教会に通っているクリスチャンは、皆天国に行けるのか? | ぶどうの木 Good News

教会に通っているクリスチャンは、皆天国に行けるのか?

holygirlですニコニコ

 

キリスト教界の中で、『死んだあとは皆、陰府で眠っている状態であり、この世で福音を聞いた事のない人や、福音を聞いても信じなかった人も、最期の審判を迎える前に、イエス様が来られてもう一回福音を聞くチャンスがある。そこで、イエス様を救い主として受け入れるなら天国に行ける』という『セカンドチャンス論』を教える牧師たちがいます。日本人には亡くなった人への情があります。「イエス様を信じなかったら地獄へ行くという教えを信じてしまったら、私の両親や、大好きだったおばあちゃんは地獄にいるの?」「福音を聞かずに災害で亡くなった人や、不慮の事故で亡くなった人も地獄なの?」という声に対して、何とかその気持ちを慰めようとするために、情で応えた教えがセカンドチャンス論です。

ぶどうの木牧師も、救われる前、イエス様を信じずに死んだら地獄に行くという教えを受け入れられずにいました。“もし自分がイエス・キリストを信じたら、すでに亡くなった人が地獄に行ったと認めることになる”と思い、特に大好きだったおばあちゃんが、地獄の火に焼かれ、悪霊の拷問にあっていることを考えると、苦しくて仕方がありませんでした。しかし、ある日、姉妹を通して「あなたはおばあちゃんの人生を全部知っているわけではないでしょ?人生のどこかで救われているかもしれないじゃない。でも、あなたが今イエス様を信じなかったら、今生きているあなたの娘さんたちやご主人、両親は地獄に行く。未来を見て!神は生きている者の神であり、生きている者が幸せに平安に生きることを求めておられる方だよ」と語られ、納得して救われたのです。

セカンドチャンス論は、女預言者イゼベルの霊がもたらした人間の情欲と、ルシファー(サタン)がもたらした高ぶりの最たるものであり、偽キリストの教えです。セカンドチャンス論に対してはほとんどの牧師が反対したため、しばらく下火になっていました。ですが、ある事をきっかけに、再びセカンドチャンス論を強く主張し始めた牧師もいます。

 

2020年7月、俳優の三浦春馬さんが亡くなりました。私たちは後に、彼が日本を代表する大教会の牧師と話をする機会があったのだと知り、“ならば、救われていた!?”と安堵したのですが、その教会の牧師のメッセージを聞くと、三浦春馬さんが救われた様子はありませんでした。それどころか、芸能人が自分を訪ねてきたことに心が浮つき、三浦春馬さんと対談した部屋や、座った椅子を展示?していました。トラクトを渡していれば、その場で救いに導くことができなくても、救われる望みがあります。自分の信仰で、“あの時にトラクトを渡しているから救われている!”という確信も持てます。ならば、こちらの祈りによって聖霊が働き、死ぬことはなかったかもしれません。しかし、そのような望みの言葉はありませんでした。そして、三浦春馬さんの死後、その牧師は自分を責めたようですが、それ以降、救われずに死んでも天国に行けるというセカンドチャンス論の話を、以前よりも強く語るようになりました。「あの人はイエス様を信じてなかったけど良い人だったから、死後にイエス様ご自身から福音を聞いて天国に行けるだろう。神は愛なのだから!」「地獄に行くのは、この世で極悪非道の人だけ」・・・まるで牧師自身が自分に言い聞かせているようで私たちは受け付けることができませんでした。きっと、自分が救いに導いていれば、天国に行ったという確信をもってメッセージを語っておられたでしょう。

 

そもそも良い人・悪い人の基準が人間の知識、情欲によるもの(=ルシファーのパン種)です。神の基準は、熱いか冷たいかはっきりされています。生ぬるいものは吐き出されます。人間の善悪の基準、人間が思う愛と、神の善悪の基準と愛は全く違うのだと私たちは教えられてきました。人間=肉と、神=霊は真反対です。肉の思いは死、霊の思いは命と平安であり、肉は何の役にも立ちません。

この地上で、神の戒めを守り行い、神の目から見て善しとされる者だけが天国に入れるからこそ、イエス・キリストによって水と霊から生まれ変わらなければならないと聖書は教えています。死後の世界で、イエス様が直接福音をして救われるなら、神が一人子イエス様をこの地上に送り、全ての人間の罪の贖いとして十字架刑を遂行させる必要はありませんでした。イエス様からの大宣教命令も必要なかったでしょう。セカンドチャンス論が、いかにイエス様の十字架上での御業をあざけった教えであるかよく分かります。

 

芸能人であろうと、政治家であろうと、天皇であろうと、一般人であろうと、神の御前では同じ人間です。クリスチャンとして、誰が目の前に来ても、浮つくことなく救われるように語り導いていかなければなりません。彼らが地獄に行った時に、「クリスチャンから福音を聞いた事がなかった」と嘆くことのないようにです。クリスチャンとして、その責任を神に問われることのないようにしなければなりません。目の前にいる人は、もう二度と会えない人かもしれないからこそ、出会ったその瞬間、向き合っているその時間を大切に生かして用いなければならないのだと、私たちは語られました。

 

一人として人間が滅びる事がないように、約2000年前に神が地上に送られたのがイエス・キリストです。確かにイエス様を信じる者は救われます。しかし、「信じる」と一言で言っても、本当に信じているのかどのように分かるでしょうか?信じているなら、行いが伴い、神に喜ばれるよう自分を180度つくりかえていくのだと私たちは学んできましたが、そのように学んでいるクリスチャンは少ないようです。

『セカンドチャンス論』と共に、キリスト教界にある教えが、『信仰義認』です。これはイエス・キリストを救い主と信じ、口で告白して救われたら天国に行けるという教えです。信じない人だけが地獄です。つまり、一度信じて救われたのなら、その後どんな生き方をしようと、神の目から見た罪を犯そうと、天国に行けるということです。これもまた、生ぬるい教えの一つだと私たちは思います。分厚い聖書は何のためにあるのか?そこに書かれている戒めは、誰のために与えられているのか?戒めを守り行なわない者が天国に行けるのか?たくさんの疑問がわいてきます。天国の門はもっと狭いです。マタイ7章21節には、【わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。】と書かれており、うじがつきない地獄の存在も、はっきりと聖書に書かれています。

 

マルコ9:43~48本

もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入る方がよい。[地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。] もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。[地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。] もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それをに抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

 

セカンドチャンス論と信仰義認を否定しているのが、「地獄についての神の啓示」という本です。イエス様と共に地獄を見てきた著者メアリー・K・バクスター氏が、地獄の存在と、どんな人が地獄にいるのか、その事実を書き残しています。そこには福音を信じなかった人だけでなく、救われた後も自分の肉欲のままに生きた人や、真理を正しく教えなかった牧師たちまでいて、後悔からの嘆き叫びや、逆にイエス様を呪う言葉を出していました。また、「クリスチャンが福音をしてくれなかったから、地獄に来た」とイエス様に訴えている人の声も書かれていました。と同時に、イエス様は福音をしないクリスチャン達にも警告されていました。全てのクリスチャンに共通して神が求めておられるのは、一人も地獄に行くことのないよう福音を宣べ伝える事だからです。自分さえ天国に行ければ良いと考えて、周りにいる人々を救おうとしない人は、天国に行ける保障はないでしょう。

 

クリスチャンが生かされているのは福音宣教のためですが、クリスチャン自身に力がなく、福音せずに来た結果生まれたのがセカンドチャンス論と信仰義認、さらには患難前携挙説(クリスチャンが携挙された後の7年間で悔い改め、救われよ!)ではないのかと思います。そこにうまく利用されているのが【陰府】の存在です。聖書に【陰府・黄泉】という言葉は出てくるため、「地獄と何が違うのか?」と以前、ある牧師にお尋ねすると、「陰府と地獄は同じです」という答えでした。その時はそうなのかと納得しましたが、その後、他教会のクリスチャンを通しての学びもあり、すぐに天国、地獄に行くのではなく、主の再臨まで死後眠らされている場所が陰府なのか?再臨された後、皆一斉に裁きを受けるのか?と私たちは改めてイエス様に聞いてきました。全てを知ってはならないと神ご自身がおっしゃっていますが、いずれにしても、神との新しい契約時代が始まってからは、死んでからの救いはないと思い、私たちは御霊によって福音宣教をしています。

では、旧約時代の人がどうなったのか?イエス様が十字架上で死んだ後、獄に捕われている霊ども・ノアの箱舟が造られたいた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものところまで下っていき福音を宣べ伝えたという箇所(第1ペテロ3:19~20)があるので、イエス様を知らなかった旧約時代の人には特別な神の恵みが注がれたのでしょうか・・・。神の奥義は到底私たちの頭では分かりません。ただただ聖霊によって解き明かして頂けるよう切に求めてきました。そして、私たちは、新約時代を生きるクリスチャンとして、福音に対して妥協させようとするサタンの策略にかかることなく、生きている間に、この地上がある間に、一人でも多くの魂が救われ、天国に行けるように働いていくことが使命であることを確認しながら歩んできました。

 

神学者たちによる聖書解釈から生まれたセカンドチャンス論と信仰義認、患難前携挙説でしょうが、改めてそれを良しとするのは、肉と霊が聖別されておらず、これぐらいは許されるでしょ?という情が土台のクリスチャンであると思います。セカンドチャンス論、信仰義認、患難前携挙説といった教えを受け入れたら、誰がこの世で自分の家族や周りの人を救うでしょうか?それ以前に、天国に行くことだけがクリスチャンの目的になっていることが、キリスト教界の堕落であると痛感します。この地上で神に喜ばれる生き方をするために救いがあるのであって、それが人間にとって最も幸せなことです。しかし、救われても、救われる前と何ら変わらない人生を送っているクリスチャンが多いために、このような教えが生まれるのだと思いました。神は愛ですが、だからと言って、救われた後も自分の好きなように自由気ままに生きてよいとおっしゃっていません。

 

今週の集会には、かつて他教会に通っていた事がある兄弟姉妹が参加しました。彼らも、セカンドチャンス論はおかしいと前にいた教会で学んでいたり、信仰義認という言葉が初耳だったり、信仰義認だけで天国に行けるということに疑問を持っていたそうです。集会の席にはいなかったのですが、ある姉妹からは、「教会に通っているクリスチャンって、皆天国に行けるのですか?」という問いかけがあり、その言葉がとても新鮮に霊に刺さりました。他教会から来た姉妹も、「教会の中で、天国に行けるようにクリスチャンとして成長していかなければならないが、果たしてそうなれているのか?と疑問に思う」と言いました。

 

先週の集会で語られたように、人間には宿っている罪があります。クリスチャンになっても、肉にある罪を忌み嫌わず、取り除かぬまま聖書を読むなら、いくらでも自分の肉に都合の良いように解釈することができますし、聖書に書かれてあるこの教えは受け入れられないと言って排除してしまうこともできます。【肉の思いは神に敵する】(ローマ8:7)と書かれてあるように、人間が心のままに生きるなら、どこまでも神の御心には反し、真反対の歩みになります。

心の決めたままに生きることは素晴らしい!と教えているのがこの世ですが、その成れの果てが、一つ前の諒兄弟のブログにあるように、体は男、心は女と主張する男性が、女湯に入ることを良しとした社会です。女性がそれに驚き通報したところで、警察は逮捕することはできません。また、津田塾大学(女子大)も、心は女であるという男子学生の入学を認めることで、卒業生や在学生から大きな反発を受けて話題になっています、仮に、その男子学生が、“やはり自分は男だった!”と在学中に気付いても、そのまま男として在籍し、卒業できるのだそうです。LGBT法案を通した自民党はどう責任を取るのか。男女の区別がない社会とは、変態を野放しにすることなのか?こんなことが許されるのか!?良識がなさすぎるのではないか!?と普通は思うはずですが、国民が無関心で声が上がらないまま、容認されている社会です。そして、「ダメなものはダメ!」と言える良識がない人間、自分に甘く、やりたいことはやる!やりたくないことはやらない!を主張する人間が、イエス様を受け入れてクリスチャンになったところで、自分の内にあるそういった罪を自覚して取り除かないのなら、聖書のみことばを選り好みして当然です。

だからと言って、知性、感情を殺し、みことばに対してロボットのように従うのであればカルトになり、周りの人々につまずきを与えてしまうことにもなります。また、どれだけ聖書知識が豊富であっても、何度も聖書通読をしていても、全部頭で受け、聖霊による理解を得ていなければ、肉を打ち叩くことを知らなければ、互いに愛し合う愛、隣人を愛する愛すら、そのクリスチャンには生まれません。イエス様のみことばであっても、憎しみ、裁き、恨みがまされば、それに従うからです。

私たちは改めて、聖書から人間にとっての良識をしっかり学び、霊から肉が、イエス・キリスト=みことばによってまっすぐ正されなければ、正しい善悪の判断はできず、神のおっしゃっていること(奥義)を理解することはできない、天国には行けないのだと語られました。

 

このように、クリスチャンであっても肉の思いに従って生きたり、簡単に肉と霊が混同してしまうのは、聖霊のバプテスマを受けていないことが一つ大きな問題としてありますが、もう一つは、聖書そのものが改ざんされているという問題があります。

例えば、私たちぶどうの木で使用している口語訳聖書では、【わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう】(ヨハネ7:38)と書かれています。ですから、イエス様が入られた霊の場所が腹のところであるのだとはっきり分かり、肉(心)で思う事と、霊で思う事は違うのだと理解できます。しかし、新改訳聖書では、【人の心の奥底から】、共同訳聖書では、【人の内から】と書かれています。イエス様が入られた場所が心?生ける水が流れ出るのが心?これでは肉(心)と霊が混同してしまい、肉の思いなのか、霊の思いなのか分からなくなってしまいます。それゆえ、心で思ったことを、イエス様からだと勘違いして、自ら罪の道を選んでしまうことにもなるのです。

また、聖書の訳の違いによって、異なった意味をきたらす箇所があります。ヨハネによる福音書1章14節のみことばは、新改訳聖書では、【ことばは人となって、私たちの間に住まわれた】と書かれています。そのまま受けると、イエス様が人となって私たちの間に住まわれたという意味にとれます。しかし、口語訳聖書では、【そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った】と書かれています。ここでの言は、新改訳聖書と同じ意味で、言=イエス様ですが、霊で読めば、私たちが出す様々な言葉のことも意味します。その言葉が私たちの内に蓄えられていくのです。ならば、出す言葉に注意しなければなりません。イエス様ご自身であるみことばと、みことばに基づいた言葉を出すことがどれだけ大事であるのかを、このみことばから悟ることができるのです。

これは、ほんの一例にすぎず、聖書による違いの他、原本からの改ざん箇所は、数えきれないほどあると言われているそうです。聖書自体、牧師の個人的解釈を入れた独自のものもあり、どれが正しい聖書と言えるのかという現状です。今や聖書にまで、サタンの策略が入り込んでいます。特に、新共同訳聖書については、カトリックとプロテスタントが共同でつくったものです。ローマ法王を頂点に一つの世界宗教、新世界秩序をつくりあげるための動きにも繋がっているのか・・・。「カトリックと1つにならなければならない!」という牧師がいますが、神より自分の方が上だと言うローマ法王率いるカトリックとそのまま1つになれるわけがありません。カトリックが改心して、プロテスタントになってはじめて1つになれるでしょう。

また、注解書を用いて説教をしている牧師も多いですが、それではみことばに対して常に一つの答えしか導き出せません。聖書は全て神の霊感を受けて書かれたもの(第2テモテ3:16)ですから、同じみことばでも、過去の自分が読んで受けた時と、今の自分、未来の自分が読んで受けるメッセージや感じることは違うのだと私たちは学び、体得してきました。生きた神が、一人一人の人間に対して、その都度必要の一切をみことばを通して語ってくださるからこそ、時代が変わっても、みことばは変わらずにその時代を生きる人々を教え、導き、生かしてくださるのです。それゆえ、注解書を使って聖書を読むこと自体が、神学的な解釈にとどまることになり、それこそがサタンの思う壺だと思います。

 

私たちは今週の集会で、聖書が改ざんされているなら、聖霊を教師として聖書を読まなければならないと語られました。一つのみことばだけで判断するのではなく、解らなければ、そのみことばに関連する他のみことばを求めて、裏付けを頂き、みことばがみことばを解き明かしていく中で、みことばの真実味が増していくのだと語られました。第1コリント2章に書かれてある通り、神の思いは神の御霊以外には知るものはなく、私たちは霊によって霊のことを解釈をすることができるのです。だからこそ、たとえ聖書が改ざんされようと、みことばの本当の意味(真理)は、聖霊に満たされて聖書を開く時、私たちの霊にイエス様ご自身が語ってくださいます。私たちは聖書が伝えたい本質、神の思いを、神が送って下さった助け主聖霊の力によって教えていただけるのだと改めて語られました。

 

第1ヨハネ2:27本

あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。

 

アーメン宝石紫

 

今週の教えを受けて頂いたみことばは、テモテへの第2の手紙2章、3章、4章1節~8節でしたひらめき電球改めて自分たちは何のために救われたのか、クリスチャンとしてどのように生きなければならないのかを確認しました。

 

第2テモテ2章本

そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。

あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、なんの益もなく、聞いている人々を破滅におとしいれるだけである言葉の争いをしないように、神のみまえでおごそかに命じなさい。あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。

そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。

 

第2テモテ3章本

しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。

しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

第2テモテ4:1~8本

神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

 

アーメン宝石赤

私たちは、今の時代の人々が自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言する者、神より快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となっていることを、寛容な心でよく教え、責め、戒め、みことばに従うよう勧め、健全な教えが聖書にあることを宣べ伝えていかなければなりません。また、キリスト教会では、聖書が教える健全な教えが肉にきつく、耐えられない人々と、善人ぶって、情で耳障りのよい作り話、聖書解釈(セカンドチャンス論、信仰義認、患難前携挙説)をして信者を集めようとする牧師とが、肉で一致して真理からどんどん離れてしまっていますが、真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって神に自分を捧げるよう、努め励まなければならないと語られました。今、この時に、「義の冠がわたしを待っているばかりである」と言える自分であるか吟味し、司令官を喜ばせ、役立つ福音の兵卒となっていけたことを感謝して祈りますまじかるクラウン