人間の肉にある罪・悪 | ぶどうの木 Good News

人間の肉にある罪・悪

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今週の集会は、使徒行伝3章26節から始まりましたベル

 

使徒行伝3:26本

神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである」。

 

アーメン宝石ブルー

私たちが神に選ばれ、救われ、他者につかわされるのは、悪から立ちかえらせて祝福にあずからせるためキラキラとてもシンプルな事ですが、神がおっしゃる悪とはどういう事でしょう。

創世記6章5節に、【主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。】と書かれてある通り、神の目から見たら、人間の心(考え、想像すること、心に計ること)はいつも悪い事ばかり考えています。つまり、善が全くないということですが、人間は自分自身が罪人であるとは思っていません。罪人とは、盗みや殺人を犯して警察に捕まっている人であると思っているからです。

しかし、聖書=神が教える罪・悪とは、イエス・キリスト(彼は神の言と呼ばれた)を信じないことです。イエス・キリストが右に行けと言っても左に行く・・・それが罪の始まりです。左に行って自分がやりたいことをすると、自分が神となります。自分の考えを神の言よりも正しいものとしていくと、人間は空虚感、虚無感を感じます。なぜなら、神は人間をもともと、神に従うことによって幸せで充実していると感じられるようにつくられており、そのように生きられるように“霊”を与えて下さっているからです。

それにも関わらず、聖書があるのに読みもせず、「宗教」と言って拒絶し、みことばが「〇〇しなさい」と言うと、「嫌だ!無理!」と反発し、神が世界を数日で創造した話を聞いても、「そんなの信じない」と言い、神を愛し隣人を愛して生きることを「ダサい」と言っては、自分の肉の思いを信じて人間は生きています。多くの人は自分自身を信頼し、この世が教えること(家庭教育、学校教育、新聞やニュース、この世の知者や僧侶の教え)が正しいと思っています。それは神の目から見たらとんでもなく的外れな生き方=悪なのです。

このように生きてしまうことは、サタンの支配下におけるサタンの攻撃によるものだと言って、反発の霊、反逆の霊、自分偶像礼拝の霊を追い出すことも必要でしょう。しかし、今週語られたのは、そもそもその人間の肉の中にある悪、罪、狂った善悪の判断が原因ではないのかということです。

 

ローマ7:15~25本

わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

 

アーメン宝石赤

例えば、鬱になったり、孤独を感じたり、暴言を吐いたり、暴力をふるったり、薬物に手を出したり、人を殺してしまうことは、本来自分が望んでいることではありません。しかし、人間は自分がしたくないと思っていること、自分の憎むことをしてしまいます。なぜか・・・なぜそのような選択をしてしまうのか・・・聖書は、それは自分自身の内に宿っている罪のせいであると教えています。

今週ぶどうの木に、学生時代から約10年間、合法大麻を使用し、万引き、援助交際の斡旋、金貸しといったありとあらゆる悪を行ってきた青年A兄弟が導かれてきました。勉強が嫌いで、夢も希望もなく、定職に就くことなく、友人とその日楽しければそれでいいという生活を送ってきたそうです。家族が先に救われていましたが、「宗教やめろ!」と迫害側におり、今年の夏に合法大麻を売る店の販売員になることを求めて初めて実家を出て、友人と一緒に住み始めたのですが、なかなか仕事が決まらず、大麻で身を滅ぼした末、今回神のあわれみでイエス様のもとにくることができました。感謝なことにA兄弟は実家を出る前に救われ、聖霊のバプテスマを受けていたため、神の強い守りの力が働いて、面接の問い合わせをしても応答がなく、闇の仕事に入り込むことがないようにされました。彼が実家に帰ると決めた途端、突然応募先数件から連絡が入り、彼を闇側に引き戻そうとしましたが、彼の決心は堅く、全てを断ち切ることができました。

牧師と面談をした時、A兄弟は今まで自分が犯してきた罪を淡々と話しました。悪い事をしてきた自覚もほとんどないような様子で、彼にとっては、その世界で生きることが当たり前であり、完全に善悪の判断が狂わされていることが分かりました。合法大麻とは言え、それは違法になるだけの症例が上がっていないだけです。大麻の過剰摂取で幻覚症状に苦しみ、アドレナリンが出てハイテンションになって暴力的になったり、言葉に言い表せない強烈な恐れに襲われて、8時間ただただ布団の中で丸まり、震えている状態になったりしていたそうです。理性が働いている内はなんとか耐えられても、理性がなくなれば、その苦しみから抜け出したくて自殺をしてしまう人もおり、死と隣り合せでした。そんな状態であったことを聞いて、私たちは改めて神が守ってくださり、無事に生きて帰ってくることができたことに感謝しました。

 

人間は本来、自分がやりたいことをやり、食べたいものを食べるなら後悔しないと思っていますが、想定外の不幸な結果になったり、食べ過ぎて太ったり、病気になれば、後悔します。それが大麻や覚醒剤であれば、やりたいからと始めて一時は気分が良くなっても、その効果が薄れたり、警察に捕まった時に後悔します。自分で選択したのだから、自業自得であると世間は言いますが、聖書は、それはあなたではなく、あなたの中に住む罪が行なったと教えています。誰も、そのように生きる人生を最初から望んではいないからです。しかし、気が付いたらそのように生きるしかないようになっていて、そこから出てくる方法が分からず、悪に深入りしていくのです。

人間は生まれた時から、その罪の種を持っています。【このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。】(ローマ5:12)と書かれてある通り、アダムとイブが神に背いた罪が、人間の内に代々受け継がれています。生まれたばかりの赤ちゃんの時には分からなくても、成長していく過程で、環境や教育によって罪の種も成長し、嘘、詐欺、操り、妬み、盗み、殺人など、あらゆる罪が生まれていくのです。

そして、エレミヤ17章9節に【心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。】と書かれているにもかかわらず、人間は自分の心がそのようなものであることを知らず、正しいもの、善なるものであると勘違いしています。それゆえ、自分の心に従い、自分が良いと思うことを言い、行動しています。傍から見たら悪で、危険だと思うことも、本人にとっては、それほど悪い事ではないと思っていることもあります。しかし、実際は全て悪だからこそ、生きることが大変になり、心が空っぽになっていくのです。また、ある人は、神の御前で非完全な人間なのに、自分の肉の努力によって完璧に生きようとするから、いつも失敗してしまい、空虚感を感じてしまうのです。

 

それゆえ、私たちは罪が様々な悪に自分自身を駆り立ててくることに対処しなければなりません。それは肉欲、性欲を我慢することでしょうか。もう大麻をしない!もうお酒を飲まない!性的倒錯をしない!と心に決めたところで、我慢の限界を迎えれば、「もうどうでもいい!これ以上は無理!」と言って、またすぐに罪を犯してしまいます。大事なのは、まず神・イエス様を受け入れ、信じることによって、罪そのものを取り除くことです。イエス様は人類の罪を帳消しにするために十字架にかかってくださり、贖いの血を流してくださったからです。イエス様は、【世の罪を取り除く神の小羊】(ヨハネ1:29)と言われ、この世がある限り、私たちの過去、現在の罪はもちろん、未来に犯す罪まで、取り除いて下さるお方です。罪の報酬は死ですが、神は主イエス様によって私たちに永遠の命を賜物として与えてくださいました。(ローマ6:23)

 

へブル10:10本

この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。

 

へブル10:14本

彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

 

アーメン宝石緑

イエス様は十字架上で死なれ、3日目に死人の中からよみがえられ、人々を義とされました。人々が自分自身の姿を見た時、自分の心では自分は罪人だと思っていても、神の目から見たら【永遠に全うされた】のです。私たちは信仰によって、神の言葉をそのまま信じなければなりません。

しかし、多くのクリスチャンは、罪のゆるしだけに目を留め、「私たちは全ての罪がゆるされた。もう罪人ではない」というところで、結局、自分の肉に都合よく聖書を解釈して、罪を犯し続けています。自分の身に不幸が起きても、なぜそうなったのか自分を吟味したり、肉を打ち叩いて変わることをせず、ただ起きた不幸に対して、「主よ助けてください」と祈ったり、周りに祈りの要請をするだけです。罪がゆるされることだけを握りしめ、イエス様の山上の垂訓であるマタイ5章、6章、7章、クリスチャンとしての基本中の基本の教えすら分からず、行なわずにいます。実際神はみことばを通して何をおっしゃりたいのか、また、新約のイエス様の教えの意味を悟らず、旧約を中心に神学を学んでいるだけです。自分の内に罪があることは解っても、それに打ち勝つ力がないのです。聖霊がなければ、我慢の限界が来て爆発してしまいます。

だからこそ私たちは、聖霊のバプテスマを受け、聖霊の力を得なければならないと語られてきました。ただ、サタンを追い出して、「赦し、愛し、祝福し、尊敬します」と言っているだけではダメで、なぜ赦さなければならないのかまで教えて下さるのが聖霊です。【下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい】とはどういうことなのか、なぜ「主にあってできる!」と言えるのか、なぜ○○をしなければならないのか、なぜ○○をしてはならないのか、一つ一つ必ず答えがあります。そして、神は肉にある罪・悪をどう打ち叩くのか、それを自ら悟って、納得できるように教えてくださいます。

そのような歩みの中で、例えば「お前を殴りたい!ゆるせない!」という人があらわれたとします。その時に、へりくだって、「あの時の私はひどい事をしました。どうぞ気が済むまで殴ってください」と言うなら、相手はその光の言葉に驚き、「いや、私も悪かった」と言って一発も殴れず、和解に至る・・・それが神の力です。私たちがみことばを行なうことに意志を向けるなら、神はみことばにある力を実生活の中で体験・体得させて下さいます。そのように私たちクリスチャンは、神と協力し、神の同労者になっていかなければならないと語られました。

 

B姉妹は、主人であるC兄弟を通して救われ結婚した事もあり、結婚生活の中でC兄弟が言うことには全て聞き従うようにしてきました。しかし、心の内では納得できていないこともあり、徐々に不満や我慢になっていき、みことばをもらうこともできなくなり、集会に参加していても語られることが分からず、霊に入ってこなくなっていました。その中で、祈っても祈りが聞かれないということから、不信仰にもなっていきました。そして、もともと家事が得意ではなく、できればやりたくないという気持ちがある中、努力して行なうことに疲れ果て、救われる前の自分のように、やりたいことをやって自由に生きる方がいい!家事もC兄弟の方が得意だから、C兄弟が主夫になり、自分はもっとバリバリ働きたい!という気持ちにもなっていきました。そこから、神の家族以外の人との交わりを求めるようになり、この世の交わりが夜中心となり、昼夜逆転してしまう生活になりました。まだ結婚して半年ですが、生活の中で生じる価値観の違いも浮き彫りになり、C兄弟はそれに対してイライラし、B姉妹はイライラするC兄弟に恐れも感じ、夫婦間に気持ちのずれが生じていき、B姉妹は離婚を考えるようにもなっていきました。新婚生活も、信仰も、肉の努力で完璧を目指そうと思っても、限界が来ていました。カウンセリングをした牧師は、二人の思いを聞きながら、最終的にB姉妹の思いが、全て聖書の教えとは真反対、ぶどうの木で学んできた家族のあり方(夫が外で働き、妻が家庭を守る)に言い逆らっていることを指摘しました。それは肉の我がまま、B姉妹が生い立ちの中で当たり前だと思ってきたことであったり、親に注意されても直してこなかったことが至らせたことであり、B姉妹の内にある罪でした。

 

ローマ8:5~8本

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

 

アーメン宝石赤

肉の思いはどこまでも神・みことばに敵します。肉の思いで生きようとするなら、死です。初めに神の言ではなく、自分の意見を言う人は、罪に罪を重ねていきます。どれだけ悪霊を追い出しても状態が変わらないなら、肉が強すぎるのだと語られました。何でも「サタンだ」と言うことは、サタンを喜ばせることにもなります。神が食べるな!飲むな!盗むな!行くな!とおっしゃっているのに、なぜそれを行うのか。ただ自制がなく、我がままになっていないか、現実から逃げていないかと問われました。クリスチャンと言いながら、みことばを行いに移せていないなら、肉の強いこの世の人と同じです。

肉の強い人間が、一体この世界で何をしているのかも、私たちは知らされてきました。世界の超一流のトップと言われる人々が、どれだけお金、地位、名誉を得ても、高価な服、豪邸、自家用飛行機を持っていても満たされず、欲求の行き着いた先が、小児性愛、人身売買、幼子を悪魔に捧げる生贄儀式です。それで興奮しているのです。彼らは聖書に反発したい反キリストです。しかし彼らはそれでも満たされることはないでしょう。神を信じず、神に敵対しているから、永遠に満たされず虚しいまま、サタンに利用されるだけされて地獄行きです。

 

B姉妹は悔い改め、詩篇88篇を頂きました。みことばを通して、自分がどんなところにいたのかを語られ、イエス様の声が聞けなくなり、枝を切られるところまで来ていたのだと悟ったそうです。

 

詩篇88篇本

わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、夜、み前に叫び求めます。わたしの祈をみ前にいたらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしの魂は悩みに満ち、わたしのいのちは陰府に近づきます。わたしは穴に下る者のうちに数えられ、力のない人のようになりました。すなわち死人のうちに捨てられた者のように、墓に横たわる殺された者のように、あなたが再び心にとめられない者のようになりました。彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。あなたの怒りはわたしの上に重く、あなたはもろもろの波をもってわたしを苦しめられました。あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。わたしは閉じこめられて、のがれることはできません。わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。あなたは死んだ者のために奇跡を行われるでしょうか。なき人のたましいは起きあがってあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのいつくしみは墓のなかに、あなたのまことは滅びのなかに、宣べ伝えられるでしょうか。あなたの奇跡は暗やみに、あなたの義は忘れの国に知られるでしょうか。しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈をあなたのみ前にささげます。主よ、なぜ、あなたはわたしを捨てられるのですか。なぜ、わたしにみ顔を隠されるのですか。わたしは若い時から苦しんで死ぬばかりです。あなたの脅しにあって衰えはてました。あなたの激しい怒りがわたしを襲い、あなたの恐ろしい脅しがわたしを滅ぼしました。これらの事がひねもす大水のようにわたしをめぐり、わたしを全く取り巻きました。あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました。

 

アーメン宝石紫

闇の世界から救い出されたA兄弟も、B姉妹と同じく、この詩篇88篇の状態にあったでしょう。A兄弟もここまでの自分を悔い改め、ここから真面目に生きたい!自分が生まれ変われたら、友人たちを救い出したい!という気持ちをもって、聖書を学んでいく決心をしました。闇から光へ、自分のいる世界を変える力は、自分の決心、決意、覚悟、決断の言葉にあります。感情に素直になりすぎてはなりません。「善をしようとする意志があっても力がない」で終わるのではなく、だからこそ、イエス様が来て下さったことに感謝して、イエス様にもっていき、「やらせてください!行う力を与えてください!」と祈るのです。そして、「私は神の子!主にあって何事もすることができる!」と宣言して一歩踏み出すなら、聖霊が助けてくださり、必ず神の御心、なすべき善を行なえるのだと語られました。

 

ローマ8:9~39本

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

 

アーメン宝石赤

 

最後に、私たちは、神の御心、なすべき善とはどういう事なのか、人との接し方に愛があるか、神の栄光をあらわせているか、マタイ5章、6章、7章を通読して確認しました。

 

マタイ5章本

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

マタイ6章本

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

 

マタイ7章本

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

 

アーメンゆめみる宝石

みことばの一節一節が、自分の身になっているか、クリスチャンとして、今自分はどの地点にいるのか、どの訓練を終えたのか、何がまだできていないのか吟味し、実践することによって、岩の土台の上に神との関係を築き、祝福と証を益々得ていけたことを感謝して祈ります。そして、改めて一人一人が自分の肉にみことばを言い聞かせて、自分の内にある罪を取り除き、キリストに似た者、完全な者となれたことを感謝します乙女のトキメキ