サタンに打ち勝つ権威は授けられている | ぶどうの木 Good News

サタンに打ち勝つ権威は授けられている

holygirlですニコニコ

 

聖書には、海が2つに割れる、水をぶどう酒に変える、死人がよみがえる、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の群衆の腹を満たすなど、思わず「どうやって!?」と言いたくなる様々な奇跡が書かれています。実際クリスチャンであっても、“これは聖書のこの時代にだけ起きたこと”と思っている人たちがいますし、「ノアの箱舟はおとぎ話です」と教えている牧師もいます。確かに頭で考えたら分からないこと、答えが出ないことがたくさんあります。しかし、全て嘘ではなく実際にあったことです。そう信じられるのも、神に選ばれたから、聖霊の力を頂いたからと言えるのかもしれませんが、みことばを素直にそのまま受けるなら、私たちが信じている神は、不可能を可能にする神であることがよく分かります。

 

今週の集会は、ルカ10章19節~20節から始まりましたベル

 

わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

 

アーメン宝石ブルー

私たちは牧師から、「自分には無理。このケースは無理と思っていませんか?イエス様から頂いた権威を行使していますか?」と問われました。例えば、今日明日と私たちが住む静岡県にまっすぐ台風7号が向かってきていましたが、牧師から「私たちクリスチャンは台風にも打ち勝つことのできる力を頂いています。予定が狂わされることを嘆き慌てる前に、その力を行使しましたか?」と語られていました。「退け、サタン!!台風をイエス様の御名前で退ける!破壊する!」という祈りが私たちにはでき、まずはその信仰、心を神は見ておられるのです。実際、信仰で台風に向かって退くよう命じたら、進路が変わりました。もちろん他県に被害が及ぶことを望んでいるわけではないので、勢力が弱まり、消滅していくことをますます祈りますが、このような権威の行使を日常生活の様々な場面でしなければならないと語られました。地震の時も同じで、ぐらっと揺れた瞬間に「サタンよ、退け!」と命じながら、ここまで大きな被害なく守られてきました。

「イエス様、助けてください」「イエス様、病気を癒してください」「主よ、この問題を何とかしてください」と祈るクリスチャンが多いですが、「イエス様、やってください」ではありません。イエス様は、【わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた!】とおっしゃいました。そして、みことばは、【だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう】に続きますが、なぜ害をおよぼす者はまったく無いと言えるのか・・・この行間にあるものを読み取らなければなりません。授けられた権威を“行使する”、“みことばを宣言して悪霊に命じ戦う”から、害をおよぼす者はまったく無いのです。さらに、もう一つ着目するべき点は、害をおよぼす者は【少しある】のでなく、【まったく無い】という事です。イエス様との関係を確立し、権威を行使するのは自分であるという事をわきまえ知っているなら、私たちに不可能はないのです。ならば、祈らなきゃ損です。台風が来ていると心配しながらテレビをボーっと観ている時間があるなら、現実問題に思い悩んでいる時間があるなら、まず権威を行使して祈ることです。異言の祈りも力があります。祈らなければ、神・イエス様の力を体験することもできません。祈ったら祈っただけ、自分の身になります。祈る自由意思は私たちに与えられています。いつまでも権威を行使せずに、現状にとどまり、「無理。喜べない。どうせ私はこのままだから・・・」と言って汚い獄屋にいるのか、それとも、人生に起こるへびやさそりの攻撃(病気、人間関係のトラブル、貧困など)を踏みつけて、何も恐れることのない、思い煩うことのない生き方をするのか・・・私たちは改めて自分は何者であるかを再確認し、どちら側の人間になるのか問われました。

 

そして、悪霊が服従し、不可能を可能にすること以上にすごいことは、天に名がしるされているという事です。私たちはイエス様を受け入れ救われた時に、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威と共に、天に名がしるされます。権威を行使して悪霊との戦いに勝利していくというこの世での務めを果たして地上を去った後には、天国に行くことが約束されているのです。私たちが喜ぶべきことは、そのように神に知られ、国籍が天にある者となれたという事であると語られました。

クリスチャンの世界では、様々な人が最後の審判の啓示を見せられてきました。皆が神の審判を受けるために1列に並び、一人一人順に、人生をスクリーンに映し出され神と共に振り返ります。いつ福音を聞いて救われたのか、その後の歩みはどうであったか、また、クリスチャンを遣わしても福音を受け入れなかったのはなぜか、救われたのに神を裏切った時のことなども詳細に映し出され、言い開きをしなければなりません。そして、見終わったあとに、天国行きの右の扉、地獄行きの左の扉のどちらかが開いて、行先が決定するのです。地獄行きの左の扉があいたら、ギャーという悲鳴と共に、後悔の声が聞こえてきます。でも、いくら後悔しても、もう遅いのです。並んでいる人々はその声を聞いて恐れ、ドキドキして順番を待ちます。果たして、何人の人が平常心で何らやましい事はない、私は天国行きだと確信をもって並んでいられるでしょうか。

人生で一度もクリスチャンから福音を聞いた事のなかった人、聞いたのに受け入れなかった人、聞いて救われてもまたこの世に流された人、最後までイエス様に聞き従って生きた人・・・最後の審判は、皆に訪れます。一言で「天に名がしるされている」と言っても、それはやるべき事をやりきった人の名であって、クリスチャンであっても神の権威を行使せずに、サタンに対して敗北の人生を送り続けている人は、先週語られたように、「あなたを全く知らない」と言われ、天国行きの扉は閉ざされるのだと語られました。

 

さらに、私たちはルカ10章19節~20節の前後に書かれてあることも確認しましたひらめき電球

 

ルカ9:57~62本

道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。

 

アーメン宝石赤

先週語られた通り、救われた瞬間から、イエス様が一番になっているか、まず神の国と神の義を求めることができているか問われました。神の国と神の義を求めたら、全てを失うのでしょうか。そうではなく、あとのものは全て添えて与えられると約束されています。「わたしに従ってきなさい」と神に命じられた時に、「まず〇〇をしてから」と自分の予定を言うのではなく、「はい!従います!」と全てを捨てて、全てをイエス様にゆだねて従える信仰が求められているのだと語られました。

 

ルカ10:1~42本

その後、主は別に七十二人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった。そのとき、彼らに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな。どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。そして、その町にいる病人をいやしてやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう。わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。

七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

 

アーメン宝石緑

全ての人が福音を聞き、受け入れるのではなく、拒み迫害する人もいます。私たちの肉はそれで落胆することもありますが、神はすべて御存知であり、迫害されるなら、神が迫害されているのであって、相手が受けるはずだった祝福は私たちに返ってくるのだとおっしゃって下さっています。相手側からしたら、福音を伝える私たちを拒んでいると思っているでしょうが、実際はイエス様を拒み、イエス様をこの地上に遣わした神を拒んでいるのであって、自分が神になっている、自分を神と同等の立場に置いていることを知りません。特に、この世の知恵ある者や賢い者は神が見えません。幼な子だけ、神に選ばれた者だけが神を見ることができ、福音、みことばを聞くことができるのです。

今週の集会で、「イエス様に出会った、イエス様に触れられた体験のある人は挙手してください」と牧師に問われた時、ほとんどの兄弟姉妹の手が挙がったのですが、兄弟3人だけは挙手しませんでした。神の目、牧師から見たら、イエス様に出会ったからこそ今の彼らがあり、イエス様なしではいつどうなってもおかしくない人生であったと思いますが、本人は「出会っていない、分からない」というところに留まっていました。彼らは、他の兄弟姉妹が見ていること、見えていることを、見ようとしても見ることができないのか、選ばれていないのか・・・そうではなく、単発的、そして表面的に葉先だけでしか物事を見ることができず(葉がつながる茎も根っこも、根っこがおさまる土も見れていない)、神の御業の一つ一つが繋がって証が生まれていることを悟れていないのだと語られました。クリスチャンとしてどこに視点を向けるのか、何に対して喜び感謝しなければならないのか、それが分からず、神の御心からズレてしまうと、自分の目で見えること、頭で理解できることは受け入れられても、大きな神の御手の中で全てが守られ、行われてきていることが解らずに、「これをまだもらっていない」「あれもほしい」と無いものねだりになっていきます。神に守られて健康な体が与えられ、毎週集会に出席できることだけでも感謝すべきことではないのかと牧師に問われた兄弟3人でした。善にさとく、悪にうとく、善に目を向けていけば、その気持ち一つで何事も感謝に変わっていき、そこに神の臨在を感じるのではないかと語られました。そして、この世に心を奪われ、大事なことが見えないマルタになるのではなく、まず神の義を求めるサマリヤ人や、マリアのようになること、権威を行使する行いの伴った信仰をもって歩まなければならないと語られました。

 

今週の集会で小学6年生のA兄弟が、キリストの権威を行使した素晴らしい証をしてくれましたキラキラ

A兄弟はフットサルのチームに所属しているのですが、イエス様に忠実に従ってきたことによって、先週全国大会に出場することができました。A兄弟は全国大会に向けて与えられた神からのミッションが2つあり、1つ目は普段練習しているチームとは、練習会場が違うもう1チームが1つになって(合同で)出場するため、もう1チームのメンバーの子たちとも仲良くすること、2つ目はけがをしてしまった仲間のために祈ることであったと話してくれました。普段練習しているチームからはA兄弟を含めて3人が参加し、もう1チームから6人が合流しました。最初はパスの練習も、昼食をとる時も、3対6で、別々だったそうです。しかし、A兄弟は同じクリスチャンの母と姉と皆が1つになれるよう祈りながら、積極的に声をかけることに意志を向けていきました。帰り際に、6人でかたまっているメンバーのところに行き、「じゃあな」と挨拶することも臆してしまいがちでしたが、母親に背中を押され、勇気を出して声をかけると、「じゃあな!またな!」と返事をしてくれたり、パスの練習の時も、自分から仲間に入っていくように心がけたそうです。A兄弟が両者の架け橋となり、次第にチームは一つにまとまっていきました。

また、エース的存在の子が足にひびが入ってしまい、出場できるか危ぶまれており、A兄弟は母と姉と3人で癒しを祈っていました。すると、イエス様は母親を通して、直接祈ってあげなさいとおっしゃいました。A兄弟は、「えっ直接!?もう自分の中で祈っているからいいよ・・・」と言いながらも、母に促され、その子と二人きりになった時に祈ろうとしましたが、肉の戸惑いもありながら「足大丈夫?」と声をかけると、その子が「もうよくなってるよ」と言ったので、A兄弟は祈らずに終わってしまいました。しかし、実際はようやくリハビリが始まったところであると後から知り、A兄弟は祈らなかったことを悔い改めました。そして、今度は絶対に祈る!という強い気持ちでタイミングを求めていると、再びイエス様がチャンスを下さいました。A兄弟が「僕のお母さんは癌だったけど、祈ったら癒されたんだ!だから、君の足のことも祈っていい?」と声をかけると、その子は受け入れてくれ、信仰で祈ることができたそうです。直接相手に手を置いて祈ることはとても勇気がいることですが、A兄弟は聖霊の信仰の賜物によって癒しを祈ることができたのです。さらに、全国大会中に腹痛で苦しむ仲間のためにも自発的に祈ってあげることができたそうです。イエス様からの2つのミッションを成し遂げ、神への誓願を果たせたA兄弟は晴れやかな自信に満ちた顔で、証をしてくれました。

 

A兄弟の母親のB姉妹も、勝つことよりも、自分から一歩勇気を出して交わること、いつもイエス様に何を言われているか気をつけて過ごすこと、神のみ旨を聞きながら挑戦する日々であったと話してくれました。

最初は口もきけなかった3人と6人が、離れがたい仲間になり、サッカーのジュニアチームや、県内外からチームのセレクションを通ってきた集団など48チームが出場する中、普段練習を一緒にしない合同チームがどんどん勝ち進んで全国大会に行ったことは神の御業であり、それを家族皆で感じ喜び合えたこと、自身も癌が癒されて、息子と勇気をもって福音宣教を行えたかけがえのない夏になったことを喜んで証してくれました。結果は、ベスト16で終わってしまいましたが、大会が終わったらすぐに海外に引っ越してしまう仲間がおり、負けたことで時間に余裕ができ、皆で焼き肉を食べに行ったり、朝方4時まで宿泊所で遊び楽しむことができたことも、イエス様からの祝福であったそうです。

本当に、B姉妹がイエス様から頂いた権威をもって癌というへびやさそりを踏みつけて完全なる癒しという勝利を得ていなかったら、喜び、楽しみ、チャレンジするA兄弟の6年生の夏はありませんでした。これもイエス様、あれもイエス様と感じながら、感謝をもってみことばを行ない続けた親子の証、ルカ10章27節に書かれてあるように、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる神を愛すること、自分を愛するように、隣り人を愛するという神の義を求めていった先に生まれた証に、神の家族の霊も喜びましたガーベラ

 

人間は、勝負に勝てば、次も勝ちたい!次はもっと良い成績を残したい!と、次々に欲が生まれます。A兄弟とB姉妹も、やはりそのような気持ちになり、その気持ちによってチームが一つにまとまっていった事も感じていました。しかし、他のチームのコーチ陣が試合中のプレーに対して、厳しい怒声を浴びせる中、A兄弟のチームのコーチは、終始「楽しめ!楽しもう!」と声をかけ続けていたそうです。イエス様はコーチを通して、勝つことよりも、楽しく精一杯がんばることに価値をおくことを教えてくださいました。その言葉の力によって、子どもたちが生き生きプレーできたから、勝利も伴っていったのでしょう。何を目指し、何を求めて頑張るのか。クリスチャンであるならなおさら、神の御心を求めて自分自身を捧げることに意志を向けることが求められ、そこにあとのものは全て添えて与えられるのだと語られました。

世の中には、「青い鳥症候群」という言葉があるそうです。現実の自分や、取り巻く環境、待遇などを受け入れられず、「自分はもっと幸福になれるはずだ」と、理想の学校や職場や配偶者を求めて転校や転職や離婚を繰り返す人のことをそう呼ぶそうです。皆、本当の幸せを求めて探しており、より良いものを求めたい欲があります。しかし、それはどれだけ肉で頑張っても得ることはできませんし、満たされることはありません。本当の幸せはイエス・キリストを信じる信仰と、内におられる「聖霊」による神との日々の交わりによって生み出されます。私たちは限りなく注がれる神の愛の内を神の子として生かされ、導かれ、周りの人々の救いのために使われていることに感謝しました。

 

C姉妹も聖霊による素晴らしい証を話してくれました乙女のトキメキ

C姉妹は、9年前に愛するご主人を癌で亡くしました。そして、4年前父親も持病の悪化で長くは生きられないと分かった時、行きつけの美容師(ぶどうの木の姉妹)に、時が来たら喪服を着せてほしいとお願いしたことがきっかけで、救われクリスチャンになりました。当時、C姉妹は父親との関係が悪く、様々な思いから両親を許せずにいました。しかし、ぶどうの木の姉妹を通して無条件の許しについて話を聞き、両親を許すことができました。そして感謝なことに、父親はそこから体調が回復していき、C姉妹が福音をすると、父親が若い頃、クリスチャンから福音を聞いたことがあり、おそらくその時に救われていたと思うという話を聞くことになり、母親はC姉妹を通して救いの告白をし救われました。そんなC姉妹の父親が、先日帰天されました。

癌が転移し、放射線治療の効果があまり見られない中、療養型医療施設に転院することが決まっていたのですが、ちょうど転院する日に亡くなりました。あまりにも突然のことでC姉妹はじめ神の家族も驚きましたが、牧師からは、「女手一つで子ども二人を育てているC姉妹にこれ以上負担をかけたくはないというお父さんの思いと、もうこれ以上重荷を負わなくてもいいよというイエス様の御心が一致して、イエス様がお父さんを引き寄せて下さったのですね」と語られ、C姉妹は計り知れない神のやり方に感動し、涙があふれていました。

ちょうど父親の転院の準備のために職場が1週間休みをくれていたため、いつ何があってもおかしくない父親が亡くなった時にどうするか、葬儀についてもゆっくり話す時間が与えられていました。母親は代々臨済宗のやり方で葬儀をしてきたから、父親も同じやり方で送り出したいと言ったそうですが、C姉妹はそこから自分の体験をもとに母親、日本人の中にある仏教の霊を足の下にしていきました。

C姉妹の姑は突然自死してしまい、それを機に毎月命日に墓参りに行き供養していましたが、それから数か月後、愛するご主人が癌で亡くなりました。C姉妹が母親に、「どれだけ一生懸命供養していても、主人は守られなかった。姑が主人を守ってくれたわけではなかった。主人とは仏教に何の意味があるかとよく話していたから、主人の葬儀は仏式ではなく神道のやり方(神葬祭)で行ったけど、亡くなった途端にいろんなところに連絡して、訪ねてくる人をどうもてなすか、食事はどうするかを考え、葬儀では何を言っているか分からない神主の言葉を聞かされ、一番悲しい人が悲しめないのが仏教、神道の葬儀だよ。坊主を呼んでお経を聞くぐらいなら、葬儀に来てくれた親戚や友人などから、お父さんがどんな人生だったのか話を聞きたいし、皆にもお父さんとの最期の時間を大切にしてもらいたい」と話すと、「そうだね、分かった」と納得しました。次に母親が、「じゃあ、仏壇やお墓はどうするの?」と言ってきたので、C姉妹は、「仏壇やお位牌、墓に拝まなければ、罰を当てたり、呪うような人とお母さんは結婚したの?死人は死人に任せればよいと聖書には書かれてある。そんな木の板や石に拝まなくても、私たちの心にお父さんはずっといるでしょ。主人もずっとここ(心)にいるよ!」と話しました。自分の娘が先に通ってきた経験から話しをしたことで、母親は何も言えず、ただただ納得していったそうです。そして、C姉妹の兄も、「それでいいじゃん!じゃあ、俺がここから仏壇や墓を守ったり、何回忌という事に囚われなくても済むという事だね」と納得し、仏教の縛りから解放されることにも喜んでいたそうです。

近所の人たちは、線香もあげない、僧侶も呼ばない葬儀に戸惑いましたが、C姉妹が「どうぞ献花をして、お花でいっぱいにしてあげてください。お経を聞くよりも、父親と会話し、最後の時間を大切に過ごしていただくのが家族の願いです」と説明すると、誰も何も言えなかったそうです。唯一、家族全員が葬儀会場で父親と過ごす時間を選んだため、自宅で香典を受け付けないことに対して、「香典が少なくなるよ!」という富に仕えるサタンからの声が上がったそうですが、お金のためではない、本当に思いがある人は葬儀会場まで足を運ぶだろうと家族で話し、徹底的に神に喜ばれる送り方を求めていったそうです。仏壇は処分、お墓は撤去することにしたため、お骨は受け取りませんでした。(日本では火葬で全部焼いてもらうことはできないが、お骨を受け取らないという選択はできた)檀家から抜けるには100万円かかると聞いていましたが、寺に話すとそのような費用はかからず、すんなりと檀家からも抜けることができたそうです。

9年前のご主人との辛い別れも、クリスチャンとなって万事が益となり、C姉妹だからこそ語ることでのできる知恵が授けられ、誰に対しても説得力がある言葉で、仏教に囚われている日本人を論破していくことができた素晴らしい証を聞くことができ感謝でした。久しぶりに会った親戚からは、「Cちゃん、きれいになったね!」と何度も言われたそうで、C姉妹自身が神の栄光をあらわしていたことで、ご主人の死によって悲しみに暮れるのではない人生を歩んでいる証明となり感謝でした。父親の葬儀では「また天国で会えるね!」という気持ちで涙を流すことなく、穏やかに見送ることができたと話してくれ、クリスチャンとして真理を知ると、大切な人の死に悲しむのではなく、また再会できるという希望があることを再確認しました。

 

そして、C姉妹の証を通して、私たちは窮地に立たされた時ほど、慌てず静まれば、周りの人の思いや言葉に対して論破できるだけの知恵をすでに神が与えて下さっていることを知るのだと語られました。聖書に【だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。】(第1コリント10:13)と書かれてあるように、通れないところは通させない神です。自分の内にある霊を燃え立たせ、喜びの油を多く注がれていることに感謝して語り、私たちはこの日本にある縛り、律法から解放されなければならないと語られました。

 

ローマ7:6本

しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

 

最後に、キリストの権威を行使する姿は、『地獄についての神の啓示』(メアリー・K・バクスター著)14章に書かれている主の軍隊の姿であると語られました。著作権の問題があり抜粋はできませんが、14章には次のような内容が書かれています下矢印ちょうど1年前の8月15日の集会でも語られていました。

 

「命に対して目を覚まし、生きなさい。私は聖なる軍隊を用意しています。彼らは私のために力強く偉大な業を行ない、高き場所を破壊するでしょう。これは、仕事を持つ男性、家庭の主婦、独身の男性、独身の女性、そして学校の子どもたちからなる軍隊です。彼らは普通の人々だが、真の福音を宣べ伝え、病人に手を置き、罪人を悔い改めに招くために、聖霊によって油注がれた者たちである」とイエス様はおっしゃいました。高い身分の者でイエス様の召しに応答した者は少なかったからです。また奉仕者たちは、神にそむいて罪を犯すように教え、真理を不義の中に保ち、貧しい人々を犠牲にして、自分のポケットに金銀を詰め込み、羊たちを散らしています。「あなたがたがこれまで迷わし、また間違った教理を教えてきた人々に対して悔い改めなさい。裁きは神の家から始まることを覚えておきなさい」と主は厳しく警告しておられます。そのようなキリスト教界の堕落の中で、主の軍隊として選ばれた彼らは今まで誤解されたり、不当な扱いを受けたり、もてあそばれたり、人から拒絶されたりしてきましたが、イエス様は彼らを聖さと霊において大いに祝福し、彼らが御自身の預言を成就させ、願っていることを行なっていくと信じているとおっしゃいました。なぜなら、イエス様ご自身が、主の軍隊の中にあって歩み、語り、わざを行なって下さるからです。
主の軍隊に選ばれた人々は、心と思いと知性と力とを尽くしてイエス様に立ち返った者たちであり、この軍隊は、義と霊の清さとに多くの人々の目を覚まさせていくと預言されています。多くの人々は選ばれた人を見て驚きますが、やがて、彼らが地を駆け巡り、イエス様の名のために偉大なわざを行ない始めるのを、見るようになります。神の力が働くのを、目を見張って見ていなさいと、イエス様ご自身がおっしゃっています。そして、この軍隊は、悪の軍勢に対して戦いをいどみ、サタンの働きの多くを破壊します。彼らはあの邪悪な獣が立ち上がる日の前に、多くの人々をイエス・キリストに勝ち取るのです!

そして最後にイエス様は、「あなたの家族に、私は彼らを愛しており、愛をもって彼らを正すと語りなさい。もし彼らが私に信頼するなら、私は彼らを悪から守る、と彼らに語りなさい」とおっしゃいました。イエス様は家族という単位をとても大切にされています。神が男を女のために作り、女を男のために作り、その二人が聖なる結婚生活の中で結ばれるように定めました。神のことばでそれを祝福しておられるからこそ、聖霊が住まわれる体を汚すことなく、結婚の床を聖く保ち、すべての不義から自分を清め、純潔な者になりなさいと教えています。体の罪は、霊の罪につながるからです。家庭崩壊は神から来ません。家庭崩壊に至るような結婚、神の御心ではない結婚に至るような婚前交渉をしてはなりません。そして、私たちが神に立ち返って悔い改めるなら、信仰の行いによる義の実を携えて神を崇めるなら、神は私たちの家庭も、結婚の床も祝福すると約束して下さっているのです。

 

我こそは!と思っている高い身分の人たち、サタンに魂を売り渡した人たちが好き勝手にやってきて、世界中が異常事態ですが、すでに何とかしなければならないと、目覚め、立ち上がっている人たちが各国におり、日本においても、参政党という政党が生まれ、世の中の闇を暴く人々や、教科書では決して教えてこなかった日本の真の歴史を知る人たちが一つになってきています。私たちは肉において頑張っている人たちが、救われてキリストの権威を行使して戦っていけるよう祈り求めると共に、クリスチャンとして霊において異言と祈りで敵軍(悪霊)の動きを阻止し、イエス様を一番にしてますます権威を行使していかなければならないと語られました。神は私たちの主イエス・キリストによってすでに勝利を下さっていることに感謝し、いつも全力を注いで主のわざに励んでいく8月後半となったことを感謝して祈ります!まじかるクラウン