聖霊による教会の在り方―1つになろうよ!!― | ぶどうの木 Good News

聖霊による教会の在り方―1つになろうよ!!―

holygirlですニコニコ

 

キリスト教会は、「聖書とは」について様々な角度から教えています。ぶどうの木では、聖書とは日常生活に根差し、生かすことのできる書物であると教えています。特にぶどうの木牧師は家庭を守る主婦のため、ご自身の経験から、聖書を土台とした家族のあり方を教えてくださいます。昭和の時代に育った牧師は、家族揃って囲む食卓が当たり前でした。学校から家に帰れば、必ず母親がおやつを用意して待っていてくれ、その日一日あった出来事をゆっくりと聞いてくれました。夕飯の時間になり父親が帰ってくると分かると、急いで部屋の中を整え、食卓に料理を並べ、帰宅を待ちました。そして、家族皆揃って食事を頂きました。父親は厳しく、箸の持ち方、食べ方が悪ければ叱ります。母親は子どもの様子を父親に話し、父親がそれを聞いて声をかけたり、職場での話、戦時中の話など、自分の体験をもって子どもに必要なことを話してくれました。もし母親が子供のことで困っていることがあれば父親に相談し、子は父親から訓戒されました。家族間に秘密はなく、皆がそれぞれの事を知り共有し、互いに励まし合い、近所の人たちも同じように声をかけ合い、注意し合い、生活していました。怒鳴られる、殴るは、愛情あるしつけとして当たり前でした。そんな家庭教育の中で育った牧師が養う群れが“ぶどうの木”です。

 

今の時代はどうでしょうか。家族の食卓に全員揃ってつくことができている家庭がどれだけあるでしょう。子供は塾に通い、母親は仕事をし、父親はないがしろにされ、親は子の機嫌を取ることばかりに気をとられ、まともに叱りしつけることができません。顔を合わせても会話がなく、それぞれがスマホやテレビに夢中です。両親が何歳なのか、誕生日はいつなのか、家族はどこで働いているのか、答えられない若者も多いです。家族であっても、自分の思いを素直に何でも話すことはできず、皆が無関心であるがゆえに孤独を抱えています。サタンのすることは、一人で問題を抱え込ませ、誰にも聞いてもらえない、理解してもらえない状態にして追い詰めます。現代は、そこから赤の他人である精神科医に助けを求めて、話を聞いてもらい、精神薬を処方され、薬漬けにされていきます。それがサタンの策略であり、日本人皆が一人でこの世を生きるヤギにされているのです。

クリスチャンは、羊に例えられます。羊飼い・牧者は、イエス様の声に忠実に聞き従う牧師です。羊は群れで行動します。群れから離れた途端、ほえたけるししに狙われてしまうので、足並みを揃えて慎重に歩きます。また、聖書を共に学ぶ人たちのことを、「兄弟姉妹」「神の家族」とも言います。兄弟姉妹、家族ならどうあるべきか・・・ぶどうの木牧師の中にあるのは、昭和の家庭像です。父親の教訓と母親のしつけが二本柱としてしっかりとあります。父親(男性)の務めは、外でしっかりと働いて家族を養い育てられるだけの給料を得てくることです。天の父である神は、私たちが何不自由なく暮らせるよう天地万物と日常の糧を与え、養ってくださっています。母親(女性)の務めは、子を社会に役立つ人間にするために家庭で教育し、送り出すことです。ぶどうの木牧師は、神に喜ばれるクリスチャンに育てること、社会に出て福音宣教していけるクリスチャンとして送り出すことを自身の務めだと思って、日々教育してくださっています。

 

ぶどうの木集会は食卓を囲む家族のように円になって行ないます。家族の中に隠し事はありません。母である牧師は、24時間365日、いつ皆が帰ってきてもいいように待機し、話を聞き、飢え渇いている霊をみことば(霊の糧)で満たし、できていないところは戒め、正します。そして、月曜日から土曜日はメールや交わりで、日曜日は大家族の食卓で、神の家族、兄弟姉妹がどんな状態にあるのか共有します。一人に起きた喜ばしい出来事を皆で分かち合ったり、一人の悩みを全員で聞き、その解決方法を聖書から得て解決しています。牧師も羊も、食卓の真ん中にイエス様がおられると思って話をします。それぞれが神の御計画により集められたキリストの肢体であり、各自が通っている訓練や霊的戦いを知ること、勝利の証を聞く事は、非常に大切です。同じ家族内、キリストの肢体の中で起きていることですから、他人事で終わらせられるような事柄はありません。見ること、聞くこと、体験すること全ては、神の御計画の内にあり、自分自身もいつか通る道だからです。もし、人の話を聞いて裁いたり、牧師が聖書に反することを教えたり、誰かをおとしめるために陰口のように皆に話すなら、主イエス様に裁かれます。そんな教会は、神に抜き取られるでしょう。人生をうまく生きていく上で、“人を知る”ことは大切です。独善的にならないよう他人の意見、思いを聞くこと、何を求めているか観察することは、クリスチャン以前に神に求められている重要なことなのだと語られました。

 

他教会から来た姉妹は、皆が互いの事を良く知っている群れの在り方と、グループラインに届くメールの数に驚き、最初は戸惑ったそうです。日曜日は牧師の説教を聞くだけであり、平日も祈り会はあっても、そこまで密接的な牧師との関わりはなく、いつしか兄弟姉妹間で交わることも許されなくなっていた教会にいたからです。「日曜日に良いメッセージを聞いた」で終わってしまい、日常生活でそれをどのように実践するかは分からずに、クリスチャン生活を送っていたそうです。しかし、ぶどうの木に来て、集会終了後から集会直前まで、牧師が兄弟姉妹からのメールに一つ一つみことばや、みことばを土台に応えているのを目の当たりにし、みことばが日常生活に介入し、みことばの内を生きるとはこういうことなのか!と分かったと話してくれました。集会においても、牧師が一方的に祭壇から準備したメッセージを語るのではなく、群れの羊全員の顔を見渡せる同じ円の中から、それぞれの霊的状態を感じ、イエス様に教えてもらいながら必要の一切を語っていきます。A姉妹には、B姉妹の証が必要であると分かれば語ってもらい、C兄弟の霊的状態は皆にも共通する事だと思えば、C兄弟を教材にして牧師が分かりやすく語ります。この世の人から見たらプライバシーも何もないと思われるでしょうが、クリスチャンは自分自身も相手も、肉によって知ることはしません。霊の食卓だからこそ、皆が自分自身をさらけだすことができます。霊の世界においては、それで皆が励まされたり、自分を吟味し悔い改めることができ、解放されていくのです。

 

肉においては、生まれ育った家庭環境も、それぞれの常識、価値観も違う羊たちです。救われる前までの的外れな生き方を正すことは、生半可な気持ちではできません。家庭教育で身につけてこなかったこと、無関心(他者に関わらない)、無感心(何も感じない)、無観心(観て悟らない)できてしまったことは、天の父である神の教訓と母(ぶどうの木牧師)の教えによって、徹底的に正し、しつける必要があります。時には声を荒げ危険だと知らせます。子供がフラフラ道路に出てダンプカーにひかれそうだと分かった時、親が「危ない!」と叫び、突き飛ばしてでも子どもの命を守ろうとするのと同じです。

ぶどうの木という一つの群れに導かれるという事は、その群れにオギャー!と赤ちゃんが誕生したという事なのだと私たちは語られました。年齢は関係なく、その日導かれ、救われクリスチャンになった瞬間に、神の国に誕生したのです。すでにお兄さん、お姉さんがたくさんおり、クリスチャンとしてどう歩むべきか、自分の体験や証をもって教えてくれます。母である牧師は、幼子にあわせて霊の乳を与えていきます。クリスチャンになっても肉がついている以上、サタンの支配下であるこの世で生きなければなりませんから、暗闇のこの世で光輝くクリスチャンは、一番サタンの攻撃を受けます。だからこそ、毎週家族の食卓に集い、霊の糧を得、武具をつけることを欠かしてはならない、天の父の教訓(みことば)と母である牧師の教えを捨ててはならないのだと語られました。

 

箴言1:7~19本

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。すべて鳥の目の前で網を張るのは、むだである。彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。

 

アーメン宝石ブルー

 

先週に引き続き、牧師が今週最も伝えたかったことは、聖霊の力、聖霊の働きでした。神の家族のコミュニケーション一つとっても、生身の人間同士であれば互いの意見がぶつかり合い、どちらが合ってる間違っているという話になりますし、牧師を血肉で見ていたら、言われた、やられたと裁いて終わりです。牧師が牧師のトーク術や、培ってきた経験や、権力だけで牧会しているなら、羊はいつしか不満を抱き、群れは一つになっていきません。全員の飢え渇いた霊が満たされ、確実に各自がサタンに勝利して良い実を成らせていくためには、聖霊の力、働きが必要不可欠です。牧師は聖霊の賜物の中にある【啓示の賜物・知る力(知識の言葉・知恵の言葉・霊を見分ける力)】によって導きをします。牧師が羊をカウンセリングする時、また、集会においても、聖霊がその場を支配して下さるから、羊は話すつもりもなかったような事や、誰にも話したことがなかった事まで話し始めます。そこで交わす言葉や、見聞きした様々な事象から、牧師はその羊がどのような霊的土台があって問題を来たらせているのか、その羊が何の悪霊力に囚われているのか、どのようなサタンの策略があるのかを、【霊を見分ける力】によって見極めます。そして、交わり(カウンセリング)の中で示されてくる【知識の言葉】から、霊の世界での聖霊の働きと悪霊の策略を羊に伝え、【知恵の言葉】によって羊が勝利に向かって進めるように導くのです。

 

【しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。】コリント人への第1の手紙2章9節~11節)

と書かれてある通り、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを啓示してくださるのは御霊・聖霊です。その啓示・聖霊の声は、先週語られた通り、自分の内側に思い煩いや裁きがあったり、自分の計画を握っていたら分かりません。日常生活に追われ忙しかったら、たとえ啓示が与えられていても、悟れないのです。聖霊はきよいところにしか働かないからこそ、クリスチャンは何も握らず空っぽの器として自分自身を神に明け渡さなければなりませんし、牧師であればなおさら、自分を明け渡して語っていなければ、自分の意見で羊の人生を導きコントロールすることになり、いつの間にかその教会はカルト化していってしまいます。

恐ろしいのは、御霊・聖霊と、サタンのすることは紙一重であるという事です。「イエス様に言われた」「御霊によって啓示された」と思っていても、サタンが光の天使に擬装してあたかもイエス様だと思わせるように働きかけている場合があります。それを見分ける方法としては、御霊・聖霊であれば、一つ一つの物事が秩序正しく行われていき、2人、または3人の口の証言が与えられていきます。(誰かに相談して意見を得たり、事情を説明してみことばをもらってもらうのではなく、何も話していないのに不思議な導きで周りから祈りの答えが与えられる)逆に、サタンであれば、無秩序で、誰かを傷つけたり、不平不満があがったりしてきます。自分の握った計画を手放さないまま祈り、シナリオ通りになるように自ら努力し、疲れさせられていきます。御霊なのか、サタンなのか、霊を見分け、試すためにも、自分の心に十字架の血を注ぎ、一度全てをイエス様の御前において、知性・感情で納得できるまでみことばを求めていくことが必要であると語られました。

 

そして、御霊があってはじめて、感謝、恵み、恩が分かります。救われる前に、たくさんの不平不満を抱えて生きていたとしても、救われ、聖霊のバプテスマを受けると、善にさとくなり、今置かれている現状に対して、感謝が生まれ、神の恵みが注がれていたことに気づき、今まで不満を抱き裁いてきた人に対する恩を感じることができるようになるのです。今週ぶどうの木に導かれてきた姉妹を通して、聖霊のバプテスマを受けた後、感謝の気持ちに満たされ大泣きしたという証を聞くことができ、改めて聖霊のバプテスマを受けて生まれ変わること(Born again)による変化と力を語られ、感謝でした乙女のトキメキ

 

また、聖霊のバプテスマを受けていないと、霊の世界で起きていることが分かりません。頭で理解できないこと、牧師が霊でカウンセリングし導いていることも、カルトではないかと判断してしまいます。先日も、ある兄弟が、自分が参加していない交わりの中で、妻が自分としてきたポケモンカードの転売、それを家計の足しにしてきたことを話したことに対して、「なぜ俺がいないところで話したんだ!一緒にいる時に話したら良かったのに!」と怒ったと聞きました。自分の知らないところで陰口を言われている・・・聖霊の導きが分からないとそのように思ってしまいます。しかし、本来そのような話をするつもりがなかった交わりで、聖霊の導きで、聖霊が臨み、妻がこれ以上隠していることができなくなって語り出したことであったこと、光に出したことで妻は解放され、いっきに聖霊が働いてくださって、転売する必要ないぐらい職場の給料が何倍にも上がったという証が伴ったことを目の当たりにした兄弟は、神のタイミングで光に出された話であったことに納得しました。「一緒にいる時に牧師に話せばいい」・・・もちろん早いうちにそのようにできれば一番良かったですが、今回は、それが肉の考え・計画であって、聖霊は神のみ旨に向かって働かれ、導いて下さるのだと、私たちも学ぶことができました。

 

第1コリント2:9~16本

しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

 

アーメン宝石緑

このみことばは、牧師たちがなかなか説教に取り上げないそうです。どういう事なのか理解できないからだそうです。しかし、聖霊のバプテスマを受け、聖霊の働きを知る牧師のもとで教えを受け、この世は聖霊対悪霊の戦いであることを徹底的に学び体得してきた私たちには理解できることに感謝しました。

そして、聖霊の働き、力を語ること、聖霊によって出会った人に福音・真理を語ることをやめさせようとする迫害、患難に対しては、エレミヤのみことばが与えられました。自分の心で自分を閉じ込め、語ることを躊躇していないか吟味しました。

 

エレミヤ20:9~13本

もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。多くの人のささやくのを聞くからです。恐れが四方にあります。「告発せよ。さあ、彼を告発しよう」と言って、わが親しい友は皆わたしのつまずくのを、うかがっています。また、「彼は欺かれるだろう。そのとき、われわれは彼に勝って、あだを返すことができる」と言います。しかし主は強い勇士のようにわたしと共におられる。それゆえ、わたしに迫りくる者はつまずき、わたしに打ち勝つことはできない。彼らは、なし遂げることができなくて、大いに恥をかく。その恥は、いつまでも忘れられることはない。正しき者を試み、人の心と思いを見られる万軍の主よ、あなたが彼らに、あだを返されるのを見せてください。わたしはあなたに、わたしの訴えをお任せしたからです。

主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主は貧しい者の命を、悪人の手から救われたからである。

 

アーメン宝石紫

 

私たちは聖霊の働き、力を再確認した上で、聖霊による教会の在り方、クリスチャンとして注意すべきことについてエペソ4章を通して学びました。

 

エペソ4:1~32本

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。

さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

 

アーメン宝石赤

霊がよみがえり、聖霊による一致を守り続けるなら、一つになることができます。肉では決して一つになることはできません。教会の内部を見ただけで、それは一目瞭然です。聖霊のバプテスマを受けたのなら、たとえ教団教派が違っても(そもそも分派分裂していることがおかしいですが)、どこの国にいる人でも、教会を越え、国境を越えて、全世界の人たちが神の家族になれると信じます。キリストの肢体は一つであり、それぞれ役割が違います。違うからこそ成り立っているわけであって、互いを尊重して当たり前です。そして、御霊も一つです。一つなのだから、答えも一つです。たくさんの解釈、答えがあるなら、それはどちらかが自分の意見を言っている、もしくはどっちも自分の意見を言っているということでしょう。神によって召された人が、それぞれの役職に立っていなければ、キリストのからだは成り立たず、霊の一致がないのだと語られました。また、「一つの望み」と言われる時、教会を大きくすることが望み、自分の夢が叶えられることが望みと言う牧師やクリスチャンがいますが、聖霊によって神の御心を知っているなら、「誰一人地獄に行かせたくない」が望みになっているはずであると語られました。

みことばの後半は、今皆が問われ、通されているところでもあります。お互いにキリストの肢体であれば、真実を語っても解り合えるでしょう。神の聖霊を悲しませないために、いつも聖霊に忠実に、きよさを保って生きなければならないと語られました。

 

そして、エペソ4章に至る2章、3章を通しても、キリストの奥義を再確認しました。

 

エペソ2:1~22本

さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

 

エペソ3:1~21本

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロ――わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務について、あなたがたはたしかに聞いたであろう。すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでいてもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである。

こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

 

アーメン宝石赤

同じ聖霊を受けていたら霊の一致があり、争うことなく平和をきたらせます。逆に、自分の欲、願望、自分の義(男義)で生きる人がいると一つになれません。私たちにはパウロに与えられた聖霊と同じ聖霊が与えられています。私たちが目指すべき姿は、神の家族です。互いに愛し合い、許し合い、主を賛美し、喜びの笑いが満ち溢れるハートそんな姿、神の栄光をあらわすために、救われ生かされています。最近、賛美が終わった後に神の家族一人一人と「ハレルヤ!」と挨拶をし、ハグをしたり、握手をする時間をもうけているのですが、その時の皆のにこやかな表情こそ、神が望まれるクリスチャンの栄光の姿、平和をきたらせる姿であると語られました。全ての栄光はイエス様に帰し、イエス様ただ一人があがめられるようになる世界を目指して、ますます皆が置かれた場所で輝き、影響を与えていけたことを感謝して祈ります赤薔薇地球まじかるクラウン

 

最後になりましたが、昨日10月15日に、絵本「1つになろうよ!!命の絵本~命の糸に会う本」が文芸社より発売されました!!キラキラ

 

 

 

 

 

 

全国書店の文芸社コーナー、絵本コーナーに置かれていますぶどうぜひお近くの書店に足を運んでみてくださいおねがい

 

<文芸社コーナー>

 

 

 

 

 

 

<絵本コーナー>

 

 

 

 

 Amazonからもご購入頂けますニコニコ

 

 

一人でも多くの方に読んで頂き、日本人が人としての正しい生き方にもう一度たちかえり、聖書を土台に家族、家庭が築かれていくことを祈ります虹そして、各家庭で起きる小さな始まり・変化が、社会を、国を、世界を変え、全人類が「神の家族」と言える日が訪れることを信じます地球乙女のトキメキ

 

ハバクク2:14本

海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。

 

アーメン王冠2