神の聖徒にふさわしくあれ! | ぶどうの木 Good News

神の聖徒にふさわしくあれ!

holygirlですニコニコ

 

先週の集会で、私たちは「イエス様が道」であり、宗教ではないということを再確認しました。宗教は気休めにすぎませんが、聖書の教え、学びは、自分自身を変える(正す)ものです。救われるとは、イエス様の道・線路にぴったりと自分という車両のタイヤをはめて乗るという事であり、どんな人間も、まず救われ線路に乗らなければ、天国には行けません。

 

ヨハネ14:6本

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

 

救われる前を振り返ると、神を知らない、イエス様の道・線路に乗っていない人生は、一喜一憂の人生でした。ちょっと嬉しい事があれば喜びますが、それも長くは続かず、嫌な事が起きたらすぐ落ち込んだり、腹を立て、自分の感情と周囲の言葉や態度に振り回されていました。先祖や仏、八百万の神々など、信じて一生懸命拝む存在、拠り所にしている人や物はあっても、いざ艱難辛苦の時に、絶対に大丈夫!必ず助けてくれる!と強い確信をもって仰ぎ見る存在はいませんでした。多くの日本人には、神々に拝む信心はあっても、信仰はありません。信仰とはどういうものなのかを知りません。

イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、救われて生きるという事は、神に知られ、神の御手・恵みの内を歩み始めるという事であり、そこには信じて仰ぎ見て間違いないという絶対的信頼が生まれます。神の守りを日々体感することができます。そして、ただ信じていれば出発できるのではなく、出発して常に線路の上を進むためには、集会・礼拝に参加すること、ぶどうの木の羊であるなら、さらにブログを通して今週の教えを読み確認することが必要です。信仰の線路点検の場が集会であり、ブログだからです。これから一週間歩む線路の上に、イエス様から離れさせようとするつまずきの石が落ちていないか、悪い思い(誘惑)や計画を握って線路がゆがんでいないか、車両である自分自身に汚れや傷はついていないかなど、しっかりと安全点検をしなければなりません。

肉と霊は真反対であると学んできた通り、自分の意見を言わず、イエス様のみことばに聞き従うことが線路から外れることなく歩む条件です。感謝なことに、救われると死んでいた神の霊がよみがえり、霊の自分は神に忠実に歩みたいと願うようになります。聖書を開けば、霊の自分は正しく神の御心を受けてみことばをもらうのです。しかし、救われる前から慣れ親しんできた肉の自分は、みことばに反発したくなります。みことばでは「行け」と言われても、肉の自分は「行きたくない」と思ったり、みことばでは「あの人に謝罪しろ」と言われても、肉の自分は「絶対に謝罪したくない」と思います。自分の霊がもらっているみことばに、自分の肉は反発するという、まるで2人の自分がいるような感覚を体験します。肉の自分は、もう一人の霊の自分がもらったみことばであるにもかかわらず、「これに従うなら自分の思いは尊重されず、自由がないじゃないか!」と思うのですが、その思いこそ神の目から見たら高ぶりです。イエス様の道・線路にぴったりと自分の車輪がはまっていること前提で、私たちクリスチャンには神の守りの内に自由があるのであって、肉の思いに従って生きることを自由と思い、その自由を求めるなら、線路から脱線して、サタンが敷いた線路の上、つまり神ではなく富に仕え、情欲に従う道に再び戻るという事です。

みことばで「行け」と言われたのなら、肉の自分は行きたくなくても、従ってみるのが信仰です。自分の願いだけを聞いてもらおうとするご利益宗教をしているなら、どこまでも自分の心のままに生きるだけ・・・しかし、心はよろずの物より偽るものであり、はなはだしく悪に染まっていると、人間を造った神はおっしゃっていますから、結局心に従った判断は、その場しのぎなだけで、一喜一憂して終わるだけです。肉の自分は行きたくなくても、従って行ってみるなら、思いもよらない出会いや祝福が待っているでしょう。「行ったら帰りが遅くなって、次の日の仕事に支障が出る」「行ったとしてもどうせ疲れるだけ」と思い煩っていたなら、そんな疲れを感じさせない神からの復活の力も体験できるでしょう。神が行く必要があるとおっしゃるなら、必ず神の御計画が成就し、自分自身が変わる機会となるのです。

 

私たちは、先週の教えをさらに深く学んだあと、丸38年目を迎えたビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言を確認しました。

 

<1985年5月6日にアメリカ・カリフォルニア・ロサンゼルス・メロディーランド教会において、ビリー・ブリム女史によって日本人に出された預言>


大いなる光があの日本という国に臨みます。大いなる、大いなる、大いなる光です。聖書にこう書かれてある・・・
イエス様は朝の光のように、地に若草を芽生えさせる雨のように人に臨むと。(サムエル下23:4)イエス様の朝日の輝きはまず東洋にのぼり、その福音の光は西洋におよび、今また東に帰ってこようとしています。
あなたの生まれたあの国に神が大きく働かれるのをあなたは見るでしょう。神の光をあの国に見ます。神の光がその民の上にあるのを見ます。

そうだとも!
あなたがたは光を見る。神の光がこの地球を行きめぐる。大いなる尊い光を見る。あなたがたはまだ、真に輝く光を見たことがなかった。人間の思いの垣根というかげりの一切ない真の光を。しかし今この時に、栄光から栄光へと増し加えられていく、力に溢れたその光が来るのを見る。あなたがたはさらに良く見えるようになる。このわたし、「有って有る者」とよばれるこのわたしこそが、あなたにとって光となる。その光をあなたがたは見るようになる。こうしてその福音の光、このみことばの光は、未だかつてそれを聞いたことのなかった人々の耳にとどまるようになる。それは超自然の大いなる光だ。このわたし自身なのだ。


わたしはあなたを暗きところから、あなたを取り囲む状態からあなたを引っぱりだす。もう答えがないとあなたは思った。見ないか、あなたの神という光に目を向けよ。このわたしがそれだ。この暗い時代に神の光は輝きわたる。あなたはその神の光(力)を与える器となる。しかしそのともし火は、わたしだけによってともされなければならない。この世によって曇ったり、汚れたりしてはならないのだ。わかるか。わたしの血によってきよめられた、純粋な混じりけのない器。盛んに燃え続ける灯火(あかり複数)。あなたがたが洪水なのだ!

わたしはあなたをわたしの心に引き寄せる。あなたの一部ではなく、すべてを明け渡すようにとあなたを召す。この灯火となるために、自分の全身全霊を捧げるようにと召す。完全にわが手によって治められるように。今、あなたの立っているこの場所で、それを本当に現実のものとしてあげよう。それによって光を輝かすための、わたしに従順に応じる、聖なる器。

わたしはあなたをふるう。わたしの力によって・・・あなたは生きのびる・・・この時代を。あなたは生きて死ぬことはない。・・・「なぜ!?」と叫ぶな。ただ聖別され、ひたむきに専念しなさい。あなたに、そしてあなたをとおして、わたしが輝けるようにしてほしい。明け渡せ!放せ!脱ぎ捨てよ!栄光に輝く花嫁にふさわしくないものは、すべて捨て去れ!
あなたにそれができるようにした、と言ったではないか。いっさいの重荷を捨てよと。わたしがしなさいと言うことはできるのだから・・・。捨てておきなさい、ふたたび拾い上げてはいけない。

(中略)

今もし幕を取り去りさえすれば、おおいなしに神の栄光を見る。神の教会が現れる。栄光と恵みにあふれ、はっきりとした力の現れに満ちた教会。天にあって、永遠に離れることなくわたしの前におらせるために計画した教会だ。だから定められた位置につくがよい。わたしはあなたがたに言う、(あなたがたは)争いも分裂もまったくない、栄光のための容れ物として用意されている。銀行には黄金が貯えられている。しかし、そんなものよりもはるかにはるかにまさる富・・・人間の金庫にはおさめきれない大いなる富をおさめる器・・・。この終りの時に、神の臨在・・・神の目的・・・神の言葉と力を注ぎ出す器たちよ。

 

偶像化された偽の神々を知り拝んでいる日本人は多いですが、真に輝く光=真の神を見たことはありません。神より自分の方が偉いという思い込み、みことばに反して自分の意見を主張する思いが、常に垣根となり、かげりとなって邪魔をしているのです。しかし、この暗い時代に神の光は輝き渡るようになります。毎年預言を確認してきましたが、盛んに燃え続ける灯火=神を信じ、神を畏れ、神に従うクリスチャンたち(イエス様の線路を走る人々)対悪魔崇拝者たち(善悪を知る実を食べ、自分偶像礼拝している)の戦いが終盤となり、様々な悪事が暴かれている今年の5月は、より強く「この暗い時代に神の光が輝き渡るのだ」と、預言の成就を確信します。

私たちは、このコロナ禍3年間を、生物兵器であるコロナウイルス、毒ワクチンの被害を受けることなく、生き延びてくることができました。それは私たちが人間として優れていたからではなく、一方的な神のあわれみであり、神の恵みの内を生き、神に対して従順に生きてきた事による祝福です。神に従順であったからこそ、クリスチャンの特権として、神ご自身が危険なワクチンはじめ、暗闇の時代に行われてきたことを聖霊によって知らせてくださってきたのです。

また、この預言を通して、私たちはますます、神に喜ばれ、人にも受け入れられる器でなければならないと語られました。神に喜ばれることだけを求めているなら、周囲の人からは自己中に見えているかもしれません。神を信じていると言いながら人に受け入れられていないなら、結局神から人々を散らす側になっており、神にも喜ばれていないでしょう。霊と肉は真反対である以上、神に喜ばれ、“人にも喜ばれる”ことはなかなか難しいかもしれませんが、神に喜ばれているなら、“人にも受け入れられる”のであって、それが、私たちが神の臨在、神の目的、神の言葉と力を注ぎ出す器になれているかのバロメータとなるのだと語られました。

そして、救われて神を愛するようになり、3つのムカンシン(無関心、無感心、無観心)から解放されたのであれば、隣人にも神の愛を注ぎ出せるようになるでしょう。今だけ、金だけ、自分だけの世の中で、自分のことしか考えていない人が多い世の中で、他者を思って言動し、人間の金庫にはおさめきれない大いなる神の富を施せる者こそ、神の栄光となっていきます。全身全霊を捧げて真の神・イエス様が輝けるようにするためには、完全に肉の自分を捨て去らなければなりません。聖霊の力によってそれができるのだと私たちは再確認しました。

教会という建物ではなく、クリスチャン一人一人が計画された教会であり、神の栄光をあらわすために、家庭、学校、職場という定められた位置についています。私たちはキリストの肢体であり、父、母、夫、妻にそれぞれ役割があるように、霊の世界においても各自役割を頂いていることを忘れてはなりません。クリスチャンが、置かれた場所で役割・任務を果たすことによって、この世界はサタンの声を聞く者主導ではなく、神の声を聞く者主導でまわっていくのです。

 

今、この時も、定められた位置でクリスチャンは戦っています。全てのクリスチャンが、霊の世界においては日々戦いの中ですが、特に悪魔崇拝者たちと戦う人々は現実的に命懸けです。アメリカでは、トランプ氏自らが、またテレビニュースが今や「これは霊的戦いだ!」と言葉にしているそうです。彼らが守られ、任務を遂行できるように、私たちは祈りで支えなければなりません。一つの望み、お金のために生きるのではなく、神を愛し、隣人を愛する生き方を求めて召された者たちがおり、彼らは同じくキリストの肢体である私たちに様々な角度から真実を知らせてきてくれました。それを私たちが忠実にキャッチできるよう、聖霊が豊かに働き、最前線で戦う人々との信仰の一致、知識の一致とに到達できるように導いてきてくださいました。

救われていない人々(異邦人)、聖霊のバプテスマによって聖霊の力を受けていない人々は、無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になってしまい、サタンの策略(ワクチンによる人口削減計画)にかかっていきました。せっかく神が周りを使ってあらかじめ知らせて下さっていても、聞く耳を持つことができませんでした。特にコロナワクチンを信徒全員に勧め、接種させた牧師、自身も接種して被害を受けている牧師は、イエス様に今何を語られているのでしょう。ワクチンを接種している者としていない者で、家庭、教会、社会は二分化され、神・聖霊に従う者か、サタン・悪霊に従う者かで、世界は大きく二分化されています。

だからと言って、私たちがサタンの策略にかかってしまった人たちを見捨てるのであれば、私たちの内に神の愛はまっとうされていません。どんなにこの世の中で悪人と呼ばれ、極悪非道なことをしてきた人であっても、この地上で命ある限り、回心するチャンスはあります。悔い改めるなら、神の恵みと癒しを受けられます。それを忘れず、学んだ真理、聖霊によって与えられてきた情報を異邦人に知らせると共に、キリストの肢体であるクリスチャンに対しても、彼らが聖霊の声を聞けてこなかったのであれば、これ以上害を受けることのないように、ますます神の愛をもって真実を正しく伝えられるように励まなければならないと語られました。私たちがイエス様に繋がっている限り、希望は失望に終わらないのですキラキラ

 

エペソ4:1~32本

さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。そこで、こう言われている、

「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。

さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。盗んだ者は、今後、盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい。悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

 

アーメン宝石赤

 

そして、続くエペソ5章からは、自分自身が神にならう者となれているのか、神の国を継ぐ聖徒にふさわしい者になれているのかを問われました。

 

エペソ5:1~21本

こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、

「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

 

アーメン宝石ブルー

 

貪欲、不品行、汚れは、聖徒にふさわしくありません。イエス様の線路から脱線し、地獄に行ってしまいます。また、【偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない】と書かれている通り、お墓参りや仏壇に手を合わせること、神社を参拝するといったお参り、拝むという行為は偶像礼拝になります。クリスチャンになり、家族から「仏壇に手を合わせないなんて、先祖を粗末に扱っている」という迫害を受けることがありますが、先祖をないがしろにしているわけではありません。逆に先祖あっての自分の生命であることに日々感謝して生きられるようになり、わざわざ手を合わせてその時だけ参らなくても、いつも心の中に家族・隣人がいるのがクリスチャンです。お墓参りをしないことに親族から反発する声が上がるなら、「お墓に行って先祖にご挨拶はしますよ」というのも知恵の一つでしょう。日本人の中にある、拝む、参るという感覚がクリスチャンを縛ろうとしてきますが、私たちはその行きすぎた信心が、真の神への信仰をもてなくさせていることを知り、家族であっても聖別され、賢く対応していかなければならないと語られました。

また、偶像とは、仏像や地蔵といった神々に関するものだけではなく、甘いものがやめられない、これだけは手放せない、この歌手のコンサートだけは絶対に行きたいなど、これがないとダメと思えるようなものは全て自分にとっての偶像になっているのだとも語られました。

さらに、自分を神にして周りに拝ませるようなことをしていないか?とも問われました。特に今の時代はソーシャルメディアが発達し、TikTokやインスタグラムなど、自分の姿や日常を投稿する機会が増えています。その投稿を楽しみにしている人たちにとっては、投稿者が神、偶像(アイドル)です。神の目から見たら神より高ぶった人間になるわけですから、速やかにその罪から離れなければならないと語られました。

 

そして、【あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。】と書かれていますが、まさにこのコロナ禍は、不誠実な言葉に世界中がだまされてきたのではないでしょうか。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は5日、新型コロナウイルス感染症に対する緊急事態宣言を終了すると発表しました。日本では、今日から新型コロナウイルスが5類に移行されましたが、ワクチン6回目接種が行われようとしています。この3年間、政府、マスコミに出てくる医師、専門家、かかりつけ医の不誠実な言葉によって、80%の日本人がワクチンを接種しました。危険だと分かり、善意ある医師や専門家たちが声を上げ、ワクチン被害者、ワクチンで身内を失った遺族たちが訴訟を起こしているにも関わらず、まともに向き合わない不誠実さが、この国のワクチン接種をさらに進めていきました。6回目接種をするのは、今や世界で日本だけです。

私たちは、救われた時から、「素直に、正直に、誠実に、みことばに忠実に」生きるよう教えられてきました。自分が誠実に、嘘をつかずに生きていれば、周りの不誠実、嘘を見極めることができますが、自分が不誠実であれば、相手の不誠実さや嘘に鈍感になります。製薬会社から大金を受け取り、マスコミに出て不誠実な誘導をし続けた医師、専門家は、役目が済んだら、身を隠しています。本当に国民の人命を守ろうとする医師なのか、自分の利益のため(金儲けのため)に喜んでワクチン接種を続ける医師なのか、このコロナ禍で一目瞭然となりました。

また、聖書は幼子のようになることを教え、素直に正直に生きている模範が幼子でしたが、今の時代は、“子どもらしさ”という言葉が通じないほど、平気で嘘をつき、素直になれず、強がり、大人びたことを言う子どもが増えています。家庭環境に平安がなく、LGBTは当たり前、性交渉を教えるテレビや漫画を見、暴言を吐くような歌を聞き・・・本当に見ているもの、聞いているものが悪すぎます。大人がまず善意と正義をもち、真実な心で向き合わなければ、子どもは大人を信用できませんが、自分の親であっても信用できない、模範にできないという子どもが多すぎます。

 

アメリカ・ボストンではイギリスの戴冠式の裏側で、年に一度のサタン教会での儀式、世界規模のサタン(悪霊の親分)崇拝者たちの集会が行われました。映像には、壇上で聖書を破り捨てるパフォーマンスや、人々が異常な姿で踊る姿がありました。また、学校ではトランスジェンダーの教師による洗脳教育(特にLGBTQ容認の教育)や、サタン崇拝のサークルを作っても良いという許可が政府からおり、放課後に活動を行っていくそうです。子供たちの教育現場にサタニスト(サタン・悪魔崇拝者)が入り込んできていることにより、アメリカの良識ある親たちは、子供を学校には行かせずに、自らが家庭で教えるホームスクール、フリースクールを選択しているそうです。

不品行、汚れ、貪欲を追い求め、神に対して不従順に生きるなら、彼らの仲間になるなら、サタン崇拝者に成り下がるのと同じです。サタン崇拝者たち、小児性愛者になってしまった者の中には、最初はそんなつもりはなかったという人もいます。しかし、知らないうちにその現場に連れて行かれ、写真を撮られ、口外したら殺す、家族を狙うと脅され、仲間にされてしまうのだと、その手口を証言している人たちもいます。それゆえ、この闇は表に出ることなく、隠され続けてきたのです。私たちが肉の思いを優先して生きるなら、いつその手口に引っかかってもおかしくありません。霊の世界においては、サタンがいつ盗み、殺し、滅ぼそうかと狙っているのです。だからこそ、昨日5月7日の集会で強く語られたのは、エペソ5章7節、【だから彼らの仲間になってはいけない。】でした注意日付とみことばの箇所が一致したことからも、私たちがクリスチャンとして今月特に気を付けなければならない事であると分かりました。

そして、主に喜ばれるものがなんであるかをわきまえ知り、主の御旨がなんであるかを悟り、実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘する者となることが、神にならう者の生き方であると語られました。

 

今コロナワクチン未接種でいることは、神の恵み、命があるのは神のあわれみでしかありません。もし、救われていなければ、救われていても神の声を正しく聞く霊の監督者(牧師)がいなければ、私たちは皆ワクチンを接種していたでしょう。そこにまず大いなる感謝を捧げなければなりません。守られてきた命でありながら、まだ貪欲を優先させて身を滅ぼしたいのか!情欲で物事を判断して生きたいのか!と私たちは問われました。愚か者になってはなりません。御霊に満たされているなら、すべての事に感謝を捧げ、神の愛の内を生きることができます。キリストに対する恐れの心をもって生きるようになります。そこに到達して、ますます一つ思い、一つ心で互いに仕え合い、この5月を前進していけたことを感謝して祈ります!ハート