神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしない者 | ぶどうの木 Good News

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしない者

holygirlですニコニコ

 

クリスチャンは皆、神の御前で高価で尊い存在であり、それぞれがイエス・キリストを証するための召しをもって選ばれ救われます。年齢や住所も知らない人たちが、ただイエス様に対する信仰によって集い、互いに愛し合い、励まし合い、尊敬し合っているのが教会です。集会(礼拝)の準備、洗礼式、結婚式、葬式、遠方にいる兄弟姉妹をもてなすことなども、働き人の労苦と皆が忠実にお返しした十分の一献金によって行なわれます。いつ誰が導かれるのか分からない、長年在籍していても、今日明日突然教会を出て行く人がいるかもしれない中で、私たちぶどうの木が16年間教会運営を継続できてきたのは、イエス様に対する“忠実さ”があったからです。そんな中で、自身の召しを成就するためのオーダーメイドの主の訓練も与えられてきました。一人のクリスチャンが解放と勝利を得る時には、必ず牧師をはじめとしたキリストの肢体の祈り、導き、忍耐と寛容による見守り、無条件のゆるし、キリストの愛が注がれています。キリストの肢体・神の家族は、【右の手のしていることを左の手に知らせるな】(マタイ6:3)と書かれてある通り、「自分が祈ってあげた、自分がやってあげた!」といちいち主張しません。行いの全てが主にあって初めてできることなので、誇ることもありません。各自が自分とイエス様の関係のゆえに黙って祈り、みことばに基づいた信仰の行いをしているだけです。全ての栄光をイエス様に帰していれば、逆に超自然な聖霊の力によって、「私のためにあの人が祈っていてくれた」と、相手に悟らせて下さることはあります。

また、兄弟姉妹と交わり、証を聞くことは信仰を強めることに繋がります。聖霊による証には、現実問題にぶつかり不信仰になっている人や、霊的な戦いで苦闘葛藤している人を解放させ、霊を力づけて立たせる力があります。これから自分に起こってくる訓練を、どうやって乗り越えるかの答えも示して下さいます。ですから、証を語る側は、聖霊がどのように働いて下さったのか、どんなみことばを頂いて信仰の行いに移せたのかを、強調して伝えることが大切です。

 

このように教会運営は、隣人愛によって行なわれています。そして、教会内で神の愛を受け、他者(兄弟姉妹)に関心をもって接することを学んだのなら、次は外に出て行って、かつての自分同様サタンの支配下にいる人々に福音を伝え、救いに導きたい思いが生まれていきます。しかし、クリスチャンでありながら、福音に対する意欲がわかないのであれば、自分のためのイエス様(=ご利益宗教)で、神の御心を知らない偽クリスチャン・二心者になっていると言えます。二心者は何も得ません。クリスチャンが何かを握れば、サタンはそれを巧みに使って誘惑し、イエス様から引き離そうとしてきます。握ったものに関心がいけば、やがてそれが自分の重荷となり、不信仰のパン種が膨らみ喜びを失っていきます。せっかくイエス様が導いて下さった教会で、証を聞き、自分にとって益になるはずの学びをしていても、月曜日から土曜日までの日常生活の中で肉の思いに従っていたり、牧師や兄弟姉妹が語ることに疑いや裁きの思いを持っていたら、聖霊に満たされて福音に意志を向けることなどできません。救われて、【生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。】(ガラテヤ2:20)という状態になったにもかからわず、自分の意見や感情をもち、主張し始めたら、救われる前と同じ的(聖書)外れになっていきます。7倍悪くなってしまうとも聖書は教えています。

 

唯一の神であるイエス・キリストに出会い、救われた人は皆、神に選ばれ神の御心を行うために立てられたキリストの兵卒になることが求められます。キリストの兵卒は、司令官であるイエス様を喜ばせるために、司令官の声をよく聞きます。ぶどうの木牧師の母教会では、分からないことがあっても、まずはイエス様に聞く訓練だと言って、すぐに答えをくれなかったそうです。そのため、毎日体中にアンテナを張り、何をしていても、テレビを観ている時も、音楽を聴いている時も、イエス様からのメッセージ、答えがあるのではないかと思いながら、過ごしていたそうです。鼻から息の出る者に頼るのではなく、救われた時に神と繋がることのできる完璧な霊がよみがえっていると信じて、神・イエス様の声を直接聞きたいと求めるのであれば、必ず応えて下さるのが真の神です。何が真実で何が嘘か、情報社会の中においては分からないこともたくさんあり、右に行くか左に行くか、これをするべきかやめるべきか、コロナワクチンを打った方が良いかどうかなど、生きていく中でその都度選択を迫られますが、神の御前に真実は一つしかなく、神と繋がれば進むべき道もはっきりと分かります。答えはすべて聖書にあり、御霊によって歩むなら聖霊は時にかなって美しく思いを入れ、導いて下さるからです。

 

しかし、神より偉くなろうとして高ぶり、天から落とされたサタン(ルシファー)は、神に愛されている人間を妬み、天地創造の真の神に絶対に従わせまいと攻撃してきます。サタンの支配下で人間がつくった学問(科学・進化論など)や道徳教育、テレビや音楽、漫画、周りの人の声(情報)にのめり込んでいけば、混乱していきます。医者や学者が言うことも、そのまま鵜呑みにするのではなく、私たちの絶対的権威であるイエス様に聞き、見極めなければ危険です。カルト化しないために理性は必要ですが、理にすぎると、聖霊の導きを感じられなくなり、霊の世界のことが馬鹿バカしくなり、嘲りの霊に捕らわれてしまいます。聖書には何と書かれているか確認することを怠っていけば、どんどん無防備になり、自分が何者であるのかを忘れてしまいます。

ですから、私たちクリスチャンはまずみことばをただ幼子のように日々霊に食べ、牧師を通して与えられる霊の乳を慕い求めなければなりません。感謝なことに、聖霊のバプテスマを受けたのであれば、聖霊によって神の言を思い出すことができ、聖書の神は、無から有を生みだす神、心を探り試みられる神、【古いものは過ぎ去った、見よ、全てが新しい!】と教えて下さる神であることを体得することができます。さらに、聖霊の声に聞き従って生きることに意志を向けているなら、聖霊の賜物である【霊を見分ける力】によって、サタン・悪霊の策略を知り、戦うこともできるのです。キリストの兵卒・神の僕の歩みは決して失望に終わることはありません。神は祝福と呪いの道を常に私たちの前に置きますが、必ず祝福の道を歩めるように聖霊を通して真実を知らせてくださるのだと、私たちは今回のコロナ禍で、特にワクチン接種から守られてきたことを通しても語られてきました。

 

第1ペテロ1:22~2:17本

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。

この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。

愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。

あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。

 

アーメン宝石紫

 

そして、私たちは牧師を通して、【神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。】(ピリピ3:3)というみことばが与えられ、「どんな時もみことば=イエス様が一番になっていますか?誇りとしていますか?」と問われました。自分の意見や感情、サタンの支配下で学んできたこと、培った常識、価値観をもっているなら、救われてもなお律法による自分の義を行ない、自分の肉を頼みとしているなら、せっかくよみがえった霊は圧迫され、萎んでいく一方です。また、目の前の相手の態度や発言に目を向け続けているなら、血肉の戦いになり、的外れが加速していきます。その人間を使っている悪霊がいることに注目しなければ、悪霊の挑発にのって、自分の身にどんどんまいたものを刈り取ることになります。

ヨハネ1章には次のように書かれています。

 

ヨハネ1:1~14本

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 

アーメン宝石緑

初めに自分の意見やこの世の学問ではなく、みことばです。すべてのものは言葉によってできたからこそ、日ごろどんな交わりをし、その中でどんな言葉を出しているのかは、命に関わるほど重要なことです。安易に言葉を出したり、白でも黒でもない相手に同調するだけの中途半端な言葉を出すぐらいなら、黙っていたほうが良いでしょう。癒し一つとっても、いつまでも「ここが痛い」、「まだ完全には治っていない」と言い続けるなら、癒しに対する信仰などありません。何事も、成就したと信じ、感謝を捧げて祈ることが大切であり、自分の状態・状況説明することは祈りとは言えません。すでに死に、イエス様が生きておられる体に、痛みも苦しみもありません。それはサタンが持ってくる嫌がらせ、偽りの状態にすぎません。私たちが、神の子となる力を与えられたことに感謝し、一度祈った祈りは神がきいてくださったと信じ、肉の状態に左右されず、信仰の一歩を踏み出すことで、悪霊は去り、神の栄光をあらわすことができるのです。明日の自分は今日の自分の言葉でできている!そう思って、霊を立たせる言葉を出すことが大切であると語られました。

 

今週の集会は、イザヤ書35章のみことばから始まったのですが、この霊的な預言を、ここまでのメッセージを通して分かりやすく理解することができましたベル

 

イザヤ35:1~10本

荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う。これにレバノンの栄えが与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。

その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。

そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

 

アーメン宝石ブルー

聖書は一般的に神学として学べますが、学問で受けていくと聖霊が働けず、霊が死んでいきます。紅海が2つに割れること、水がぶどうの酒に変わること、5つのパンと2匹の魚で大衆を満腹にさせたことなど、聖書には「どうやって?そんな事できるわけない」と思えるような神の奇跡の御業がたくさん書かれています。牧師の中には、ノアの箱舟の話を、はっきり「これはおとぎ話です」と言い切って教えている人がいるほど、神学として聖書を読めば、理解がついていきません。

上のイザヤ書のみことばには、【目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。焼けた砂は池となり、かわいた地は水の源となり、山犬の伏したすみかは、葦、よしの茂りあう所となる。】と書かれていますが、この部分一つとっても、学問的に読めば、「どうやって?」といちいち科学的根拠を求めたり、「そんな事はあり得ない!信じられない!」と言う人もいるでしょう。しかし、霊で聖書を読む時、全てが自分自身へのメッセージとして受けることができるのです。

 

例えば、モーセがエジプトで奴隷になっていたイスラエル人を連れ出し、紅海を2つに分けてエジプト兵から逃れた話は、牧者(イエス様)がサタンの支配下であったエジプト(この世)から、サタンの奴隷になっていた私たちを連れ出して下さったこと、さらに紅海を2つに分けて唯一の大路を示して下さり、そこを通る者は、敵(悪霊)の攻撃を受けないのだと教えてくれます。イザヤ書の【そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえられる。汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、愚かなる者はそこに迷い入ることはない。そこには、ししはおらず、飢えた獣も、その道にのぼることはなく、その所でこれに会うことはない。ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。】というみことばにも繋がります。

そこから、この世であるエジプトを愛し、エジプトに留まったまま、あるいはそこに戻ろうとして新しい道に進めないのは愚か者であること、彼らは生ける水が流れ出るのを妨害する者であるため去っていくこと、教会はエジプトから出てきた人たちが楽しみと喜びを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る場所でなければならない事が語られます。そして、クリスチャンの歩みについても、神の導きによってエジプトを出たのに、紅海を前にして不信仰になっていないか、牧者を信じて進むなら、海は開け、大路・聖なる道を歩んでいけるのだと語られます。

 

いくら聖霊が導き、気づけるようにノックしていても、御言葉以外のものを握っていたら、魂(知性・感情)の土壌はカチカチです。せっかく牧師を通して生ける水が与えられても、浸透していきません。冒頭に書いたように、教会内で受けている恵み、恩を忘れたり、聖霊の導きが見えなくなり、どうして今ここに至っているのかを忘れたら、その心にできた隙間から悪霊が入ってきて、魂(知性・感情)が汚されてしまいます。結果、罪人(=的外れな者)に戻され、神に選ばれ救われたことに対する責任を果たすことはできません。

今週は、自分が学んできた学問(知識)を握って霊が圧迫されてしまった羊、趣味と自分の感情を大事にするあまり、背信行為を続けていた羊、献金ができずみことばに100%従っているとは言えずにいた羊が、みことばと、聖霊による悪霊の追い出しによって目覚め、悔い改めてイエス様のもとにたち帰ることができました。そこに至るためには、隣人クリスチャンの信仰に基づいた愛の行い、忍耐がありましたが、神は人間に自由意思を与えておられますから、最終的には本人が握っているものを手放して、みことば=イエス様だけに従っていく意志を向けたことによって、闇の勢力が立ち去っていきました。

 

第1ペテロ2:18~25本

僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

 

アーメン宝石赤

 

この世で生きている限り、悪霊はいつも私たちが出す言葉を聞き、感情を見て、自分たちが入る隙を狙っています。ですから、クリスチャンとしてどんな交わりをしているのか吟味し、日々気をつけなければなりません。そして、悪霊の存在があるから、聖霊が助け主として与えられていることを忘れてはなりません。悪霊に対抗できるのは聖霊の力ですから、私たちはその力を軽んじることなくますます体得し、行使して、人々をサタンの獄屋から救出し、全ての策略に勝利を得ていかなければならないと語られました。

 

詩篇96篇本

新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。

 

アーメンまじかるクラウン音符