全てを捨ててイエス様に従っていく17年目スタート | ぶどうの木 Good News

全てを捨ててイエス様に従っていく17年目スタート

holygirlですニコニコ

 

昨日はぶどうの木17年目初集会という事で、福岡、仙台、長野、東京、横浜、奈良、名古屋からも兄弟姉妹たちが集まり、共にイエス様をほめたたえ、ここからの歩みに必要な霊の糧・メッセージを頂きました。

 

この世はサタンの支配下であり、私たちの日常生活は常に聖霊対悪霊の攻防戦です。自分が肉の思い、情に流されていれば、聖霊の動きは止まり、悪霊に門を開くことになります。

昨日の朝、2か月前に子どもが誕生した夫婦(A兄弟とB姉妹)の母親であるC姉妹から、A兄弟が熱と喉の痛みで指先が硬直してきたと牧師に電話がありました。現場にいる側としては、救急車を呼んだ方がいいような状態だと聞き、牧師はイエス様に聞きました。牧師自身が霊の世界の戦いを知らず、悪霊との戦いに勝利してきた体験がなければ、この世の人と同じように「では、早く救急車を呼んでください!」と言ったでしょう。一刻を争う状況の中で、牧師は自分の羊を守るために的確な決断を迫られました。

ちょうど前日にC姉妹のお宅に兄弟姉妹が集まって交わりをした際、A兄弟はすでに熱と喉の痛みと戦っていて交わりに参加できない状態でした。その中で、A兄弟が久しぶりに妹と義理の弟と一緒にコンサートに出掛けたこと、A兄弟とB姉妹が産後1か月B姉妹の実家(C姉妹の家)でお世話になるはずが、母と同居している祖母の「まだいたらよい。どうせなら家を改装して同居すればよい」という言葉に甘えて、2か月以上一緒に住んでいることが明るみになっており、牧師の霊の引き出しに入れられていました。

牧師はA兄弟の状態が、死の使いによる攻撃であると分かり、電話越しにA兄弟に対して、「まずは訳が分からなくても、イエス様ごめんなさいと悔い改めて」とおっしゃいました。A兄弟は言われた通りに悔い改め、続けて異言で祈ることもできました。そこから、牧師が死の使いを縛り上げて追い出すと硬直がなくなり、熱が下がって状態が落ち着き、意志を向けて集会の席にも着くことができました。牧師の霊が「一緒に行った方たちは大丈夫ですか?」と尋ねていたのですが、なんと昨日の夜中に一緒に行った妹と義理の弟が嘔吐と下痢で救急車で運ばれていたそうで、驚きました。幸い、点滴をして今は自宅に戻り安静にしているそうです。

 

A兄弟にとって、コンサートは古い自分に戻される場所です。以前集会から半年ほど離れていた時期がありましたが、そのきっかけとなったのもコンサートであり、日曜日に集会に通い続けたらコンサートに行けなくなるという事が不満となり、握ったものを手放せずに群れを離れました。しかし、B姉妹の妊娠が分かり、一家の長として大切な事は何か、聖書を土台に家庭を築いていく事だと悟って、再び集会の席に着くようになり、夫婦揃って学び、出産に立ち会った際には、一家の長としてイエス様に繋がって我が子を守っていくのだという決意表明を皆の前でしてくれていました。

しかし、B姉妹の実家で共に過ごすうちに、妻の実家の霊力にまかれ、なかなか家族3人の一家の長として霊的に立つことができず、甘えが生じていきました。3人で住んでいたら、2時間おきに授乳をしている妻を置いてコンサートに行くことなどできなかったでしょう。実家でお世話になっているからこそ、看て助けてくれる人が他にもいることに安心し、趣味のコンサートに出掛けてしまったのです。そして、そのコンサートでどんな言葉を出し、どんな曲を聞いて自分の体を明け渡してしまったのか・・・水も飲めないほどの強烈な喉の痛みは、神から来ていない言葉を吐いてしまったことを霊的にあらわしていました。

B姉妹も実家に甘え、「同居したらいい」という祖母の言葉、女預言者イゼベルの霊の声によって門を開いてしまっていました。

それがはっきり解ったことが集会前に起こりました。やっとのことでA兄弟と子供を連れて集会に来たのに、停めてあった車に他車がぶつかってきたのです。それを目撃できたのは、大事な集会にもかかわらず、賛美のプロジェクターを忘れてしまった事が分かり、姉妹が取りに戻ろうと駐車場に行ったからでした。目撃者がいなければ、ぶつかった車の運転手は去ろうとしていたため、まさにギリギリのところで聖霊が働いてくださいました。幸い、B姉妹の車はどこにぶつけられたのか分からないほど無傷で守られましたが、相手の車はバンパーが壊れて落ちるほどのひどい衝撃を受けていました。子どもと一緒に乗車していたら大変なことでした。この件についても、最初はA兄弟に対するさらなる攻撃かと思いましたが、イエス様は牧師を通して、B姉妹と祖母の関係であるとおっしゃいました。

もともと仏教の霊に囚われている祖母は、家の中でもよく迫害者としてサタンに使われていたそうです。B姉妹の結婚式で牧師が「仏教は宗教であって、神は聖書の神お一人、真理は一つである」という話をした事に対しても、「仏教の悪口を言われた!」と怒っていたそうです。その霊力に打ち勝てずに、B姉妹も乳腺炎となり、集会に行けないと思った時がありましたが、集会に行けば癒されるという信仰で一歩踏み出したことで、集会中に完全に癒される体験もしていました。その時に語られたのが、仏教の霊との戦いについてでした。昨日ぶつかってきた車が祖母の車と同じ色であったことも偶然はなく、サタンに使われる祖母に何を言われても、堅く立って神の宮を守り、霊力を断ち切る言葉で勝利していかなければならないと語られました。

そして、B姉妹は、今回の事を通して、夫であるA兄弟よりも母親に頼ってしまい、完全にA兄弟が一家の長ではなくなってしまっていた状態であったことを悔い改めました。

 

家族のあり方と、霊の世界を学んできた私たちにとっては、17年目スタート初日に、聖霊に委ね、イエス様・みことばの守りの中にいる私たち神の子対、サタン・悪霊とのリアルな霊的戦いを体験体得できたことに感謝しました。そして、肉は動揺しても、霊は奮い立つのが真のクリスチャンであること、肉の動揺のままに、物事を判断していくならば、決して霊の世界の戦いは分からないのだと語られました。

特に体への攻撃に対しては、すぐに薬を飲みたい、病院に行きたいと、弱くなった肉は慣れ親しんできたやり方を求め、そこに癒しがあると思いがちです。しかし、霊の世界においては、まずその状態が、迫害(お礼参り)なのか、刈り取りなのか見極めることができます。いずれにしても、悪霊が出入りしている門を閉じるために、状態を来たらしたことをイエス様に悔い改め、攻撃してきている悪霊と戦います。その中で、迫害であれば、何に対しての迫害なのか、刈り取りであれば、何をしての刈り取りなのか、イエス様が教えてくださいます。刈り取りの場合、自分の霊は神に言い逆らった瞬間、罪を犯した瞬間をよく分かっているはずですから、具体的に悔い改めることで、速やかな癒しに繋がります。

A兄弟の場合は、言葉がでないほどの状態でしたが、「イエス様」とお名前を出すことができました。私たちの口から「イエス様の御名」と「イエスの血」という言葉が出る間は、サタンは殺すことはできません。今回A兄弟は自分で悪霊の追い出しをできない状態であったため、牧師が「A兄弟は神の子だ!お前たちが指一本触れることを許さない!聖書に、【私がゆるす罪は誰の罪でもゆるされる】と書かれてある!私はA兄弟をゆるしている!死の使いよ、出て行け!」と祈りましたが、自分自身で行う場合も、「サタンよ!私を誰だと思っている!私は神の子だ!私に何をするか!イエス・キリストの御名によって命じる!〇〇の霊、〇〇の霊、〇〇の霊よ、私から出て行け!」と祈ります。サタン、悪霊にも人格があります。ヤクザと同じです。そうであれば、弱々しい小さな声で言っていても、嘲られて退いてはくれません。「私は神の子だ!」と言ってサタンをひるませ、自分を苦しめてきている事に対する腹立たしさと憎しみをもって悪霊を追い出しているかと問われました。

また、ぶどうの木にはサタンに打ち勝つみことばをまとめた冊子や、病気の症状に合わせたみことばが羅列してある本があるので、幼子のうちはそれを読んでみことばを蓄えながら、みことばを読み上げて「こう書かれてある!」と言って戦えば良いですが、成長と共に悪霊も手下のチンピラレベルから親分が出てくるようになりますから、もっと強く勇ましく生きた神と共に霊の世界を戦っていかなければなりません。霊に蓄えてきたみことばを的確にサタン・悪霊につきつけて、戦うのです。聖書はサタンが一番嫌がる神と人間の契約書ですから、いかに「聖書に~と書かれてある!」と宣言して、みことばの矢を放てるのか、また、状態だけを見て頭痛の霊、咳の霊、熱の霊を追い出すだけではなく、その頭痛を来たらせているのは、何なのか、イゼベルの霊、頭脳偶像礼拝の霊、3代4代に渡る呪い祟りの霊か・・・もっと深く霊の世界を見極めて根底から悪霊力を断ち切らなければならないと語られました。

私たちはクリスチャンとして悪霊と戦う権威を頂いていることを忘れてはなりません。その権威を行使し、悪霊に勝利すればするほど信仰が強くなります。牧師が今回救急車を呼ぶことよりも、悪霊との戦いだと判断して勝利できたのも、自分自身が数々の霊的戦いに勝利してきたからです。毎回同じ判断ではなく、時と場合に応じてその都度イエス様に聞いて、どうするべきか判断すること。その先に命に至る道があるのだと語られました。

 

そして、先週、先々週と3代4代に渡る呪い祟りの霊、女預言者イゼベルの霊について語られてきて、今週の集会ではその霊力を完全に断ち、足の下にするみことばが与えられました。

 

マルコ10:27~31本

イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟(肉の父は兄弟となる)、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。

 

アーメン宝石ブルー

私たちはこのみことばを通して、何も握らず、全てを捨てているかと問われました。つまりは、自分の人生を神にゆだねきれているかという事です。家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑(仕事)のどれか一つでも握っているなら、また、将来あれをしよう、これをしようと自分の計画を握っているなら、私たちクリスチャンはイエス様のために生きているとは言えません。特に肉の家族への依存や、「私は〇〇家の長男だから」という思い、いずれは親の面倒を見て、家を守っていかなければならないという思いを持ち続けているなら、それは思い煩いであって、義理人情、ヒューマニズム、道徳教育をカシラとさせる女預言者イゼベルの霊(日本人の律法の呪い)に囚われたままであり、全て主にゆだねているとは言えないのだと語られました。

パウロはイエス様のために生きました。クリスチャンは全てにおいて、主の御心であるならば、あれもしよう、これもしようと言うべきです。主に示されたら、どこにでも行ける準備をするのが、クリスチャンの生き様です。その時に、肉の家族のことは神がかえりみて下さいます。牧師は自分の両親と義理の両親4人をクリスチャンにして天に送りましたが、両親の入院中、また葬儀の段取りなど、気が付いたら周りが動いてくれたことで、何も煩うことなく、主の御用に差し支えることなく済ませてくることができました。それも神のなさり方であったと証して下さいました。

情欲が絡む肉の家族との関係においては、イエス様をまず一番にすることで、二番目として扱われる家族からは「冷たい!非常識だ!」と迫害の声も上がるでしょう。みことばを読めば、神はその事も御存知であることが解ります。しかし、握っているものを捨てたら、全てを新しくして100倍にして返してくださるのが神です。見える状態は一時的であるのに、見える状態から一つのものを握ってしまうと、あとのものが見聞きできなくなってしまいます。見えないものこそ永遠であって、私たちは、【主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。】というみことばを信じて、神のために自分自身を捧げて働くことで、その約束を身に受けていくことができるのだと語られました。

神仏への日本人の祈りは自分の欲望を求めるものですが、クリスチャンの祈りは、何も握らず御心のままにと言えるものです。【主の霊のあるところには自由がある】と書かれてある通り、家に縛られることなく、情欲の人間関係を断った時、私たちクリスチャンは自由です。そのように自由になった私たちは、トラクト『日本人の皆様へ』に書いたように、今だに伝統・文化、宗教、死、罪、生きるという5つの重荷を負わされ、神仏の囚われ人となっている日本人の解放のために福音宣教していかなければなりません。

 

心が満たされず、霊が飢え渇いている日本人は、心身にサタンの攻撃を受けて弱体化しています。

10月15日に絵本『1つになろうよ!!命の絵本~命の糸に会う本』が文芸社より出版されますが、その冒頭の前書き文に次のような文があります。

『コロナ禍の3年が過ぎましたが、“今だけ、金だけ、自分だけ”の事しか考えていない人たちが、生命を軽んじ、利益を得るためなら自分勝手に何でも行い、媒体を通じて人々を自分たちにとって都合が良いように洗脳してきたことが明らかになりました。人類の的外れな生き方(罪の蓄積)の結末が、コロナウイルスという生物兵器を生み、コロナワクチンという時限爆弾の投下を引き起こしました。目には見えない第3次世界大戦とも言われる戦争下で、グローバリスト達により世界的に人口は削減され、「コロナウイルス」よりも、「コロナワクチン」で苦しむ人々、亡くなる人々が後を絶ちません。自分なりの信念をもって一生懸命生きていても、世界的パンデミックが起きたら身動きがとれず、何一つ思い通りにはいかない、いつ死ぬか分からない、何を信じて生きて行けばいいのか分からない、不安と恐怖に満ちた世界となってしまいました。』(絵本より)

たった1%の富を追い求める人たちが自由にお金を刷れる世の中で、そのお金を使った小児誘拐、人身売買が行われると共に、99%の人間が奴隷のように彼らの利益のために働かされているのですが、それに気づき変えようとしてきた人々は、今まで暗殺されてきました。その中にジョンFケネディジュニア(ジョンFケネディの息子)がおり、彼の墓は上空から見るとアルファベット17番目のQの文字になっているそうです。そして、今世界の闇を暴き、戦っている人がQと言われています。私たちはコロナ禍で17という数字も啓示でよく見せられてきたこともあり、ぶどうの木がこのタイミングで17年目を迎えることにも霊的意味があると語られてきました。牧師は昨日の集会で、「17年目は、ますます真実が明らかになっていくと預言します」とおっしゃいました。私たちはまだ見ていないことを望み、忍耐してそれを待ち望みながら、17年目を一つ思いで歩んでいけたことを感謝して祈りました。

 

ローマ8:12~25本

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。


アーメン宝石緑

 

集会後半は、証の時間となり、4人の姉妹たちが生きた神イエス様との歩みを証してくれましたぶどう10代の中学生、20代の大学生、30代、40代と、各世代が自身の置かれている状況の中でイエス様を通して語られたこと、悔い改めたことがあり、証を通してイエス様の愛と力を見ることができました。

さらに、今回長野県からN姉妹のご両親が来られたのですが、76歳のN姉妹の父親が、19歳の時に正しい道徳を知りたくて聖書を購入していたことが明るみにもなりました。しかし、どういう意味か分からず、ずっとしまってあったそうです。そんなN姉妹の父親は、昨年12月、突然脳の血管が詰まって倒れ、手足に麻痺が残り、コロナ禍で面会できない病院で5か月過ごすことになりました。一時はどうなる事かと思いましたが、ぶどうの木の皆が祈ってくれていることを励みにされ、回復し、帰宅することができました。まだ、左手だけ不自由ではあるものの、N姉妹が運転する車で5時間かけて、今回19歳の時に購入した聖書をもって、皆の前に元気な姿を見せてくれました。サタンはN姉妹の父親の命を狙いにきましたが、イエス様は19歳の時にご自身に意志を向けたN姉妹の父親を守り、導いて下さったことが分かりました。いつ何が起こるか分からない中で、イエス様を求めた人、イエス様を救い主として受け入れた人を決して見捨てないのだと語られ、改めて神の守りの中に入っている事の大切さを痛感し、偉大なる神の愛に感謝しました。

 

集会後は、絵本「1つになろうよ!!命の絵本~命の糸に会う本」が10月15日に文芸社より出版されることを記念して、愛餐会を行ないましたハート6人掛け11卓のテーブルに、各夫婦、親子、家族が集い、久しぶりの食事会となりました。池袋マナ教会の小板牧師も招き、祝辞も頂きました。小板牧師は絵本について、これは聖書に忠実に書かれていると思って自分は受け止めていたが、異邦人であった自分の家族にもすでに大きな影響を及ぼしていることを証され、こんな世の中だからこそ、日本人に今一番必要な本だと絶賛して下さいました。そして、この絵本も福音も、次世代に繋げていくものであり、主イエス様を信じたら家族も救われていく、この町にはイエス様の民が大勢います!と語ってくださり、皆が力強くアーメン!と霊で受けました。

 

また、絵本の絵を描いたN姉妹は、今回両親も共に祝いの席に着くことができた事に感謝しながらも、「自分は絵本の内容から一番遠い人間だったから、この絵本の絵を描かせてもらえたと思います。救われる前は両親の関係を見ていて幸せそうには見えず、結婚は大変だ、子どもができても、私みたいな子どもが生まれたら大変だと思い、結婚願望がありませんでした。しかし、牧師の家族を見て、こういう夫婦関係、家庭を築きたいなと思いました。友人ができちゃった結婚をした時、聖書真理を伝えたい!結婚のお祝いに渡せるようなものを作りたいと思い、2年間あたためてきた思いを牧師や兄弟姉妹に伝え、絵本の形にすることになりました。そして、今回父が倒れた時に、母がゾンビのようにやつれてしまい、退院してからは、献身的に看病する姿を見て、仲が悪いと思っていた両親にも私が知らなかった絆、愛があったのだと分かりました。父が倒れた時は、私はクリスチャンで家族のことも祈ってきたのに、どうしてこんな事が起きるのか!?と思いましたが、そこにも神の御計画があり、万事が益となって今日という日を迎えられたことを感謝します」と証してくれました。

 

私も絵本に携わった者として、昨日の朝、夫と共に絵本を読み返しました。夫婦、家族間で様々な問題が生じた時、神が教える夫婦、家族のあり方とは何かを教えてくれる、初心に戻してくれるのがこの絵本であると改めて思いました。50個以上書かれてあるみことばも、一つ一つ霊にすっと入ってきました。そして、家族のあり方だけではなく、命の繋がりについても教えているのがこの絵本であると思いました。命は繋がっており、食卓を囲む家族は時代ごとに変わり、子々孫々と受け継がれていくものです。3代4代に渡る呪い祟りの霊はありますが、先祖をないがしろにしろと神はおっしゃいません。受け継がれてきた命に感謝することは当然であり、その上で今を生きる人が最も大事であると神は教えています。与えられた命をどう生きるのか、その答えは聖書に書かれており、神を恐れ、その命令を守ることが人間の本分です。全ての人間が、的外れな生き方を悔い改め、神が決めた至福の道を歩まなければなりません。小板牧師がおっしゃったように、本当に今の日本人に必要な絵本であり、飢え渇いた霊魂を満たすことのできるのがこの絵本だと思いました。

誰が称賛を浴びるのでもなく、絵本を通してただ主イエス様にすべての栄光が帰されることを祈ると共に、私たちぶどうの木の召しがますます成就していく17年目の歩みとなったことを感謝して祈ります!!乙女のトキメキ

 

アモス8:11~12本

主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、・・・」

(続きはあえて読みませんでした)

 

イザヤ45:20本

もろもろの国からのがれてきた者よ、集まってきて、共に近寄れ。木像をにない、救うことのできない神に祈る者は無知である。

 

使徒行伝18:9~10本

すると、ある夜、幻のうちに主がパウロに言われた、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。

 

アーメン宝石赤