聖霊によって牧会される群れ | ぶどうの木 Good News

聖霊によって牧会される群れ

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2019年10月、当時の浜松牧師会の長であったT牧師と交わりの時間を持ちました。かつて既成の教会から導かれてきた兄弟姉妹たちが、肉と霊の聖別の訓練につまずいて群れを出て行った際、各教会の牧師に感情のままに悪口を言いふらした事もあり、浜松の牧師会が私たちを警戒し、“カルト”と位置付けていることは知っていました。私たちは牧師の名前を公表しておらず、“教会”という建物がないため、所在地がありません。トラクトや本を出版しても、「ぶどうの木」としか書いていません。ヨハネによる福音書15章に書かれてある通り、「ぶどうの木」はイエス様ご自身です。また、聖霊を教師として聖書を学んできた私たちは、神学を教えている一般の教会とは違うという位置づけで、“教会”とは付けずに活動してきました。これに対し、「ぶどうの木は実体が見えない。得体が知れない」という声が上がっていました。しかし、T牧師は、“得体の知れないぶどうの木”について、どのようにでき、どのような活動をしているのか、直接会って確認したいと思って下さり、私たちとしては、12年ぶりに浜松の教会の牧師とゆっくり交わる機会が与えられました。

私たちは、「教会」という建物を持たず、市内の施設や、家庭で聖書勉強会をしているぶどうの木の在り方、それ故、皆が置かれた職場や学校で福音を伝え、集会に導いてきているという福音の姿勢、互いの顔が見えるよう円座になり、プログラムを作らず牧師が油の注ぎを受けて3時間半メッセージをする礼拝の在り方、集会に参加できない遠方の兄弟姉妹も同じ様にメッセージを受けることができるためのブログの配信、月曜日から土曜日まで羊たちがタイムリーに霊の糧を得たり、近況報告や証をして皆が状況を把握し、共に祈り合うためのグループラインにおけるメールの活用など、ぶどうの木の教会の在り方、牧会の仕方を話しました。驚きながら聞いていたT牧師は、「正直、クリスチャン人口が減り、教会はかたむいています。牧師会でも教会の在り方を変えていかなければならない!教会で人が来るのを待っているのではなく、もっと外に出て福音して行かなければならない!と話しています。ぶどうの木さんは初代教会のようだ。ここからはぶどうの木さんのような教会が増えていかなければならない」とおっしゃいました。

そして、日本に与えられている預言=“日本のリバイバル”や、ぶどうの木牧師に与えられた浜松に対する預言=“日本のリバイバルは日本のへそ浜松から起こる”という話を聞いたT牧師は、「励まされました!元気をもらいました!」とおっしゃり、ぶどうの木のここからの働きのためにお祈りして下さいました。

 

数年後、コロナパンデミックとなり、市内の施設を借りている私たちは、緊急事態宣言によって施設が使えなくなり、3か月間集会ができなくなりました。しかしその時にも、グループラインにおけるメールの活用と、ブログの配信によって羊たちは霊の糧をタイムリーに得ることができました。パンデミックが起きた頃に、牧師が携帯電話を変えたことによってYouTube動画が観れるようになり、マスコミが報道しないこの世の裏情報、ディープステートに支配されてきた社会の仕組み、ワクチンの危険性なども転送されてくるようになりました。最初は陰謀論に牧師がはまってしまったと思いましたが、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことをご自分を愛する者のために備えてくださる神が、聖霊によって牧師に与えている事であるのだと信じ、霊で受けていくと、信憑性が高いものであると分かるようどんどん裏付けされていきました。「陰謀論」とは人々の目を真実からそらすためにCIAがつくった言葉であって、実際は「陰謀論」ではなく「陰謀」であることがたくさんあるのだと分かりました。

 

ぶどうの木では、携帯電話のメールのトークルームが、集会とは別に設けられたもう一つの家族の食卓です。牧師はその中で24時間365日、霊の世界(聖霊対悪霊)を教え、みことばを与えて下さいます。牧師は何を感じているのか、また皆はそれを受けて何を思ったのかを発言することで、個人的なやりとりも、神の家族全体のやりとりもなされています。

またそれぞれの賜物によって聖霊が与えて下さったこの世の情報も共有されます。介護施設で働く人は、ワクチン接種後に多くの老人が亡くなっていることを目の当たりにしていますし、医療関係者は、ワクチンに対する情報が入ってきやすく、置かれている病院の医師の考え方、ワクチン後遺症の現状も実感しています。そのような兄弟姉妹の証言に加え、YouTubeを通して発信されている真実をもとに、『コロナワクチン後遺症についてのチラシ』も作成するに至りました。学校で、職場で感じる疑問や、家庭内の問題も、一人一人が家族の食卓でさらけ出すことによって、私たちはキリストの肢体一人の問題を皆の問題として共有して受け、共に悩み、考え、解決してきました。特に牧師は、羊から来る個人的なメッセージ一つ一つに丁寧に答えて下さるため、牧師に直接会えなくても、次の日曜日までには問題が解決していることがほとんどです。

一般的な教会では、日曜日の礼拝で牧師を通して神学的なメッセージを聞き、“良い話を聞いた”と思えても、結局月曜日から土曜日までは、この世の人と変わらない生活を送り、この世の人と同じように悩み、人を裁き、イエス様に祈っていても答えをなかなか得れないという信徒からの話を聞きます。しかし、一つの携帯電話で月曜日から土曜日までも皆と繋がっている環境であれば、常に生きたみことばが与えられ、その都度どう言動すれば良いのかはっきりと示されるため、道に迷うことはありません。

 

他教会の牧師から、「なぜぶどうの木の羊たちの成長は早いのか?なぜそんなに一人一人に証があるのか?」と尋ねられてきましたが、それはこのような牧会の仕方にあるのだと思います。その都度必要なメッセージを牧師や兄弟姉妹を通して得ることができれば、御霊による歩みを止めることなく、信仰で目の前のことに向き合っていけます。聖霊が「今!」というタイミングでみことばを行いに移すことができるなら、必ず勝利を得、証、祝福が伴っていくのです。また、神のみことばに反することを考えたり、行なったりしている事も、メールの中の一言や、本人が具体的に相談してくることによって分かるため、牧師や兄弟姉妹がすぐに霊的におかしいと察知してくれます。そして、訓戒を通して速やかに悔い改めに至ることができるため、サタンを遊ばせることがありません。そして、感謝なことに、携帯電話がない老人や子供たちが一人で参加していることはないため、家族が必要な学びを補ってあげることのできる環境も整えられています。

 

これは携帯電話が普及し、発展している今の時代だからこそできる牧会の仕方であると思います。そして、集会が終わった直後の日曜日の夜から、集会が始まる直前まで、ずっとメールでのやりとりがあるため、集会の席に着いた牧師は、その一週間の皆に起きた出来事や、成らせた証をもとにメッセージをすることができます。説教をあらかじめ考えておかなくても、話す題材はたくさんあるのです。そして、総括してみことばをもらい、霊の世界と目に見える現実世界を見分けながら、次の一週間に対する武具(みことば)を羊たちに与えます。キリストの肢体は一つであり、一人の身に起きたことは皆に関係することであるため、聞いている皆が、「今日の集会は私に必要なことが語られた」と思うことができ、霊が満たされて次の一週間を迎えることができます。

 

このような牧会の仕方を話すと、男性牧師からは「それは女性だからできることです」と何度か言われたことがありました。女性牧師ならではの細やかさなのか・・・女性という括りではなく、これは聖霊によってできることであるとぶどうの木牧師はおっしゃいます。生身の人間が、肉で努力して今や60人近くいる羊たちを養おうと思っても、限界があります。聖霊がその都度、誰に答えるべきか、何を答えるべきかを教えてくださり、また、牧師が応えられない時には、他の兄弟姉妹が聖霊に促され思いが入れられて応えることによって、成り立っています。

そして、互いのことを知る、一人が抱えている問題を皆に報告することを、「プライバシーの侵害だ!」と言う人、そのように考える牧師や、羊であるなら、決して群れとしての団結や、神の家族としての絆も生まれていかないでしょう。ぶどうの木に導かれてきたばかりの人は、最初確かに戸惑います。牧師だけに相談したはずのことが、皆に知られ、この世の感覚でプライバシーも何もないと思います。ですから、最初はそれを警戒して、「皆に転送しないでください!言わないでください!」と牧師に言う羊もいます。もちろん、牧師は霊の監督者として、羊の個人的な問題(相談)を二人だけの間にとどめるか、皆に知らせるべきか、イエス様に聞いています。その上で、皆に必要だと思うものは共有します。なぜなら、同じところにいる羊がいたり、すでに同じような問題に勝利している羊がおり、皆の益になるという信仰があるからです。もし、それを受けて裁いたり、偏見を持つような人がいるなら、その人がイエス様に裁かれます。それゆえ、受け取る側も神に心を見られ、試されているのです。この事一つとっても、群れ全体が、血肉で人を見て裁かないこと、悪霊に目を向けること、神の家族・隣人のために祈り、悪霊に囚われている状態なら縛り上げ追い出すこと、自分にも同じ点はないか吟味すること、自発的に愛の言葉、励ましの言葉、または訓戒の言葉を出すことなど、たくさんの学びをすることができます。

 

自分の事となると守りに入り、皆にどう思われるだろう、恥をかきたくない、これは墓場まで持っていこうと思っていたことなのに・・・牧師だから話したのに・・・と様々な葛藤がありますが、自分自身をも血肉で見ないという事を体得していくと、皆に自分のことを全て知ってもらえている事がいかに平安なことであるか解るようになります。本来、家族とは互いのことを良く知り、悩みや不安があれば言葉にして、励まし合ったり、解決するために力を貸すものです。それが肉の家族関係の中で希薄であればあるほど、神の家族の中に入った時に、皆に自分のことを知られることを嫌がります。しかし、何でも家族と話してきた人にとっては、そこまで抵抗はありません。神の家族をどこまでも“他人”と思っていたら、いつまでもお客様状態ですが、ぶどうの木の神の家族の一員として自分は導かれてきたこと、神が与えてくださった家族という自覚があれば、心を広くして自分のことを語り、周りの兄弟姉妹のことも受け入れることができるでしょう。神が「あなたはこの家族(教会)の一員です」と決めたのなら、そこに自分に与えられた神の家族がいるのであって、自分勝手に教会を渡り歩くことは御心に反することなのです。

 

ぶどうの木は、神学校を卒業した牧師が、「今日から牧師をします!教会を始めます!」と言って始まった群れではありません。私の母が一人聖書を学び始めたところに、妹が加わり、私が加わり、妹と私の友人や、聖霊がその一人一人の繋がりから新たな人を導いてきて人数が増え、家庭では収まらなくなったところで、市の施設を借りるために代表者が必要となり、聖書を教える側になっていた母が「牧師」という肩書きで代表者となりました。そこに、長老、執事、教師といった働き人も立てられていきました。ですから、一般的な教会とは全くやり方が違います。どこまでも家庭で行っていた聖書勉強会の延長です。それを、ぶどうの木集会に出席してくださった牧師方からは、「初代教会のようだ」と言われてきました。

私たちは難しい神学は分かりません。聖霊によってその都度示されたみことばから、牧師が今の私たちに必要なことを語ってくださるのがぶどうの木の集会です。それによって、みことばは過去のもの(歴史的史実)ではなく、現代を生きる私たちに与えられたメッセージであることを知り、聖霊の力によってみことばを行なうことで、みことばの一つ一つを体得してくることができました。

 

今週の集会は、上に書いてきた通り、私たちぶどうの木の在り方、牧会の仕方を再確認しましたが、救われてせっかくクリスチャンとしての人生を歩み始めたのなら、毎週教会に通い、牧師、兄弟姉妹が与えられているのなら、救われる前と同じ自分であってはならないと改めて語られました。

前回のブログでは患難前携挙説に一石を投じましたが、患難が起きる前にクリスチャンは携挙されるという教えは、「イエス様は優しいから、私たちを患難にあわせることはない」という非常に自分の肉に甘い考え方から生まれてきているものだと私たちは受けました。それと同様に、今週は、【信仰義認】という言葉も、クリスチャンを堕落させてしまうサタンの罠であると語られました。

 

救いの告白をしてイエス様を受け入れる=信仰をあらわしたら、義と認められ、天国に行ける。これを【信仰義認】と言い、多くのクリスチャンがそうだと信じています。要は、救われたら何をしても、どんな罪を犯しても天国だという事です。ぶどうの木ができた当初、他教会に通っていたクリスチャンたちが導かれてきたのですが、彼らは、牧師が罪を指摘しても、「だから、イエス様が来てくれました。私が弱いから、イエス様が来てくれたのです」と言っていました。イエス様は優しい方。イエス様がやってくださる。そのような考えをもった彼らを、牧師は神の愛と峻厳とをもって神の御心にかなった者にしようと、「イエス様が来てくださったから、何事も主にあってできるのではないですか!?イエス様が悪霊と戦う権威を授けて下さったのではないですか!?」と訓戒されましたが、彼らはそれを「きつい!イエス様はそんな言い方はしない!」と言って受け付けず、数か月で群れを出て行きました。

結局、【信仰義認】も患難前携挙説と同じく、自分の肉に甘いクリスチャンが“イエス様は優しい”という定義をもって掲げているものであることがよく分かりました。群れを出て行った人の中に台湾人で、代々クリスチャンの家庭で育ち、親族に牧師も数人いる人がいました。その人が群れを出て行く前に、「私はずっと聖書を読んできて、一つだけ分からないところがある。このみことばを信じたら、あとのみことばが全部違うような気がして・・・どういう意味か教えてほしい」と牧師に聞いてきたことがありました。それが、マタイによる福音書7章21節でした。

 

マタイ7:21本

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

 

アーメン宝石紫その人は、このみことばが、【信仰義認】と一致しないと思ったのです。しかし、牧師はじめ、もともとぶどうの木で学んできた羊たちは、その意味を理解し、確かにその通りだとみことばを読んで思いました。群れを出て行った彼らは、長年いた教会で、自分の肉に甘い信仰生活を送り、罪を犯しても主は許してくださる、何かあれば主が助けてくださるという信仰の土台に立っていたため、ぶどうの木に導かれて聖霊のバプテスマを受け、信仰で行う力を授けられても、それを行使することを選びませんでした。しかし、最初からぶどうの木に導かれてきた羊たちは、罪を犯しそうな時、困難なことが身に起きた時、「主にあってできる!」と言って肉を打ち叩き、勝利することのできる聖霊の力を体験していました。

ローマ人への手紙10章9節から10節に、【すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。】と書かれてある通り、イエス様を救い主として受け入れた時に、この世から救われましたが、それが天国に直結するのではなく、その最初のからし種一粒ほどの信仰を強く育てるために、聖霊の力によってみことばを行なうこと・神の御心を行うことが重要なのだと私たちは学んできました。それ無しに、「主よ主よ、助けてください。ゆるしてください」と祈っていても、天国には入れないのだと、このマタイによる福音書7章21節のみことばは教えているのです。

そして、イエス様の御名で悪霊を追い出し、預言をしていても、自分の地位や名声のためであったり、金儲けのためであるなら、同じく天国には入れません。

 

マタイ7:22~23本

その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

アーメン宝石ブルー

 

私たちは、信仰義認、患難前携挙説に流されず、いつ主が再臨しても慌てることのないように、何らやましい事はないと言える自分として生きることが重要であると改めて語られました。患難前携挙説は、ダニエル書の預言から来ていますが、今週はダニエル書の最後の章のみことばが与えられました。私たちは聖霊によって示された道を行き、自分を清め、白くし、練られていくことを求めます。賢い者として、大空の輝きのように輝き、多くの人を義に導き、神のみことば・御心を悟れる者でなければならないと語られました。そして、悟れない者とはどういう事か、使徒行伝のみことばを通して確認しました。

 

ダニエル12:1~13本

その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。

そこで、われダニエルが見ていると、ほかにまたふたりの者があって、ひとりは川のこなたの岸に、ひとりは川のかなたの岸に立っていた。わたしは、かの亜麻布を着て川の水の上にいる人にむかって言った、「この異常なできごとは、いつになって終るでしょうか」と。かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうと言うのを、わたしは聞いた。わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。常供の燔祭が取り除かれ、荒す憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至る者はさいわいです。しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。

 

使徒行伝28:23~31本

そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。『この民に行って言え、あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。〔パウロがこれらのことを述べ終ると、ユダヤ人らは、互に論じ合いながら帰って行った。〕

パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。

 

アーメン宝石赤

 

聖霊のバプテスマによって聖霊の力を受けないと、神の御心が分からず、聖書の教えが片手落ちになっていきます。神学的知識が豊富でも、その都度人と向き合っていく際に、相手がどんな気持ちでいるのか、何を求めているのか、聖霊によって霊を見分ける力や、神の第一の戒めである愛(愛情ではなく神の愛)が体現されていなければ、一切が無益です。イエス・キリストが何のために地上に来たのか、神学的に説明できても、愛をもって相手のために語ってあげることはできないでしょう。

 

第1コリント8:1a~2本

知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

 

アーメン宝石緑

 

【人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。】(ヨハネ15:13)とはどういう事なのか、私たちは約2か月間、N姉妹がある家族に対して働きかけている姿を通して学んできました。神が一つの家族をあわれみ、そこにN姉妹を遣わしました。N姉妹にとっては、肉を徹底的に打ち叩く凄まじい訓練の日々であったと思いますが、2か月間の霊的戦いがひと段落した今、相手のためを思って語った分、善を行なった分だけ、結んだ実を刈り取ることができるでしょう。そして、この2か月間、神の家族も一つ思いでN姉妹を励まし、支え、祈り、時にはみことばを頂いたり、N姉妹同様、自分の時間を使ってその家族と向き合うことができました。これも、N姉妹個人の問題として取り扱うのではなく、牧師が様々なやりとりを共有して下さったからできた事でした。他人事ではなく、同じキリストの肢体の問題であること。それを皆で解決していった経験が、主の軍隊としての私たちをますます強めてくれました。

これからも、イエス様の御心、イエス様が求めておられるクリスチャンとはどうあるべきかを考え、わきまえ知り、一人一人が確固たるキリストの教会・キリストの花嫁となっていけるよう、また、ぶどうの木がそんなクリスチャンを育てる良き栽培所となっていけたことを感謝して祈ります。

 

ガラテヤ6:5~10本

人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

 

ガラテヤ6:14~18本

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アァメン。


最後に証人Kさんの動画「私の好きなこと」がアップされたので、紹介しますキラキラぜひ、ご視聴くださいネザーランド・ドワーフ