主の宮を建て上げよ | ぶどうの木 Good News

主の宮を建て上げよ

holygirlですニコニコ

 

先週3泊4日で、私と牧師は福岡に行きました。そこで、韓国の兄弟姉妹(夫妻)、福岡の姉妹(母娘)、来年結婚予定の東京の兄弟姉妹と交わりました。神が望まれる夫婦の在り方、家庭の在り方を互いに語り合う機会も多く、妻の献身的な祈りと訓戒によってアルコールの霊から解放された韓国のC兄弟は、そんな妻への感謝と、妻を与えて下さった神の愛に触れ、涙ながらに証をしてくれました。C兄弟の妻も、当時、妻子をかえりみずに酒に溺れる夫(C兄弟)に対して希望を感じず、「イエス様が私に与えて下さった夫ではないのですか!?」と訴え、夫にも問うたそうです。その瞬間、夫を捕らえていたアルコールの霊が去り、自分は何をしていたのかと目覚め、神の御前で悔い改めながら涙が止まらなくなったそうです。

 

2007年9月2日に初集会を行ったぶどうの木は、来月9月2日で丸16周年を迎え、9月3日の集会からは17年目の歩みがスタートします。家族のあり方講座として始まった初集会で与えられたみことばは、詩篇127篇、128篇であり、今回の福岡での交わりを経て、今週の集会でも改めて確認する事となりました。

 

詩篇127篇本

主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。見よ、子供たちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。

 

詩篇128篇本

すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んでオリブの若木のようである。見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。主はシオンからあなたを祝福されるように。あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、またあなたの子らの子を見るであろう。どうぞ、イスラエルの上に平安があるように。

 

アーメン宝石ブルー

男女が結婚して夫婦となり、神の宮(家)を建て、そこに子どもが与えられていく祝福、人としての一生をこの2つのみことばは教えてくれています。一家の長が自分の力で家族を守り育てようとどれだけ一生懸命働いていても、主がその家を建てていなければ、命を縮めることになり、いつ倒されるか分かりません。今回の交わりで、福岡の姉妹は、イエス様を信じみことばに従って歩み始めた夫が、唯一献金のみことばだけは受け入れられずに行えていない事が気になり、いらだち、全てのみことばに従わないことでサタンに門を開けている状態を恐れるがゆえに、献金をしない夫は、妻子を愛していない、妻子がどうなってもいいのだと思ってきたのだと話してくれました。しかし、夫の立場からすれば、妻子を一番愛しているからこそ、路頭に迷わせないように家計を計算し、男義でがんばっている、ただそれだけです。

霊の思いに立つ妻と、肉の思い、自分のやり方で何とかしようとする夫。もちろん反対のパターンもありますが、互いがクリスチャンであっても、夫婦関係、家族関係の中には常にこの霊と肉の攻防戦があります。相手を握れば握るほど、どうして分かってくれないの!?という苛立ちが生まれます。

福岡の姉妹は、自分を通して夫が救われ、結婚を機に聖書を学び始めたこともあり、みことばを守り従う完璧なクリスチャンとしての姿をあらわさなければならない、夫につまずきを与えてはならないと、苛立つ気持ちを抑え、夫と魂でぶつかり合うことをできるだけ避けてきました。しかし、クリスチャン同士で互いにイエス様が内におられるからこそ、自分の思いを素直に正直に伝えてぶつかり合っても、必ず主にあって修復され、悔い改めに至ることができるのだと語られ解放されました。一方、夫は、真理の教え(献金に対する教え)を十分語られてきて頭では理解している分、牧師や兄弟姉妹に会えばまた献金をしなさいと言われると占っていました。そんな気持ちを持っていたため、今回交わりに意志を受けていたにもかかわらず、サタンが動いて仕事でトラブルが起き、急遽参加できなくなってしまいました。

夫は参加できませんでしたが、その分妻は解放され、夫をゆるして向き合い、愛されていないと誤解していたことは謝り、改めて献金をすることによって得る祝福について話ができたそうです。福岡での交わりを機に、もう一度お互いがどんな思いでいるのかを確認し、妻は夫を握らず、イエス様との関係があることに信頼し、夫は主に信頼して献金にも意志を向けていく決心をすることができ、感謝でした。

 

神の御手の中で生かされていること、なくてならぬものは常に神が与えて下さっていることを悟り、主をおそれて主の道を歩む時、幸福で、かつ安らかになれます。一家の長がイエス様と繋がり、全てのみことばに従ってこそ、健康と、社会的、経済的祝福が伴っていきます。韓国のC兄弟はそれを体得し、どんどん信仰が強められていきました。

そして、家族のために働く夫を支える妻は家の奥にいて、子どもたちを“神の子”として育てる義務があります。なぜなら、サタンはこの世に人間が生まれた瞬間に狙ってくるからです。3代4代に渡る呪い祟りの霊によって、子どもの状態は親の状態と言えます。今回、福岡の姉妹の娘のNちゃんは、父親の霊的状態を分かりやすくあらわしていました。私たちに会っても、最初は目を合わせず、声も発さず、お母さんにぴったりくっついて近づいてもきませんでした。その姿を見て、父親が神の御前で何かやましい事があるのか?なぜこんな態度になってしまうのか?とイエス様に聞いていました。そして、姉妹が泣きながら自分の胸の内を話し始めた途端=圧迫されていた霊が解放された途端、娘は母親を離れて、子どもらしい笑顔、本来の姿で一緒にいた姉妹たちと遊び始め、母親が一緒にいなくても平気になりました。子どもは分かりやすく一瞬で変わります。親が家庭でどんな種(言葉)をまいているのか、どんな姿(行い)を見せているのか、特に母親の言動が子どもに強く影響するのだと語られました。

 

今回の旅行で、福岡から足をのばして湯布院にいる姉妹たちとも交わったのですが、そこでは次世代を担う子どもたちのために、母親の背中を見せたい!とにかく子どもたちにちゃんとした日本を残さなければならない!と立ち上がっているお母さんたち(クリスチャン)の働きを知ることになりました。ぶどうの木牧師がイエス様から語られてきた通り、自分の子どもを戦争に送り出したい母親はいません。日本人、韓国人、アメリカ人関係なく、“母”という事で全世界の女性は一つになれるのだということ、エレミヤ31章22節に【不信の娘よ、いつまでさまようのか。主は地の上に新しい事を創造されたのだ、女が男を保護する事である」。】と書かれてあることも再確認しました。

 

今週の集会では、夫(父)は働き、妻(母)は、家庭を守り子を育てるというこの秩序が主にあって守られているか、主をおそれ、全てのみことばに従って主の道を歩めているか私たちは吟味しました。さらに、どんな家(宮)を建てているのかについては、新約聖書のマタイ7章24節~27節につながるのだと語られました。

 

マタイ7:24~27本

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

 

アーメン宝石緑

みことばを聞いて行うものは、岩の上に自分の家を建てる賢い人であると主は言われました。つまり、岩の上に家を建てていなければ家族を守り養うことはできません。一つでも、聞いて行っていないみことばがあるなら、砂の上に家を建てた愚かな人であり、いつ雨、洪水、風が吹いて困難な状況に陥り、土台から倒されてもおかしくないのです。

 

詩篇27:1~14本

主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。
偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。

 

アーメン宝石紫

 

そして、肉の家族のあり方、夫婦の在り方だけに限らず、クリスチャンとして、一番に夫(イエス様)を愛し、夫に従順に仕える妻(キリストの花嫁)になれているか、たくさんの神の子どもたちが誕生するよう神の栄光をあらわし、福音宣教に励んでいるかも問われました。

困った時だけ神に寄り頼み、自分のやり方を変えない“宗教”には何の力もなく、救いもありません。“真理”は神と人間の関係そのものを教え、そこには本当の神の力、本当の救いがあります。生きているのは自分ではなく、イエス様が自分の内に生きておられるのだと解ると、救われる前に当たり前に握りしめてきたものは全て価値のないものに変わっていきます。

自分自身の歩みが神に喜ばれるものとなっているか、以下のみことばを通して確認しました。

 

マタイ7:13~23本

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

アーメン宝石赤

周りに流されて広い道を通ることを選ぶなら、クリスチャンとは言えません。この世の人が皆行うからと言って、ワクチンを打ったり、マイナンバーカードを作った人もいるでしょう。しかし、聖霊はあらかじめ危険だと教えてくださり、それを回避する道も知らせて下さいました。命にいたる門は狭く、そこを通っていくためにはこの世と決別する決心が必要です。献金も、この世と決別し、自分は神の子であることを表明する機会でもあります。その中で、良い実と言われる健康面、社会的、経済的祝福が伴っていきます。相手が本物のクリスチャンかどうかを見分ける時にも、相手がどんな良い実を結んでいるのかを見ます。どんな言葉を出すのか、家庭はどうか、どんな子どもに育っているのか、親族関係はどうか・・・立派に見えるクリスチャンであっても、家庭の不和を抱えているなら、全てのみことばを信じて行なえているとは言えないでしょう。そして、神は熱いか冷たいか、はっきりされているため、良い実を結ばない木は切って火の中に投げ込むのです。神から権威を授けられた牧師も、自分の羊の表情や出す言葉で、内側か清いか、神に従って生活できているかよく分かります。

そして、クリスチャンとして最も恐るべきことは、神に「あなたを全く知らない」と言われることです。神のみことばを100%行なっているなら、必ず証が伴います。「主よ主よ」と言いながら、預言、悪霊の追い出し、多くの力あるわざを行って見せていても、父のみ旨を行う者だけが天国に入れるのです。クリスチャンとして、私はこういう風にしたい、こういう思いがあるからやってみたいというように、自分の意見をあたかも神に入れられた思いのように言っていても、そこに良い実=証が伴っていないなら、違うのです。発展するのではなく、衰退する一方であれば、立ち止まって、本当にそれが神のみ旨であるのか聞かなければなりません。本来神のみ旨は、私たちの肉の思いとは相反するものですが、それでも神に従いたい!と自分の肉を打ち叩いて行うのであれば、神に知られ、思いをはるかに超えた祝福と奇跡、勝利が与えられていくのだと語られました。

 

この世の闇に打ち勝てるのは霊が生き返り、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンだけです。聖霊のバプテスマ(聖霊の力)を頂いているかの基準は、異言が出るかどうかです。今週は、異言には5つの働きがあると語られました。

①神に対する心の願いを語る

②肉(魂)は反逆していても、霊の自分が神の子として祈っている

③未来に起こることに対する武具を身に付けたり、天使がチャージされるよう祈る

④過去や今の気持ちに対する御心を知る

⑤自分の頭が知らないことを祈る(交通事故で意識が無い人が異言を語っていたという証がある)

異言を語るクリスチャンには、何千、何万の天使が仕え働きます。しかし、心が揺らいで不信仰になったり、頭で物事を計算したり考え始めると、ぱたっとその動きが止まってしまいます。つまり異言を語るという事は、神のみ旨を知ることができ、神の御心に意志を向けられるよう導かれていくという事です。

 

偽物クリスチャンは見抜かれます。白く塗った墓と言われる偽善者は忌み嫌われます。日本のキリスト教界は、きよめの教え(山上の教訓)を肉で努力するホーリネス系のクリスチャンと、アメリカからの聖霊の教えによって、何でも「聖霊だから」と言って自由をはき違えたクリスチャンに二分化されているようですが、どちらか一方に偏るのであれば、世の中に対してキリストの迫害者、つまずきの器となってしまうのだと語られました。聖書に書かれてある通り、【偽善な律法学者、パリサイ人よ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。】(マタイ23:13)と言われてしまうでしょう。

今は真のクリスチャンになることを求められています。私たちぶどうの木は全てのみことばを愛し、信じ、実践する群れであり、キリストの兵卒として集められた者です。ぶどうの木牧師は今回の福岡での交わりの中でも、各地域、国に立てられた一人一人に対して、「一つの国に一人が立てば、神はその器を通して国を救い、変えることができます」とおっしゃいました。世の中の人が自分のために必死に生きている中で、私たちは自分の命、生活をかえりみることなく、イエス様のために生きているのかと改めて問われました。神に与えられた尊厳、愛をもってどう生きて行くのか、結婚一つも、イエス様のため!一人よりも二人で力を合わせてできるイエス様のみ旨があるからするのです。それゆえ、夫婦にとって一番はイエス様でなければなりません。2番が家族、3番が仕事です。

神はいつも私たちの心を見ておられます。心からイエス様を愛し、180度変わりたい!と思っているかどうか試しておられます。そして、どんな迫害、苦難にあおうと、死に至るまで忠実であれ!とおっしゃいます。イエス様を信じ続けるなら、勝利を得ます。イエス様を持っている人はさらに与えられます。しかし、イエス様を持っていない人は自分が持っていると思っていた健康や平安、良好な人間関係や職場での好意などまでとられることになります。貧困ともいつも隣り合わせです。その時はじめて、イエス様を信じていたと思っていた自分は独り善がりで、実際は不法を働く不信仰者、自分のやり方を貫いていた者であったことに気付く人もいるでしょう。古い自分を完全に捨て去らなければ、新しい聖霊の教え、神の力をあらわす権威ある教えは入らないのだと語られました。

 

ヨハネの黙示録2:8~11本

スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。

 

ルカ5:36~39本

それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。

 

アーメン宝石ブルー

 

福岡で交わった兄弟姉妹はじめ、この交わりのために一つ思いで祈ってくれていた兄弟姉妹たちも、今や聖霊の力によってりっぱに主の働きを成し遂げることができるクリスチャン・キリストの兵卒ですまじかるクラウンそれぞれの忠実な働きによって、成し遂げられる事がまだまだあるのだと、ワクワクしましたキラキラ目指すは、日本で、韓国で、聖霊の力によるリバイバルです。そして、すでに全世界で、クリスチャンであるという誇りをもって働いている人たちがいます。特に人身売買のグループから子どもを救出している人、闇の権力者たちを相手に戦っている人たちは命懸けです。私たちは異言の祈りで応戦し、主にある志をもった人たちと共にますます働いていけるよう祈りました。母親であることも強く、我が子を守るために立ち上がっています。小さな火種が着火して、大きな炎になろうとしている今です炎皆が置かれた場所での小さな始まりを軽んじることなく、神の御心を行うことで主の宮を着実に建て上げて行けたことを感謝して祈ります!

 

イザヤ9:13~17本

しかもなお、この民は自分たちを撃った者に帰らず、万軍の主を求めない。それゆえ、主はイスラエルから頭と尾と、しゅろの枝と葦とを一日のうちに断ち切られる。その頭とは、長老と尊き人、その尾とは、偽りを教える預言者である。この民を導く者は、これを迷わせ、彼らに導かれる者は、のみ尽される。それゆえ、主はその若き人々を喜ばれず、そのみなしごと寡婦とをあわれまれない。彼らはみな、不信仰であって、悪を行う者、すべての口は愚かな事を語るからである。それでも主の怒りはやまず、なおも、そのみ手を伸ばされる。

 

ナホム1:12~2:1本

主はこう言われる、「たとい彼らは強く、かつ多くあっても、切り倒されて絶えはてる。わたしはあなたを苦しめたが、重ねてあなたを苦しめない。今わたしは彼のくびきを砕いて、あなたからとり除き、あなたのなわめを切りはなす」。主はあなたについてお命じになった、「あなたの名は長く続かない。わたしはあなたの神々の家から、彫像および鋳造を除き去る。あなたは罪深い者だから、わたしはあなたの墓を設ける」。

見よ、良きおとずれを伝える者の足は山の上にある。彼は平安を宣べている。ユダよ、あなたの祭を行い、あなたの誓願をはたせ。よこしまな者は重ねて、あなたに向かって攻めてこないからである。彼は全く断たれる。

撃ち破る者があなたに向かって上って来る。城を守れ、道をうかがえ。腰に帯せよ、大いに力を強くせよ。

 

アーメン!!