霊でみことばを読む重要性と聖霊の必要性
holygirlです
第1テサロ5:23
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
アーメンイエス様は平和の神、愛の神であって、私たちを清め、霊と心(魂)と体を守ってくださいます。しかし、混乱に陥ると、霊が完全になくなり=霊が即死し、私たちは自分の心を守る事から始めます。それは、自分の知性(考え)、自分の常識、自分の欲望が一番になり、心と体だけを守っているこの世の人たちと同じです。先週語られた通り、舟の左側に網をおろし続け、イエス様の御手を放している状態です。
また、霊がなければ、私たちは神の言も力も理解することができません。聖書は神の霊感によって書かれた書物であり、自分の知性で理解しようとしたり、心を守って読もうとするなら、神の言の本当の意味が分からず、とんでもない教えのように誤解したり、心が受け付けられない教えは拒みます。頭で理解できないからこそ、本当のことが知りたいという飢え渇きが増していく人もいます。
私たち人間は、まずイエス・キリストを受け入れて救われ、平和の神にきよめられ、【霊】から心と体を守る者とならなければなりません。そして、霊が生き返ったクリスチャンは、イエス様が来臨された時に、しみもしわもない、栄光の姿の教会でなければなりません。今週の集会では、神が与えているこの【霊】についてもう一度心に留めること、また、心と体を守るために与えられている聖霊の力について学びました。
先週のブログの最後に少し触れましたが、心理学者の方(正式には、公認心理師・心理学博士)が、私たちが出版した絵本「一つになろうよ!命の絵本・命の糸に出会う本」を読み、20年間苦悩してきた自身の子育てを振り返り、『世界ベストセラー「聖書」は必読書?』という本を出版されました。疑問形で始まっている題名ですが、本の最後は、「日本人がこれからの国際社会を生き抜いていく上で、聖書は欠くことのできない必読書である。」と結ばれています。この方(以降Kさんとします)が、私たちの絵本を通して光を見出したのが、ヨハネ9章1節から3節のみことばでした。
ヨハネ9:1~3
イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
自分を責め、子どもを責めてきたKさんは、このみことばを目にした時に、親の責任や子どもの問題をそのまま神が引き取ってくれるのだと、青天の霹靂のように思え、独りで思い悩まないで、もっと上の力に解決の方法や責任を預けてしまっても良いという発想の転換は、人間が考えた心理学の解法よりも、根本的・超越的だと思ったそうです。
ただ、救われていない(霊が生き返っていない)人間が、頭・知性だけで聖書を読んでも理解できないことばかりです。Kさんも、聖書が読みにくい理由として、第一に、旧約聖書の創世記から順番に読んでいっても、知らない登場人物や地名、知らない仕来りや慣習などがたくさん出てきてわかりにくい、第二に、読み物としての筋書きやストーリー性を見つけにくく、読み続けにくい、第三に、我慢して読み続けても話の趣旨や寓意(ある意味を、直接には表さず、別の物事に託して表すこと)を理解できずにめげてしまいやすいことを挙げています。
また、新約聖書を二度程度読んだだけのノン・クリスチャンの自分には聖書が聖霊の働きを非常に重要なこととして示していることは分かっても、それがどういう事なのか理解不能で、どう説明したらよいかも分からない、聖書をいくら読んでも見えないものは見えないままだとも書かれています。Kさんは、「ここは、本物のクリスチャンに直接詳しく尋ねるしかないと思う。信仰の実践を伴いながら、先輩クリスチャンから教えを受けない限り、聖書の説く奥義には到達できない」と記しており、そこで今Kさんと繋がっているのが私たちの群れの姉妹です。さらに近々牧師も会って話をする運びとなり、まさにこれこそが聖霊の働きであるとイエス様に感謝しました
聖書の時代の背景を知り、神学的に理解することは可能ですが、聖霊の働きについては、実体験がなければ分からず、誰かに説明する際にも、実体験=証に、相手を理解させる力があります。
悪霊対聖霊という霊の世界を聖書は教えていますが、悪霊の存在は何となく分かっても、聖霊がどのように働かれるのかは、自身が聖霊のバプテスマを受け、一度聖霊に満たされる体験をする必要があります。たとえ牧師であっても、この体験をしていなければ、メッセージは神学論でしかなく、聖霊の教えについては机上の空論です。牧師が聖霊体験をし、9つの聖霊の賜物【知識の言葉、知恵の言葉、霊を見分ける力、信仰の賜物、奇跡を行う力、いやしの賜物、預言の賜物、異言の賜物、異言の解き明かしの賜物】を正しく理解して与えられているのであれば、信徒は牧師を通して、具体的な証と共に聖霊の働きを学ぶことができます。そして、聖霊のバプテスマは、私たちにみことばを行なう力を与えてくれますから、実践することによって、神の力を体験する証が伴っていくのです。
ぶどうの木牧師は、イエス様に油注がれ、“イエス様に救われる”とはどういうことなのか、4段階に分けて図に表しました。
救われていない普通の人間は、アダムとエバが犯した罪によって霊が死んでいる状態です。そのため、魂(知性、意思、感情)に従って生き、サタンからの攻撃を受け続けています。<主への告白の祈り>をすると、イエス様が全ての罪をゆるして下さり、自分の内に入ってくださいます。そして、イエス様によって、死んでいた霊がよみがえり、神との交わりを回復します。さらに、助け主である聖霊(神からの贈り物)が霊と一体となって下さいます。多くのクリスチャンは、この状態にとどまっていると思われます。なぜなら、みことばを聞いても頭で何となく理解しているだけで実践する力がなく、結局自分の知性、意思、感情に従ってみことばを選り好みし、普通の人間と同じようにサタンの攻撃を受けては悩み、苦しみ、文句つぶやきながら生きているからです。せっかくの贈り物である聖霊を頂いていても、箱を開かなければ自由に働けません。そこで、必要なのが、【聖霊のバプテスマ】です。神からの贈り物のふたを開けるのです。すると、聖霊が内から噴出するように、魂と体を聖霊という生ける水で一度水浸しにします。この体験こそが、霊によって歩き始める人生の第一歩と言えます。神の子とされたクリスチャンが、神の“力”に満たされ続けるよう、内なる霊と共にいて下さる聖霊に、初めて自分の人生の主導権を明け渡す祈りです。そこには、信仰で語り始める異言も伴っていきます。
ぶどうの木では、<主への告白の祈り>と<聖霊のバプテスマと異言をいただく祈り>を、以下のように続けて声に出して読むよう勧めています。
<主への告白の祈り>
愛する天のお父様、イエス様。私がこれまで犯してきた全ての罪をおゆるし下さい。イエス様が、私の罪のために十字架にかかって下さり、3日目に神が死人の中から、イエス様をよみがえらせたことを信じます。イエス様、どうぞ私の中に入って下さい。イエス様が、私のこれからの人生を導いて下さい。イエス様の御名前により感謝して祈ります。アーメン。
<聖霊のバプテスマと異言を頂く祈り>
愛する天のお父様、イエス様。私に、聖霊と火によってバプテスマ(洗礼)を授けて下さい。そして、私の全身をすみずみに至るまで聖霊で満たして下さい。たった今、聖霊をいただけたと信じます。
また、私に異言(霊の人の言葉)を下さい。いただいたと信じ、舌を動かします。ラララララ・・・・・
イエス様、ありがとうございます。これからはあなたが下さる通り、信じる者に伴う新しい言葉である異言を語ります。全ての栄光はイエス様に帰して、イエス様の御名前により感謝して祈ります。アーメン。
※祈りの中で、「ラララララ」と声に出したのが、自分の異言となっていきます。まずは、いただいたと信じて、日常生活の中で、「ラララララ」と舌を動かすことを習慣づけます。最初は1分、次は5分というように意志を向けて行いに移していくことによって、その後、聖霊により超自然に舌が動き始める体験をする時がきます。
ぶどうの木牧師は、家族や友人はもちろん、集会に導かれてきた人や、カウンセリングを求めて自身のもとに来た人がまずは救われ、聖霊のバプテスマを受けることを求め、一期一会のタイミングを逃さずにこの2つの祈りに導いてこられました。<主への告白の祈り>だけあげても、みことばを行なう力がないことは、自身の体験していることでもあります。牧師は<主への告白の祈り>によって救われた後、2年間聖霊のバプテスマを受けずに過ごしました。イエス様が話したことを理解させるために、助け主として与えられている聖霊の力を受けていないわけですから、みことばへの理解力も乏しく、当然、行なう信仰にまで至りませんでした。ですから、この2つの祈りは続けて行うことが大切です。知性で分かるように説明しようとしても、逆に相手が難しく考えすぎてしまいますから、幼子の信仰・からし種一粒の信仰で、相手が救われたいと思っている時点で声に出して祈ってもらうのです。そうすれば、理解力は聖霊という生ける水に一度浸されたあとに与えられていきます。とにかくまず救いに導くこと。そうすれば、霊の世界において救われた人のために他のクリスチャンが祈ることもできます。その後、イエス様から離れるようなことがあっても、霊は神の子になっているということに希望をもつことができるのです。
そして、聖霊のバプテスマを受けたのなら、救われる前の自分から180度変わっていかなければなりません。ぶどうの木を通して聖霊のバプテスマを受けた他教会のクリスチャンから、「聖霊の働きが分からないので、聖霊のバプテスマをちゃんと受けたのか不安です。異言も出ません。だから、毎日聖霊のバプテスマを受ける祈りの言葉を読んでいます」という声を聞きますが、聖霊のバプテスマは一度正しく頂けば十分です。聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンに必要なのは、自分の肉の思い、意見を言わない、自分のやり方をしないことです。肉(魂・体)で生きてきた時間が長ければ長いほど、肉の習性がべったりとこびりついているため、いつも簡単にその習性に従ってしまうからです。
聖霊が自由に働かれる体であっても、魂(知性・意思・感情)と体(感覚)で形成された【肉】がなくなるわけではありません。この地上に生きている限り、常に魂と体からくる肉の思いと、それとは相反する霊の思い(神のみ旨を行ないたい本当の自分の思い⇒聖霊の導きに従いたい思い)が対立します。クリスチャンは慣れ親しんできた肉の思いに引き戻されそうになる度に、みことばを声に出して宣言し、肉の思いを打ち叩いて、下腹部(へその下)から聞こえる霊の思いに忠実に従い、肉の人から霊の人へ、体質を180度変えていかなければならないのです。
聖霊の満たしを一度受けたクリスチャンの霊は完璧です。それゆえ、みことばを着実に蓄えていけば、神の目から見た善と悪をみことばに基づいて教えられていきます。そうすれば、自分の生き方に迷ったり、子育てに悩む必要はありません。人として、親としてこうあるべき!というはっきりとした答えを創造主である神から頂くことで、平安に生きていくことができるのです。
Kさんの著書に『父性原理のキリスト教と母性社会に生きる日本人』という章がありました。
父性社会は、「切断する」機能が強いそうです。例えば、二つの意見がある場合、違いをはっきりさせ、どちらかを選択するということです。全てを善と悪、主と従などに分化する父性原理が強く、一神教であるキリスト教がそれに当てはまるのだそうです。
一方、母性社会は、すべてを「包含する」機能が強いそうです。例えば、二つの意見がある場合、違いをはっきりさせないまま両方とも受け入れるということです。包み込んだすべてに平等に接する母性原理が強いのが、多神教である日本なのだそうです。それゆえ、日本人にはキリスト教が理解できず、受け入れられずにきました。日本人の好む「曖昧さ、優柔不断さ、多様性」と、キリスト教の「明確さ、厳格さ、唯一性」は一致しないからです。この章から、善悪の判断がはっきりとできず、周りに合わせてばかりなのが日本人であると改めて分かりました。
また、日本人にとって一番分かりにくいことが、キリスト教のスピリット、父と子と聖霊であること、キリスト教には、独りで聖書を読むだけでは、それ以上前には進めない、聖霊と交わることの必要性・重要性があり、キリスト教の霊性や魂を大切にする大きな特徴は、現代日本人にとって厚い壁のようであり、苦手とするところであると書かれてありました。
しかし、理解できない、苦手にとどまることなく、まずそのスピリットを自分の内に受け入れることは、神が人間に命じておられることです。それなしには、神との交流を断絶したままであり、神が直接教えようと思っていても、何も始まらないからです。それゆえ、私たちクリスチャンは福音宣教に意志を向けます。1人でも多くの魂を救うために生かされているのだと再確認しました。また、唯一の神に対して祈ることを知っている国、特にイスラム圏では自殺が少ないのだそうです。日本人のように困った時の神頼み、ご利益宗教ではなく、日常生活の中で神と交流することが当たり前の人々は、自分に命を与えてくださった神を思い感謝することで、生かされている命を大切にできるのです。
これだけ飢え渇き、神を求めておられるKさんがまずは救われること、そして聖霊のバプテスマを受けることで、聖書・神の奥義に対して目が開かれ、理解力が与えられ、心理学の世界に影響を与えていかれることを祈ります
聖書を頭ではなく霊で読むことの大切さを学ぶ集会の中で与えられたみことばは、ヨハネによる福音書6章26節~66節でした。
ヨハネ6:26~66
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
アーメン
このみことばを、ノン・クリスチャン(救われていない人)が読むなら、“聖書はこんなおどろおどろしい事が書いてあるのか!人食いを勧めるのか!?”と驚き、嫌悪するでしょう。【人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう】とはどういう事なのか・・・イエス様は朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くこと、ご自身が朽ちない食物・命のパンとして天から下ってきた者であること、そして、【わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない】とおっしゃいました。モーセの時代に天から降ってきたパン(マナ)、この世のパンを食べて満腹したところで、必ず死にます。しかし、「神の言」と言われるイエス様を食べるなら、決して死ぬ事はありません。みことば=イエス様を食べ、信じることで私たちクリスチャンの霊は生かされているのです。そして、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むということは、後にイエス様が十字架にかかられる前に行った聖餐式を意味しており、イエス様の体に例えられたパンと、十字架上で流された血を意味するぶどう酒での聖餐式を、イエス様は預言されていたという事になります。
当時の人々は、イエス様に出会っても、イエス様を神の子と信じることができず、【これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか】と互いにつぶやき、あざけっていました。イエス様を自分と同等の人間にまで引き下げ、肉の声を遊ばせるなら、サタンに武器をつくらせます。それに対して、イエス様は、【互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。神から出た者のほかに、だれかが父(神)を見たのではない。その者だけが父を見たのである。】とはっきりおっしゃいました。つまり、この真理を聞けるのは神に選ばれたからであって、神を知りたくても、神に引き寄せられていなければ、解らないという事です。この箇所に繋がる使徒行伝13章48節には、【永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた】と書かれています。そして、イエス様は、初めから誰が信じないか、また誰が裏切るかを知っておられたのです。
案の定、弟子たちのうちの多くの者は、イエス様がおっしゃっている意味が分からず、「これはひどい言葉だ」と言って去り、行動を共にしなくなりました。彼らは聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンの象徴です。残った弟子だけが、後に聖霊の力を受けました。私たちは聖霊のバプテスマを受けた弟子たち、その重要性を知っている者たちによる福音を聞いて救われた者です。ぶどうの木の皆が、このヨハネ6章のみことばの意味を理解できたことで、彼らが確かに聖霊のバプテスマを受け、年齢関係なく霊から理解力を頂けていることが分かり感謝しました。
イエス様がおっしゃっている真意が分からないなら、到底、イエス様のみことばに聞き従って生きることはできません。イエス様が話した言葉は霊であり、肉では解りません。聖書に書かれている全てのみことばが神の霊感によって書かれたものです。知性で読むには限界があります。【人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。】というみことばを理解できるのも、御霊によって歩む体験をしているクリスチャンのみです。肉で生きるなら、私たちは滅びしかありません。それが救われる前の状態でした。何が霊で、何が肉なのか、それを日々教えてくれるのも聖霊です。私たちはサタンの支配下で肉だけで生きていたところから贖い出されて救われ、霊で生きる者、霊から心(魂)と体を守る者となりました。永遠の命に至る朽ちない食物(イエス様・みことば)が内にあり、日々必要に応じて的確に与えられます。その食物をおいしく感謝して頂くなら、実践するなら、豊かに良い実を成らせていくことができます。ますますイエス様に仕えたい、イエス様のために働きたいという思いに満たされます。“自分なんて役に立たない。私にできるわけない。なんで私がやるのか?”と目の前のことに臆したり、文句つぶやくのではなく、神はクリスチャンとしての自分を使って下さるのだという事を悟り、置かれたところで使って頂くことを求めなければなりません。そうすれば、神に喜ばれる働きを成し遂げていくことができ、周りの状況も好転していくことを、今週は姉妹たちの証を通しても再確認することができました。
牧師に、「何をしたらいいですか?どうしたらいいですか?」といちいち尋ねるなら、御霊によって歩んでいない証拠であり、聖霊が分かっていません。明け渡して内におられるイエス様と一心同体で生きているなら、何をするべきか、その答えは必ず与えられます。クリスチャンが頭に戻って、あれこれ考えだし始めるなら、霊は即死、イエス様から手を放して迷子になっていることを忘れてはならないと改めて語られました。
箴言4:1~27
子供らよ、父の教を聞き、悟りを得るために耳を傾けよ。わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。わたしの教を捨ててはならない。わたしもわが父には子であり、わが母の目には、ひとりのいとし子であった。父はわたしを教えて言った、「わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ。それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。それを尊べ、そうすれば、それはあなたを高くあげる、もしそれをいだくならば、それはあなたを尊くする。それはあなたの頭に麗しい飾りを置き、栄えの冠をあなたに与える」。
わが子よ、聞け、わたしの言葉をうけいれよ、そうすれば、あなたの命の年は多くなる。わたしは知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。あなたが歩くとき、その歩みは妨げられず、走る時にも、つまずくことはない。教訓をかたくとらえて、離してはならない、それを守れ、それはあなたの命である。よこしまな者の道に、はいってはならない、悪しき者の道を歩んではならない。それを避けよ、通ってはならない、それを離れて進め。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ、寝ることができず、不正のパンを食らい、暴虐の酒を飲むからである。正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。
わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。
アーメン
イエス・キリストは命のパンです。朽ちない食物・パンを食べる生き方ができているか、私たちは問われました。そして、救われるということは、アダムとエバが罪を犯したことによって即死した霊がよみがえるという、イエス・キリストによってのみ与えられている特権です。そこには、9つの御霊の実【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】が伴います。さらに、聖霊のバプテスマを受けることによって、9つの聖霊の賜物が与えられます。
【啓示の賜物(知る力):知識の言葉、知恵の言葉、霊を見分ける力】
【力の賜物(行う力):信仰の賜物、奇跡を行う力、いやしの賜物】
【霊感による賜物、交わりの賜物(語る力):預言の賜物、異言の賜物、異言の解き明かしの賜物】
これらは、いわゆるスピリチュア的、カルト的なもの(悪魔からくるもの)ではなく、聖書に書かれてある力であり、神ご自身が下さるものです。ただし、どちらも、自分の肉の思い(救われる前の価値観・習性・感覚)が騒がしく、特にプライド、高ぶりが邪魔していたら発揮されません。
真に人を解放するのは、9つの御霊の実と、9つの聖霊の賜物のバランスが保たれているクリスチャンであると語られ、私たちは神に与えられた御霊の実の性質で生き、賜物をもって語り、みことばを行なうことができているか、自分自身を吟味しました。
私は見ることによって動かされません。
私は感じることによって動かされません。
私は自分の信じることによってのみ動かされます。
霊的なことは自然のことよりも現実的であることを知りなさい。
自分の霊に目を向けることを学びなさい。
あなたの霊があなたに語ります。
あなたの霊はあなたの頭が知らないことを知っています。
スミス・ウィグルスワース(1859~1947)
完全におかしくなった日本政府、そして、曖昧さ、優柔不断さ、多様性を好む日本人がつくった母性社会において、希望(のぞみ)はイエス・キリストだけです。いよいよ明日から8月ですが、何が待ち受けているのか・・・様々な混乱と勝利のうわさが聞こえてきますが、主にあって、心を強くして、頭に戻らず(戻ったら即死)、自分の霊に目を向けて、ますます御霊により生活していきます
今週は水曜日から土曜日まで、福岡、韓国、東京、浜松から兄弟姉妹が集まり交わります聖霊によって集められた一人一人の召しに従って預言が下ることを求め、クリスチャンが一つ思いで力強く神の御心を成し遂げていけたことを感謝して祈ります
今週の教えは、「新・神の国は力である」ぶどうの木13年間の歩みの証 小さな群れのみことば実践を参照しました。神の国は愛や恵み、喜びではなく、力ぜひご一読ください