掴んだイエス様の御手を放さない | ぶどうの木 Good News

掴んだイエス様の御手を放さない

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今週の集会は、詩篇92篇から始まりましたベル

 

詩篇92篇本

いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。しかし、主よ、あなたはとこしえに高き所にいらせられます。主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。しかし、あなたはわたしの角を野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの破滅を聞きました。正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。

 

アーメン宝石紫

私たちクリスチャンは、神の御業、訓戒に対して鈍感であってはなりません。神の御心に対して、鈍い者、愚かな者はこの邪悪な世の中で悪霊の攻撃を受け、滅ぼされてしまいます。神の言を聞く集会の席は、聞いて悟り、解る人のためにあります。無駄に席をふさぐ者は、来たくても来れなくなり、神が取り除いていかれます。

今週の集会では、大海原でさまよう難破船だったところからイエス様の御手を掴んで救われたのに、いろいろ満たされ整えられていくと、再び欲が出てきてこの世の快楽に目が向くようになり、他のものを握ろうとしてイエス様の御手を放していないかと問われました。イエス様の御手を放した途端、握らされるのはサタン・悪魔の手です注意一時は栄えても(そのようにサタンに思わされます)、不義を行う者の終極は滅びです。肉にまいたものを刈り取り続ける人生です。せっかく主の家に植えられ、神の大庭に栄える者とされても、自らその特権を放棄してしまうなら、この世でもっともむなしい者になります。

 

サタンはクリスチャンを直接殺すことはできません。ヨブ記2章を読むと、サタンは神の御手の中で動き、「命は助けよ」とおっしゃっています。また、イエス・キリストはすでにサタンに勝利しているため、主の御名を呼び求める者の命を奪うことはできないのです。しかし、クリスチャンの前に誘惑を置くことはできます。クリスチャン自身が神から与えられた自由意思をそこに向けるなら、また、自ら神の訓戒を軽んじ、「無理、分からない」と不信仰な言葉を出して神の言に聞き従わないなら、死に向かっていく事になります。自らサタンの手を握った瞬間、自業自得の結末が待っているのです。

 

先週金曜日に、小板牧師による第3回目の聖書講座があったのですが、今回は創世記3章1節~5節を通して、狡猾なへびとエバのやり取りを深く学びました。

創世記2章には、神がエデンの園に、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせ、【主なる神はその人(アダム)に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。】と書かれています。クリスチャンになると、あれもダメこれもダメと禁止されると勘違いしている人もいますが、この一文だけでも、神が心のままに取って食べてよい自由を与えて下さったことが分かります。ただし、善悪を知る木からだけは取って食べてはならなかったのです。なのに、人間は唯一禁止され、食べたらきっと死ぬと言われていた善悪を知る木に執着しました。

3章で、神が造られた野の生き物のうちで最も狡猾であったへびが出てきて、アダムの助け手としてつくられたエバに、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神は言われたのですか」と問います。神は「どの木からも取って食べるな」とはおっしゃっていません。「どの木からでも取って食べてよい」とおっしゃったのに、へびは嘘を言ってきました。その嘘つきの声を聞いたエバは、自身は直接神から警告を聞いたわけでもないのに、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ、園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」と答えました。「これに触れるな」と神は一言も言っていません。エバが付け加えたのです。さらに、「死んではいけないから」という言い方を神はしていません。「取って食べると、きっと死ぬであろう」とはっきりおっしゃいました。エバは情欲で言い方を変え、厳しい神の警告を生易しいものにすり替えたのです。このようにエバの伝え方が悪かったため、へびはエバを安心させ、神を自分と同等の者のように錯覚させ、妬みを起こさせるために「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」と語りました。そして、エバはへびの巧みな誘惑に負けて、実を取って食べ、アダムにも与え、二人は裸であることが分かり、いちじくの葉をつづり合わせて、腰にまいたのです。

へび・サタンが「善悪を知る木から実を取って食べろ!」とは言っていません。そのような言い方をされたら、さすがにエバもそれはダメだと思ったでしょう。サタンは、嘘を言い、惑わして、罪に誘ってきます。このへびの狡猾さが、サタンのやり方であり、その声に少しでも耳を傾けてしまえば、簡単に足もとをすくわれてしまいます。サタンの知恵に、私たち人間の知恵は勝てないのです。

せっかく神がエデンの園を設けてくださって、良いものを与え、喜び楽しみ平安に過ごせるようにして下さったにもかかわらず、感謝を忘れ、与えられている恵みと裸であるという自由を放棄した途端、恥ずかしさが生まれます。善悪を知る木から実を取って食べ、自分の知識から答えを出し始めると、世間に対して神の言に聞き従っていることが恥ずかしいと思わされていくのだと語られました。

 

今週の集会では、A兄弟がまさにこの狡猾なへび・サタンの声に誘導されて、自分が神の子であることを忘れてしまっていたこと、そこから悔い改めてたちかえった証をしてくれました。

 

A兄弟は、先週の集会を高熱で欠席しました。高熱でうなされる中で、サタンは「苦しくないか?偽善で生きていないか?」と耳元でささやいたのです。A兄弟は“妻と娘2人が信仰しているのだから、自分も同じ信仰を持った方がよい。家族は同じ信仰の方がよい”という思いで、聖書を学び始め、分からないことや納得しきれていない教えであっても、幼子のようにただただ「アーメン」と言って受け入れ、3年の月日を送ってきました。もちろん、今は家族に合わせた信仰ではなく、自分自身で親しく教えを聞き、イエス様こそ真の神であるという信仰をもっています。しかし、サタンは、「妻に喜ばれるためにこの信仰をしていないか?本当にそれでいいのか?人生楽しいか?毎日仕事が忙しく自分の時間がないのに、自分を殺してまでこの信仰を続けるのか?気分転換のゲームをダメと言われ、趣味のサッカーをする時間もない。自由ってなんだ?」と問うてきました。普段は仕事が忙しく、そんな事を考えることもなく、特に疑問にも思わずきていたのですが、発熱したことで色んなことを頭で考え出してしまったのです。すると、群れのトークルームの通知が多く仕事終わりに読むのは大変であることや、ブログへのコメントをすることも嫌になり、「これは暇な主婦にしか対応できない。働いている人間には無理だ」と言い始め、応えられないことも悪いから、群れを出るとまで言い出しました。イエス様に救われたことで、不整脈があった体が完全に癒され、自分の肉では家族を守れないが神に繋がることで皆を守ることができるという平安を得たにもかかわらず、自分が受けた恵みや愛をすっかりとられ、不平不満が溢れ出てきたのです。

A兄弟がなぜここまでサタンに自分を身を明け渡して、群れの在り方(トークルームやブログコメントを通じての交わり)を迫害する側に使われることになったのか、牧師はカウンセリングをしながら一つ一つ動いてきた霊を見分けていきました。

 

きっかけは、会社の研修旅行の中での懇親会でした。コロナ明け初の懇親会(酒の席)で、ワクチンの危険性について真面目に部下に話をしていると、同じ役職にいる先輩から、「その話はいいから!」とあざけってきて、さえぎられたそうです。きよく立とうとしていたA兄弟を、汚れたものに変えてくるこの世の声でした。A兄弟は、次期社長候補とも言われているその先輩から言われたことがおもしろくありませんでした。妬みもあり、大事に育ててきた部下をキャバクラに連れて行かれ、さらに腹立たしい思いに満たされました。そして、今までなら自分が場の盛り上げ役だったのに、クリスチャンとなりそういう事ができなくなったことを、聖別されたとは思えず、清い自分でいることが会社の皆につまずきを与えているのではないかと錯覚してしまいました。古い自分に未練があり、古い自分なら部下を引っ張り、先輩よりも目立ってその場を盛り上げ慕われていたことを思い出し、救われる前の方が良かったと思ったのです。これがA兄弟がイエス様の御手を離して、再びサタンの手を掴んだ瞬間でした。イエス様の御手を離すと、思うべき限度を越えて思い上がり、他人と比べるようになります。そして、神を信じて生きることがばかばかしく、恥ずかしいことのように思わされていくのです。

その夜、ホテルの部屋で寝ようとすると、エアコンのスイング機能が壊れており、寝ている間中ずっと冷気を受けることになりました。A兄弟は、“これは風邪をひくな”と思ったそうです。牧師からは、聖霊の風ではなく、冷淡な風をずっと浴びることになったのだと解き明かされました。私たちクリスチャンの助け手は聖霊ですが、自分の中にきよさがないといっきに働いてくださらなくなり、反対に悪霊が助け主となって、どんどんサタンの敷いたレールに乗っかっていくようになるのです。

案の定、翌日A兄弟は体がだるく風邪をひいたと思いながら帰路についたのですが、娘の就職試験が不合格であったことも聞かされ、さらに落ち込みました。娘の結果が出るまで、毎日みことばをひいては(本来みことばは“もらう”ものですが、おみくじ占いのようにみことばを“ひいて”いたのです)、今日は良いみことばだから今日通知が来たら受かる、今日は悪いみことばだから今日通知が来たら落ちるというように、神を試していたそうです。直属の部下と娘を握り、どちらも自分の思い通りにいってほしかったのに、部下はキャバクラに連れて行かれ、娘は不合格であった事から、イエス様に対する不信感も生まれました。

こんな状態のA兄弟に対して、神は何も状況を知らない小板牧師を通して創世記3章の蛇の誘惑について解き明かして下さったのです。A兄弟は、すぐに自分に語られているとは分からないほど、鈍感になっていました。まるで小板牧師が牧師とのカウンセリングの席にいたのではないかと思うほど、的確なメッセージが与えられているのに、A兄弟は「何も入ってこない」と言い、その後4回同じメッセージを繰り返し聞いたそうです。そして、ガラテヤ2章19節~3章5節まで頂き、ようやく自分がいかに神の恵みを忘れていたか悔い改めに至りました。

 

ガラテヤ2:18~3:5本(牧師は19節からではなく、18節から読むようおっしゃいました)

18節

もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。

19節から

わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。

 

アーメン宝石ブルー

しかし、A兄弟は集会が始まるまで、完全に「ハレルヤ!解放されました!」とは言えない状態だったそうです。その原因をイエス様に聞き、とにかく集会の席に着くことに意志を向けたら、集会の中に答えがありました。テサロニケ人への第一の手紙3章8節から、4章、5章を通読したのですが、A兄弟は【神のみこころは、あなたがたが清くなることである】(4:3)というみことばでようやく完全解放に至り、“自分がきよくない方法でがんばっても上手くいかない。きよくなってはじめて祝福を得るのだ!”と語られたのだと証してくれました。

懇親会は、清くないこの世の交わりでした。そこで発熱し、妻のB姉妹は霊的原因を追究しようと思いましたが、A兄弟は「ただの風邪なのに、なんでもそのように考えるのはカルトだ」と言って拒みました。しかし、実際は神から来たものか、サタンから来たものか、二つに一つしかありません。自分ではそれが分からないから、牧師や信仰の仲間である兄弟姉妹がいます。自分がどこで門を開いたのか、何を握らされているのか、どんな霊力を動かしているのか、一つ一つ解き明かされることで、門を閉じ、握っているものを捨て、状態を来たらせてしまったことを悔い改めて罪から解放されることができるのです。「私は神の子!」と言える人は強いです。「あなたは神の子でしょ!」と牧師に言われて目覚めることができる人は、たとえこの世に流されて自分が何者であるか見失ってしまう時があっても、必ず神にたちかえることができます。救われたことへの感謝と喜びを思い出すことができるのです。

グループラインを拒めば、羊の群れから出て自由勝手に動くやぎになりますから、いっきにサタンに襲われます。サタンのすることは、羊を牧者から離して一人にし、盗み、殺し、滅ぼすことです。それゆえ、私たちクリスチャンは互いに愛し合い、励まし合い、祈り合い、信仰の足りないところを補い合わなければなりません。グループラインも、ブログコメントもそのために必要な神の恵み、命綱なのだと語られました。神の家族の一員、キリストの肢体の一部であるという自覚をもち、一つの肢体が痛めば、他の肢体も痛むという事を知っていれば、身勝手なことはできなくなるのです。

 

また、幼子のようになるとは、何も考えずバカになることではありません。一つ一つ素直にみことばを受け入れ、9つの御霊の実の【愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制】という順番通り、まず神の【愛】、初めの愛を受けて神と出会い、次に神の御手の中で生きているという【喜び】を感じ、健康面、経済的、社会的に恵まれて【平和(平安)】を得ていくというように、鈍感にならずに神の臨在、愛、力を悟っていくという事です。そして、最後は【自制】です。善悪を知る木から取って食べてはならないと神がおっしゃったように、神が禁止していることはしない、悪魔に心を売り渡すような事はしない、天の父である神に訓戒されたら、速やかに悔い改めるのです。今の時代は、親から正しく叱られてきていない人が多く、親となっても、我が子をどのように叱っていいのか分からない、自分の思いを言葉にできません。ライオンが愛する我が子を谷底に突き落として這い上がってくるよう教えるように、動物の方が、我が子にたくましさを教えるために厳しく育てています。クリスチャンになり、牧師に訓戒されることをキツイと感じたり、皆の前で戒められることを恥ずかしいと思い、群れを出て行く人もいますが、神は危険な事に対しては「きっと死ぬ」とおっしゃる厳しくも愛あるお方です。なぜダメか納得させて下さる愛の神です。神の愛は肉に対して厳しいですが、霊に対してはこれ以上感謝なことはないのです。その愛が感じ取れない、なぜ訓戒されているのか分からない“鈍感”、“鈍い自分”を忌み嫌い、幼子のように叱られたら素直に謝り、気持ちを切り替えてまた喜んで過ごす姿勢が大切なのだと語られました。

そして、本来、9つの御霊の実を生まれた我が子に一年ずつしっかりと教えていけば、9歳で神の御心にかなった心が育ち、自分で勉強し、社会に出てどのように貢献できるか考えられるようになり、何があっても賢く対応できる大人へと成長していくことができます。そんな教育が破綻し、親が子を握って口出しすることが多く、何でも手を出して助けてあげようとするため、自分の足で立つことができません。結局親が我が子を足なえにしてしまっているのです。だからと言って、「握らない」=「無関心、無感心、無観心になる」という事ではありません。じっと見守り続けることは必要です。そして、いよいよ危ないと思ったら手を差し出します。そのタイミングが御霊によって行なえているか、行なえているなら、豊かに御霊の実が結ばれていくのだと語られました。

そして、親子間だけではなく、夫婦間においても、どんな言葉をかけているのか、自分の出す言葉で相手を縛ってしまっていないか吟味しなければならないと語られました。例えば、仕事が大変で身体が疲弊し、まず神の国と神の義を求めることができなくなった夫(妻)、神の御前では兄弟(姉妹)が転職を考えている事に対して、「でもやめたら生活はどうなるの?子どもの学費はどうするの?」と言ってしまうのであれば、夫(妻)を握り、そこに生まれるお金を握っているのだと語られました。また、この世、会社や学校に行って帰ってきた夫(妻)や子どもが不信仰の言葉や悪口を言う時、自分自身も忙しくしていて聖霊に満たされていなければ、その霊力にまかれて同じように悪口を言ってしまったり、真剣に話を聞いて相手の霊性を正してあげることができません。また、イライラしたり、どうせ話しても無駄だとあきらめて語っているなら、何の力もありません。自分が夫(妻)や子を握っているなら、握っている自分も握られている相手も苦しく、二人で穴に落ち込んでしまいます。家庭の中の霊力をきよめるためにも、クリスチャンであるならばまず置かれている自分が聖霊に満たされるために握っているものを捨て、いつも喜んでいなければならないのだと語られました。

クリスチャン夫婦、クリスチャン親子であれば、相手がイエス様に救われ、イエス様の御手を掴む意志をもって生きていることは感謝なことです。相手の霊は神の子であるのだから、とにかくイエス様の御手を放してサタンの手を掴むことのないように祈り導くこと、高ぶって自分の力と情欲の言葉で相手を変えようとするのではなく、霊から出る言葉(みことば)と行いによって語り、相手の頭に燃えさかる炭火を積むことが重要であると語られました。そうすれば、神がその心を見て働き、相手の霊を立たせ、変えて下さる!それが真理であるのだと語られました。

 

第1テサロ3:8~13本

なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか。わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。

どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。

 

第1テサロ4章本

最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。

兄弟愛については、今さら書きおくる必要はない。あなたがたは、互に愛し合うように神に直接教えられており、また、事実マケドニヤ全土にいるすべての兄弟に対して、それを実行しているのだから。しかし、兄弟たちよ。あなたがたに勧める。ますます、そうしてほしい。そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう。

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

 

第1テサロ5章本

兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。

兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 

アーメン宝石赤

汚れた人、俗にまかれた人には品位、品格はみじんもありません。この世の終わりの日、主が再臨される日が来る前に、しっかりと善悪を識別し、聖と俗を区別し、神に善しとされる良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざからなければなりません。握ってきた古い皮袋を捨てて、新しい皮袋になって、神の教え(みことば)を素直に聞き、実践し続けることで、日々きよさを保ち、霊と心(魂)と体を完全に守らなければならないと語られました。

 

テトス1:10~16本

実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、この非難はあたっている。だから、彼らをきびしく責めて、その信仰を健全なものにし、ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

 

ローマ11:33~12:21本

ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。

「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。

万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

 

アーメン宝石緑

 

イエス様の御手を放して、サタンの手を握ることは、霊的に不倫しているのと同じです。先週語られた通り、ゲーム、アイドル、食べ物など、自分の心と時間を他のものに注ぎ出していないか、仕事をしながらいつゲームができるか、これを食べようあれをしようと考えていないかと問われました。全て捨て去れば、いっきに自由時間が生まれます。私たちは神の子!今週与えられたたくさんのみことばを霊にしっかりと蓄え、行いに移して、イエス様の御手を握りしめて歩んでいけたことを感謝して祈ります乙女のトキメキ