イースター☆決して見捨てない愛の神 | ぶどうの木 Good News

イースター☆決して見捨てない愛の神

holygirlですニコニコ

 

へブル11:1本

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

 

へブル11:6本

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

 

アーメン宝石赤

「信仰」とはとてもシンプルなものです。望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること、神がおり、神はご自身を求める者に報いて下さることを信じることです。幼子は素直に受け入れられます。しかし、頭に戻り自分の意見が強くなると、「どういうこと?この状況でそんなことできるわけない。現実問題、無理でしょ!」と反発したくなります。神のみことばを聞いた時に、「アーメン!」と従順になれない人は不信仰な者。信仰がないところに奇跡、癒しが起きるはずがありません。私たちは牧師を通して、「信仰がありますか?皆さんは、神に喜ばれる者、神に選ばれ、神のもとに引き寄せられた者でしょうか?」と問われました。そして、イエス様により頼まず、自分のやり方で生きようとする人はどうなるのか、クリスチャンとして肉では辛く苦しい時に必要なのは忍耐であることも学びました。

 

へブル10:19~39本

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所(イエス様との二人だけの部屋)にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道(信仰の道)をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。

あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

 

アーメン宝石紫

「忍耐」は、9つの御霊の実にはありません。これは聖霊によるものではなく、人間の肉にあるものです。「忍耐」とは、文字通り忍んで耐えることですが、「我慢」とは違うのだと私たちは学んできました。物事が起きた時、「我慢」であれば、耐えられなくなり、いつか逃げ出してしまいます。腹が立っていれば、いつか思いが爆発します。しかし、「忍耐」しているなら、たとえ腹が立っても、「みことばにこう書かれてある!」と宣言し、裁きの霊と戦うことができます。困難な状況下であっても、悪霊と戦い抜いて必ず勝利・神の約束の結果を得ることができるのです王冠1

 

今週は「信仰」と「忍耐」について霊で受け、知性でも理解した上で、イエス様の復活を喜び、素晴らしい愛のメッセージを聞きましたひらめき電球ハートイースターという事で牧師を通して与えられたみことばは、マルコによる福音書15章でした。イエス様に十字架刑が下り、十字架にかけられる“金曜日”の夜明けから15時までの出来事です。アメリカでは、イエス様が十字架にかけられた“金曜日”を、「グッドフライデー」と言うそうです。

 

マルコ15:1~34本

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議をこらした末、イエスを縛って引き出し、ピラトに渡した。ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった。

さて、祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやることにしていた。ここに、暴動を起し人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。群衆が押しかけてきて、いつものとおりにしてほしいと要求しはじめたので、ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を煽動した。そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をしはじめた。また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。こうして、イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。それから、彼らはイエスを十字架につけるために引き出した。そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった。それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。イエスの罪状書きには「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。〔こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え」。祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 

アーメン宝石紫 

先週の集会で、ローマ人への手紙11章に書かれている【イスラエル人=ユダヤ人】とは、霊の世界においては日本人・私たち自身であると学びました。イエス様を十字架につけたのは、神の子としてのイエス様の御業を妬んだイスラエル人=ユダヤ人です。総督ピラトはそれを分かっていましたが、彼らを満足させるために従い、イエス様ご自身も神の御心を成し遂げるために、何も言わず忍耐され、十字架刑へと向かわれました。

イエス様は何の罪も犯しておられないのに十字架にかかって血を流し、人類の罪を帳消しにして下さいました。「十字架にかかる」と一言で言ってしまったら、その残酷さと人類への愛の重みを想像できる人は少ないでしょう。実際は十字架にかかる前に、五寸釘(ガラスの破片とも言われている)がついたムチで39回背中を打たれ、一回ムチ打たれるたびに釘によって肉が裂かれ、39回ムチ打たれた時には、あばら骨が見えていました。(39回というのは、心身を悩まし苦しめる病の数だと言われています。)その後、いばらの冠をつけられますが、いばらが五寸釘のようであり、頭に刺さって大量の血が流れました。その時点で気を失っていてもおかしくありません。

さらに十字架にかけられる時には、両手に釘を打たれ、両足を合わせられて釘を打たれて張りつけになったので、十字架が立てられた時には、自分の全体重を釘で支えなければならず、関節もはずれました。“罪人イエス”に同情する者はなく、最後は服もとられ、素っ裸にされました。これが、「私たちの罪のために十字架にかかって血を流して下さったイエス様」です。イエス様は、十字架刑前日の過越の食事の際に、パンを祝福をしてさき、弟子たちに与えて「取って食べよ、これはわたしのからだである」とおっしゃり、ぶどう酒を与え、「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことはしない」とおっしゃいました。その通り、イエス様の体はさかれ、契約の血が流されたのです。

イエス様が十字架につけられたのは、朝の9時。ユダヤ人たちは、罪状書きに「ユダヤ人の王」としるし、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え!他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう!」とののしり、嘲弄しました。以前、イエス様が「46年かけて築いた神殿を打ちこわしたら、3日で建て上げる」とおっしゃったことをもってきて、あざけったユダヤ人たちでしたが、イエス様がおっしゃる「神殿」とはご自身の体の事であり、この時点でイエス様は3日後に復活されることを言い表しておられたのですが、人々はその意味を悟りませんでした。そして、「十字架からおりたら信じる」とユダヤ人が言ったように、「癒されたら信じる。願いが叶ったら信じる」とこの世の人たちは神を試し、しるしを求めて言いますが、実際しるしが起こっても、その一時だけ驚き信じるだけで、時間が経てば、「偶然だった、ラッキーだった」と言ってまた自分のやり方、欲に従う生き方に戻る人の方が多いです。この場面は、イエス様を迫害する者の声は、いつの時代も同じであることを教えてくれています。

 

昼の12時。神ご自身も長子イエスの姿を見ることができず、全地を暗くされました。そして15時にイエス様は大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは古代アラム語だそうで、ギリシャ語では、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。今年のイースターで、私たちが注目したのは、このイエス様の言葉でした。

ぶどうの木牧師は、“イエス様を信じる者は決して失望に終わることがないから信仰しているのに、そのイエス様ご自身が神に見捨てられ、失望して終わったのか?それでは力のない神ではないか?”と、ずっとこの場面が引っかかっていたそうです。迫害者の中にもこの箇所を持ってきて、「神に見捨てられたと自ら言っている者が、救い主のはずがない!」と言う人がおり、それに対して神学者や牧師は、「イエス・キリストも生身の体をもち、この時は痛みに耐えられなかったから、このように言われたのだ」と答えてきたのだそうです。本当にイエス様は、天の父である神に見捨てられた絶望からこのように叫ばれたのか・・・その真意を、私たちは今年のイースターではじめて聖霊の導きによって知ることになりました。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、詩篇22篇1節の言葉だったのです!ひらめき電球

 

詩篇22:1本

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

 

さらに、5節まで確認しましたひらめき電球

 

詩篇22:1~5本

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。

 

アーメン宝石ブルー

イエス様を十字架につけたイスラエル人=ユダヤ人たちは皆、神の言葉(現代の旧約聖書の内容)を知っていましたから、当然この詩篇22篇のことも知っています。イエス様の十字架上での言葉は、肉の叫びではなく、最後まで忍耐をもって神のみことばをおっしゃっていたのです!乙女のトキメキイエス様は、ご自身をあざけるイスラエル人=ユダヤ人に、神との関係を思い出させました。あなたがたの先祖をエジプトの奴隷の地から導き出した神を忘れるな!と。

そして、私たちもこの詩篇のみことばにたどり着いた時、「神を信じて間違いない!神を信頼する者は助けられ、恥を受けることはない!失望に終わらない!どんなに迫害されても、神を信じ続けよ!」という強い愛のメッセージを受けましたハートそして、牧師を通して、「どれだけの恵みを受けてここまで来たのか忘れるな!毎週集会の席に着けること、今のこの平安、恵みは当たり前ではない!」と語られました。牧師の立場から皆の証を聞いた時、神にしてもらったことを忘れ、イエス様に対して自分の意見を言って嘲弄し続けたユダヤ人同様、上辺だけ、最近あった事に対する感謝だけをあらわしているだけで、ここまでの導きや神にしてもらった大事なことがたくさん抜け落ちているのだと指摘、訓戒を受けました。

今年のイースターは、霊の世界におけるイスラエル人である私たちが、もう一度神の契約を思い出す日となりました。そして、決して見捨てはしない天なる父に対する信仰と忍耐をもって御業を成し遂げ、周りに大いなる希望を与えて天に帰られたイエス様に感謝し、信頼し、何が起こってきても、信仰で立ちあがっていかなければならないと語られました。

 

そんなイースター集会を迎える前の、先週金曜日(7日)、私は交通事故を起こしてしまいました。雨風が激しい夕方17時すぎでした。軽自動車を運転中に強烈な眠気におそわれ、一瞬意識がなくなった拍子に車体の左前方が道路標識にぶつかり、そのまま車が右に横転し、運転席側が下の状態で止まりました。軽自動車の軽さ、もろさも痛感しました。幸い被害者はおらず単独事故でした。誰も傷つけず、人の命を奪わずに済んで本当に良かったです。右側のサイドミラーはつぶれ、窓ガラスが粉々に割れましたが、横転する際に身がまえることができ、自分の顔を守ることができ、むち打ちの症状もありませんでした。

車内で“どうしよう・・・どうやって出よう・・・”と思っていると、ある会社の前で横転したため、すぐにその会社の方々はじめ、たくさんの方々が駆けつけてくれ、救急車と警察を呼んでくれました。私自身は数名の男性の助けをかりて、自力で車内から出てくることができました。奇跡的に、私は無傷でした。呆然としていましたが、イエス様に守られたことを全身で感じ、命があったことにまず感謝しました。

助けて下さった方の会社の軒先に座らせてもらい、近くにいる母(牧師)に電話をし、状況を説明しました。しばらくすると救急車が到着し、救急車の中で処置を受けていると、母が駆け付けてくれ、救急隊員と警察とやりとりをしてくれました。私はその時点で自覚する体の痛みはありませんでしたが、とんでもない事になってしまったという思いから足の震えが止まりませんでした。救急隊員からは、「運転中に意識がなくなりましたか?ワクチンは何回接種されていますか?」と聞かれたのですが、おそらくワクチンによって運転中に気を失ってしまう人が多いのでしょう。しかし、私の場合は、理性や自制では耐えられないほどの眠気、抗えないほどの眠気との戦いの中での事故でした。集会での学びをブログに書き表す際、よく寝落ちしてしまうほどの眠気に襲われる事があり、これはよほどサタンが書かせたくないのだなと思いながら、戦ってきました。事故当日も、朝から同じような感覚の眠気が一日ありながら久しぶりの保育園勤務を終え(マスクを外しての勤務だったのでシェディングによる眠気もあったのか?)、帰宅途中に襲ってくる眠気の霊と戦っていました。そこまで眠気があるなら休憩するべきでしたが、自宅が近づいていた事もあり「あと少しだから」という思いで運転を続けた矢先の事故でした。判断ミスでした。

私は救急車で病院に搬送されてしまったので、実際車がどのような状態になったのか、その場もどのような状況かよくわからなかったのですが、誰もが、私が無傷であったことに驚くほどの事故現場だったそうです。私は全身のCT検査を受けましたが、脳、骨などどこも異常なく、すぐに迎えに来てくれた父の車で帰ることができました。

 

大変だったのは、現場に残り警察と対応してくれた母の方でした。駆け付けた母は、事故現場を見て、死んでいてもおかしくないと思ったそうです。事前に私から連絡を受け、無事であることは確認できていたから良かったと・・・。

現場は渋滞し、警察官4人が交通整理している状況で、横転した事故車両を早くレッカー車で動かさなければなりませんでした。救急隊員にも病院まで後ろをついてくるよう言われていましたが、警察官から「道路標識を早く直し、レッカー車を手配しなければならない」と言われ、続けて「お母さんが病院に行っても検査中待っているだけだから、ここの処理をした方がいいです。契約している保険会社はどこですか?」と聞かれました。母は、保険会社が分からず、保険のことを分かっている私の主人(K兄弟)となかなか連絡が取れなかったため、保険会社を通して対応することは一先ずやめ、皆に迷惑をかけている状況を一刻も早く解決しなければという思いで、警察が使っているレッカー車屋に来てもらうようお願いしたそうです。高額な費用がかかると警察官に言われたそうですが、ならば自分が払えばいいと思ったそうです。そして、母は父に電話をかけ、お世話になっている車のディーラーまで事故車を運べるよう、ディーラーの担当者に連絡してもらったそうです。担当者も、事故車両を見ていたので、私が病院からディーラーに行くと、無事であったことに驚き「本当に良かったです」と言ってくださいました。そこから、保険会社との対応をして下さいました。車は修理するよりも、新しく購入した方が良いぐらいの状態で、主人が自分の車両に対する保険をかけていなかった事もあり、新車を購入することにしました。入っていた保険でレンタカーを30日借りれることになり、新車が手に入るまではレンタカーで過ごすことになりました。しかし私は、“新車を購入してもすぐに納車されないかもしれない・・・それなら1日でも多く実家の車を借りていたほうがいいか”と思い、すぐにレンタカーを借りることを一度断ってしまいました。そこを母(牧師)に指摘され、「あなたにはすぐに新車が与えられるという信仰がないのか?30日以内で与えられることをなぜイエス様に求めないのか!?」と戒められました。確かに私は現実問題だけを見て物事を判断していることに気付かされ、悔い改めました。

そして、主人と新車がすぐに与えられるよう祈り求め、昨日のイースター集会の前に、ディーラーに行きました。すると、担当者が30日以内に納車できる普通自動車を紹介してくださり、車種、色ともに二人の思いが一致して、すぐに購入手続きをすることができました。主人が結婚する前に買っていた軽自動車(事故車両)を、結婚しても夫婦一台で使っていたのですが、もともとその軽自動車を購入した経緯についても、当時牧師から主人は忠告を受けており、将来的にはやはり普通自動車に買い替えなければと話していました。なので、自分の命をかけての事にはなりましたが、このタイミングで車が変わることは喜びとなり、互いに全てが新しくスタートできることに感謝しました。

 

第1テモテ6:7~12本

わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。 

 

第1テモテ6:17~21本

この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。

テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして、俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。恵みが、あなたがたと共にあるように。

 

アーメン宝石ブルー

私たちは、神に望みを置くことによって、すべての物が豊かに備えられると約束されています。しかし、サタンは自分に仕えるように、富むことを願い求めさせ、富(お金)に望みをおくような生き方をさせてきます。この世を愛し、地位名誉を求め、この世から何かを得よう、得しようと考えて生きていたら、ある日突然命を奪われることになる・・・それが霊の世界です。私自身、振り返ればレンタカーの事一つとっても、自分の得を考えていたわけであり、それはお金を握っていることもでありました。

また、聖霊の導きの中で右か左か瞬時の判断が必要であることも、母がレッカー車をお願いする際に、瞬時に自分の得を考えるのではなく、周りの人に迷惑をかけないための判断をしたことを通しても語られました。その姿勢こそが神の好意を得て聖霊が働くクリスチャンの姿勢であるのだと語られました。

私たちは『クリスチャン』という看板を背負って生きています。周りに信仰表明をしているなら、「この人はクリスチャンだ」という目で見られていることを忘れてはなりません。もちろん事故現場で母が「牧師です」と名乗ることはありませんでしたが、イエス様がどう見ているのかを思い、母は誰に対しても最善の行ないをしました。そんな母の言動を通して、まるで御使いのように周りの人たちがとても親切に対応してくださったそうです。どんな時も、困難な状況下であっても、主に信頼し落ち着いて、クリスチャン=みことばに従う者らしく徹底的に振る舞うことの大切さも語られました。

 

今回の事故に対してのみことばを求めて聖書を開くと、まず雅歌8章6節の【ねたみは墓のように残酷だからです。】というみことばが目に入ったのですが、“わたしは誰かをねたんでいるのか?”と思うも、霊にすっと入って来なかったため、別のみことばを求めました。そして、次に開いたのが、マタイによる福音書26章41節でした。

 

マタイ26:41本

誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。

 

アーメン宝石赤

これはイエス様が十字架にかかられる前に、ゲツセマネという所で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈っている間、弟子たちが眠ってしまっていたことに対しておっしゃった言葉です。私にとっての誘惑とは何か・・・心はイエス様に意志を向け、いつも仕えたい、従いたいと思い、事故をした時も、イエス様が牧師を通して送って下さった動画メッセージを聞きながら運転していたのですが、みことば通り、肉体が弱く、実際に運転中に眠っていた事からも、このみことばが霊に刺さりました。そして、集会で信仰についてのメッセージを聞き、今回の事故について、母(牧師)が詳細を話し、私も話をすることで、レンタカーの事一つとってもすぐに不信仰になり、損得勘定をし、イエス様に祈り求めようとしない霊的状態に気付かされ、現実問題という誘惑に対して肉体が弱いのであると解き明かされました。

 

そして母(牧師)は、娘(副牧師)が事故を起こしたという事に対して、「イエス様、これは迫害ですか?刈り取りですか?これでもし娘が命を落としていたり、誰かをケガさせたり、命を奪うような事になっていたら、私はもう牧師とは名乗れません。神に見捨てられたという事になります。一生被害者に対して罪を償うしかないけど、許されることもないでしょう。みことばを下さい!」と朝方まで祈り求めていたそうですが、イエス様はみことばを通して「喜びなさい」とおっしゃるだけでした。

さらに、詩篇138篇から、【主はわたしのために、みこころをなしとげられる。主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。あなたのみ手のわざを捨てないでください。】(8節)というみことばを下さったそうです。そして、翌朝聖霊に導かれて聞いたある牧師のメッセージが、先に紹介した詩篇22篇のみことばだったのですひらめき電球神は決して見捨てることなく、神に信頼する者を守り抜いて下さったのです。

 

最初に示された【ねたみ】についても、今の世の中でワクチン未接種でいることに対するねたみ(ついにWHOがワクチンを打たなくてもいいと方向転換しました)、教会に若者が多く、この2年間で4組のカップル(兄弟姉妹)が結婚式を挙げる事・教会が繁栄している事に対するねたみ、仏教の霊に囚われている人々からのねたみなど、自分では気づかないうちにねたみの霊力を受けていることも示されました。ねたみはイエス様を十字架につけた霊力です。私の事故はまいたものの刈り取りではなく、迫害であると、牧師からの解き明かしを通して教えられ、主人(K兄弟)が頂いたみことばを通しても再確認することができました。

 

第2テモテ3:10~15本

しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

 

アーメン宝石緑

 

もし交通事故で命を落としていたら、土曜日は通夜で、日曜日集会は葬儀だったでしょう。母と妹はそんな話をしていたそうです。本当に家族には迷惑をかけ、驚かせ、心配させてしまいました。家族がそばにいなければ、どうなっていたのかと思いますし、すぐに連絡を受けられなかった主人も、緊急事態に対する備えができていなかったことを悔い改めました。

私は、金曜日の朝、“日曜日はイースターだから、今日はイエス様が十字架にかかった日だな“と思っていました。ですから、運転中に眠気が来た時に、サタンが殺しにかかってきたとも思いました。神に仕えて働く者をサタンは一番嫌がり攻撃してきます。毎週ブログで真実、真理を発信できるのもイエス様の血の守りがあってこそできる事です。体への攻撃を受けることはあっても、重症化せず乗り越えてきました。しかし、今回ほどの攻撃体験は初めてでした。私は事故を起こしてしまったことでイエス様の守りの中にいなかったのだと思い落ち込みました。車に置いていた傘が見つからず、霊的に神の守りをあらわす傘を紛失してしまったことも気にしていました。冷静になればなるほど、サタンに狙われたことを恐れました。本当に殺しにかかってくるのだと痛感しました。しかし、私は生きています!サタンは私を殺せませんでした!炎運転前にハンドルにイエス様の十字架の血を注ぐことがすでに習慣となり、特に意識することなく行っていましたが、それがいかに大切であるか、血を注いでいたことによって無傷であったことに感謝しました。

 

そして、事故を起こしてしまったことを悔い改めた時、イエス様の守りがなく事故を起こしたことを落ち込むのではない、大事なのは皆が驚くような事故であっても、無傷で守られたということ、イエス様の守りは確かにあったのだと感謝が満ち溢れました。そこにイエス様を信じる者の特権・証があらわされているのだと語られました。「イエス様を信じる者は失望に終わらない!必ずどんな事があっても守られる!」と確信をもって言える証を与えられたことに改めて感謝しましたキラキラすると守りの傘も、事故車両の中から出てきました。

また、信仰の弱い父と病院から帰る際、「本当に無事で、不幸中の幸いだったな」と父がしみじみ言ったので、「うん・・・イエス様が守ってくださった!!」と言うと、「本当にそうだなぁ」と認めていました。事故が起きたことに目を向けるのではなく、その中で守られたことに目を向ける父であり、共にイエス様への感謝に至れたこと、万事を益としてくださったことに感謝しました。

 

イエス様は十字架にかかり、3日目に死人の中から復活されました王冠2私も一度死んで生まれ変わった気持ちで、今週のイースター(復活祭)集会に着席しました。十字架刑から復活までの3日間を、霊的に体験させられたような感覚でした。「車は自分の体である」と言われてきましたが、神殿同様、金曜日に打ちこわされた車は、日曜日には新車に変わりました。私たちは、みことばの内をイエス様と共に歩むことができます。それがいかに平安な事であるかを忘れず、全てのことに感謝し、信仰をもってますます主に仕える者となれたことを感謝して祈りますピンク薔薇全ての栄光はイエス様に帰します!!まじかるクラウンキラキラ