の都合を言う人は聖霊の声が聞こえない、従えない。自分のやり方は聖霊を拒絶する」と語られました。少なくとも私たちぶどうの木の羊は全員聖霊のバプテスマを受けていますから、聖霊の声が最初から全く聞こえないという事はありません。聖霊はその都度必要なことを語っています。しかし、それは小さく静かな声です。聞こえないのは、肉の声がうるさいからであり、聞いても従えないのは自分の意見、感情を貫きたい我がままな肉を自制できないからです。だからこそ霊の監督者である牧師は、聖霊の声に逆らっている羊の状態を見て、肉を自制して霊に従うよう励まし、肉があまりにも強い羊に対しては訓戒します。

 

聖霊の声を聞いて歩めているか、従えていると言えるか・・・それは、結んだ実によって分かります。今週の集会でも、自分の肉を打ち叩いて、握ってきたもの・考えを捨て、イエス様=みことばに従って得た証、聖霊の導きを感じながらここまで喜んで歩んでこれた事への感謝をあらわす証をしてくれた兄弟姉妹たちがいましたぶどうキラキラ

微塵でも心にやましい事があれば、神はもちろん、サタンも見破り、嘲り、そのやましい部分を弱点にして攻撃してきます。相手のことを変えようと思っても、自分の内に悪があれば、みことば通りサタンがサタンを追い出すことになり、何の力もありません。なかなか勝利を得れないなら、自分を吟味し、まず自分が変わっていかなければなりません。変わっていく力、勇気、チャンス、語るべきことを教えて下さるのが聖霊であり、「主にあって何事もすることができる!」と宣言して行なうなら、必ず聖霊が働いてくださいます。言われたみことばをただ行なうのではなく、みことばを感じ、考え、行いに移すというステップをしっかり踏んでいくのであれば、クリスチャンとして神に喜ばれ、人にも受け入れられ、地に足の着いた歩みをしていけるのだと語られました。

またビリー・ブリム女史の預言を確認し、自分の思いの垣根というかげり、自分のことで一杯一杯では聖霊は働かないこと、自分の肉を持ったままではイエス様は輝けないのだと語られました。そして、証とは、暗きところから引っ張り出される前と、後の自分の変化を明確に伝えることであり、そこに聞いた人々は神の栄光を見るのだと語られました。

 

<1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言>


大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。
あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。

そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。


わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!

わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。

わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。

(中略)

今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。

 

定められた位置について、聖なる器、神の言葉と力を注ぎ出す器になれたことを感謝しますまじかるクラウン

 

 

集会の中で、精神病(統合失調症)の48歳の娘を持つA姉妹が教材となり、年末年始を通して語られてきた精神を病んできた人たちとどう向き合うかについて語られました。20年以上精神を病んできた娘と生活をしてきたA姉妹は、「娘に癒されてほしい」という一心で、家を売って遠方から浜松に引っ越してきて、娘と共にぶどうの木の聖書勉強会に通うようになりました。その信仰通り身になり、娘は囚われて来た悪霊から解放されていきました。昨年末には、76歳のA姉妹が娘と共に働くことを祈り求めて就職した職場に、娘も採用が決まり、一人前の社会人としてのスタートを切れる事を楽しみにしていました。

しかし、妄想の世界から自分を取り戻し始めた娘から溢れ出たのは、母親A姉妹に対する裁き、憎しみの言葉でした。A姉妹は、過去のことを持ち出してきて許せない!と訴える娘に対して、謝り、土下座までしました。特に、若い時に、母親に中絶させられたことを恨み、許せないでいた娘は、そのどうしようもない後悔の思いや、やり直すことができない自分の人生を悲観したり、ここからの人生に対する不安を抱え、眠れない日が続きました。母親はじめ姉に対する苛立ちから、「一人にして!」と言うことも増えました。最初は、睡眠導入剤を信仰で飲まないようにしたことで眠れなくなったのかと思いましたが、結局、再び飲み始めても効果はありませんでした。精神病は薬で解決できることではなく、満たされない心を埋める母親の愛、家族の愛が重要なのだと改めてイエス様は教えてくださいました。

 

眠れない日が続く中、昼夜関係なく何度も外に出て行く娘を追いかけ疲労困憊していたA姉妹は、年末に鼻をぶつけて顔が腫れあがりました。すぐにこの状態を来たらしたことをイエス様に悔い改め、マルコによる福音書16章17節~18節の癒しのみことばを何度も宣言したことで、腫れはひいたそうですが、その後内出血のあざが目の周りから頬にかけて出てきました。報告を受けた牧師は、「鼻をへしおられましたね!」と言い、高ぶりとプライドで天狗になっていた鼻が折られたのだと霊的解き明かしをしました。A姉妹は、自分に高ぶりとプライドがあったと指摘されたことを霊で受けることはできましたが、魂(知性・感情)ではどういう事なのか分からないまま、ただ素直に「アーメン」と受け、高ぶりとプライドがあったことを悔い改めました。

 

就職に向けては前向きなA姉妹の娘でしたが、視力が合っていない眼鏡をつくり変えること、48歳の女性にふさわしい身なりを整えるための化粧品を購入することにはなかなか意志を向けることができずにいました。イエス様は牧師や姉妹たちを使って何度も新たな人生をやり直せるよう御手を差し伸べて下さいましたが、霊では分かっていても、肉の思いを自制することができず、最終的には自ら警察に電話したことから、精神科医2人の診断を受けることになり、精神病院に一時保護されることになりました。家族は改めて話をするために一度家に連れて帰りたいと伝えていましたが、警察署でも、精神病院でも面会できず、娘が求めていた「一人になりたい」という言葉が成就して、母親から離れ、一人になる時間が与えられたのです。娘とイエス様の関係において、人のせいにするのではなく、母親をゆるし、家族をゆるし、ここから自分の人生をどう生きていくのか、精神病院で過ごすのか、信仰にたって全てが新しい人生を切り拓いていくのかと娘自身も問われることになったのだと私たちは語られました。

 

今週の集会で、A姉妹は年末年始の娘の様子を報告すると共に、ピリピ人への手紙3章1節~16節を頂いたことを、皆に知らせてくれました。

 

ピリピ3:1~16本

最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。

あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

 

アーメン宝石赤

A姉妹に一番入ったのは、【後ろのものを忘れ、前のものにむかってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走ること。達し得たところに従って進むこと】でしたが、イエス様がA姉妹におっしゃったのは、「私の気持ちを分かって!」と訴える娘に対して、救われる前から、そして救われた後も、どんな言葉をかけてきたのか、娘のかゆい所に手が届かない的外れな言葉かけや、行い、コミュニケーション不足があったのではないかという事でした。娘さんは、住み慣れた場所から浜松に引っ越してきたことも納得できなかったそうですが、そこにもどれだけの会話があったのか。聖書を共に学び、毎日みことばをもらい、読み、アーメンし、祈る生活ができることをA姉妹は喜んでいましたが、結局、霊でアーメンしているだけではダメで、魂の部分でみことばが何を教えてくれているのか、みことばを通してイエス様は何をおっしゃっているのか、どうしなければならないのかを考える会話が親子でできていたのかとイエス様に問われました。

本来、霊⇒魂⇒体へとみことばを連動させて歩むのがクリスチャンですが、魂で感じ考えることのないまま、ただ「イエス様に言われたから行う」という歩みをするならカルトになっていきます。これもダメ、あれもダメという言葉ばかりが増え、なぜダメなのかを考えることをせず、また、やってみた方が良いことも、なぜ今やるべきなのかをしっかりと相手が納得するまで話すことができなければ、言われた!やられた!という恨みだけが残っていきます。それはクリスチャンに限らず、親子関係、子育て(教育)に必要なことです。「これができたらお菓子をあげる!欲しいものを買ってあげる!」「これをしないとおやつあげないよ!」という物々交換、条件付きの言葉かけしかできない親が多いからこそ、互いの心が通じ合わず、愛が不足して、精神を病む人が増えているのだと語られました。

そして、余談ですが、他者とのトラブルがあったにもかかわらず、「イエス様によって罪は許されている!」と言って自己完結し、実際にトラブルになった相手には謝罪をしないというクリスチャンがいますが、それも霊⇒体になり、良心が欠如したカルトです。他者にまともに謝罪もできない人間を、神がゆるす?1コドラントを支払いなさいとおっしゃるのが神です。

 

A姉妹は、精神病である娘をもつ母親として世間体ばかりを気にして声をかけていたことに気付きました。みことばに書かれてある通り、A姉妹は【律法の義については落ち度のない者】であり、この世的に世間に迷惑をかけないように育てる事は当たり前です。しかし、娘のためと言いながら実際は自分の体裁ばかりを取り繕ったり、人にどう思われるかを考えて声かけするなら、そこに真実の愛はなく、母と娘の関係にはどんどん溝が生まれていきます。

A姉妹が集会での気づきから、自身が頂いたみことばの深みを理解し、悔い改めにふさわしい実を結べるに至った時に、娘との新しい生活を迎えることができるのだと語られました。

 

牧師はA姉妹が頂いたみことばの続きも確認しましたひらめき電球

 

ピリピ3:17~21本

兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

 

アーメン宝石緑

感謝なことに、イエス様にならって歩く牧師や、先に救われた兄弟姉妹を通して、ぶどうの木では救われたばかりの幼子であっても、クリスチャンとしてどのように歩むべきか学ぶことができます。昨年は、いくつも精神の病を抱えたB姉妹に徹底的に神の愛で寄り添い、語り続けたN姉妹の姿から、神が求める真実の愛・隣人愛とはどういうものなのか、皆が学ぶことができました。「仕事があるから、忙しいから、眠いから、疲れているから」は、愛を注ぎ出せない理由にはなりません。自分のことは神に委ね、聖霊の声に忠実に聞き従うN姉妹の信仰の行いによって、B姉妹は自分を心から思い、愛してくれる人がいることを知り、励まされ、変わる決心をして、次々に癒しを勝ち取っていくことができました。B姉妹は長年の苦しみを両親にぶつけましたが、両親は「私たちだって大変だった」というだけで、自分の苦しみに寄り添う言葉をかけてはくれなかったそうです。誰もが「私だってそうだ!」と言いたいのが、この世です。しかし、まだまだ古い自分に戻そうとする悪霊の囁きがある中、みことばを握りしめ必死に立っているB姉妹に、最後に必要なのは、家族の愛、ぬくもりです。自分の信仰で立ち上がることはクリスチャンとして求められることですが、家族も回復し、変わっていかなければなりません。先に書いたA姉妹の姿を通して、長年精神病の娘と24時間365日向き合ってきたA姉妹自身も、実は精神を病んできたのではないかと語られました。「もう一歩も行けません!イエス様、あなたの御前に全ての重荷を降ろし、私自身を捧げますから、どうするべきか教えてください!助けてください!」と祈り求めることが、家族にも必要です。全てを明け渡してはじめて、聖霊が働き、最善の道・やり方、答えが示されます。

高ぶり、プライド、自分の義(やり方)は、十字架への敵対です。イエス・キリストが来られることを待ち望んで、肉の習性がこびりついた卑しい体を捨てて、目の前の人と向き合っていくこと、イエス様の御名と十字架の血の力を信じて、悪霊と対峙し、戦い勝利していくことが求められているのだと語られました。

思いもよらない事が次々に起こっている2024年の始まりとなりましたが、新年初集会で語られたことをしっかりと霊魂体に刻み、今年1年も歩んでいけたことを感謝して祈ります!乙女のトキメキ